『FIRST DANCE SCENE(10)』

 慌てて駆け込んだトイレから戻ると、ちょうど美恵先輩が財布から取り出したカードをカルトン会計皿に乗せているところだった。

 少し冷えた頭でお礼を言いながら近づこうとするが、受け取った店員が目を丸くしてカルトンの上と先輩の顔を何度も見比べていたので、なんとなくタイミングを失ってしまう。


「……どしたん?」

「あぁ、いえ、別に?早かったですね」


 代わりに出たその問いかけをはぐらかし、先輩はいまだテンパっている店員へと軽く目配せを送る。その柔和な圧力に晒された途端、店員は半オクターブ高くなった声と共に、あからさまに浮足立った様子でレジへと戻っていった。  


「本当は、戻ってくる前に済ませたかったんですけど」


 これ以上の追及を避けたいのか、俺が何かを言う前に先輩はさっさとコートを羽織り、バッグの紐を肩に通して長椅子から出る。引き寄せたふたつの包みを小脇に抱える際だけは、その手先にも丁寧さが見て取れた。

 それは送った側として喜ばしい……のはさておき、おかげでもう一度座ろうとしていたこっちはひどく半端な姿勢のままストップを余儀なくされる。


「あ、もう行く?」


 その間抜けなポーズのまま問いかける俺に、先輩が口に手を当てて小さく笑った。

 いやまぁ、そのリアクションは可愛らしいんですが、いかんせんこっちは最後にもう一口喉を湿らせたいんです。天井の回転こそ止まってくれたものの、あの衝撃で口の中は未だにカラッカラなもんで。


「ちょっと、ここで待っていてもらえます?」


 という俺の視線を正しく汲んでくれた先輩が、口元から離した手で着席を促してくる。その言葉に甘えて腰を下ろし、もう一度顔を見ようとした時には、その姿は既に暖簾の向こう。

 荷物も全部持っていっているあたり、ここに座ることはもうないようだ。


「こいつは置きっぱだけど」


 チェイサーを傾けざま、テーブルの端にポツンと忘れ去られていた時計を見つけ、思わず声に出してしまう。

 はてさてあの性急さはこれ以上の追及を避けたかったのか、それとも単に会計する姿を見せるのは気を遣わせると思ったか。引き寄せた薄いパールピンクの文字盤に細いバンドの腕時計をポケットへと乱雑に突っ込みながら、しばし考える。

 ……おそらく、前者だろう。

 去り際に一瞬だけ見えたあの黒いカードには見覚えがあった。ネットショッピングの支払いがいい加減面倒でクレカを作ろうとした際、冗談半分で検索した時に引っ掛かってきた奴……年会費だけでウン十万する『なんちゃらセンチュリオン』とかいう奴じゃないのアレ?それなら店員のあの狼狽も納得がいく。

 レジの方からはその店員とは違う声と先輩のやりとりがまだ聞こえてくる。案外掛かっているようだが、なんにせよもうしばらく顔を出さない方がよさそうだ。

 んで、その暇に飽かして端末を取り出して検索にかけ、結果に思わず含んだ水を吹き出しそうになった。


「嘘だろ、オイ」


 検索結果の一番上に表示されていたカードと記憶の姿はあっさりと一致した。それ自体は別に驚くことじゃない。

 問題はそれが家族会員とかじゃなく、本人しか持てない類のものだったことだ。ポンコツじみた箱入り感とは別に、お金持ちな空気もちょいちょいとは感じ取っていたが、まさかそのレベルとは。

 ガチで限られた層しか持つことの許されないそれについて、あんまり根掘り葉掘り聞かれたくないのかな。

 まぁ、誰だって奇異の目に晒されるのは好きじゃないし、その気持ちもさもありなんといったところだろう。

 っつうか元から訊ねる気もないけど……などと思いながらチェイサーの残りを飲み下し――

 そこでふとあることに思い至って、先輩の腕時計を慌てつつもそっと引っ張り出す。

 つまりはこいつも、その身分に見合う代物である可能性が高い、というわけだ。正確な値打ちこそ分からんが、うっかり傷でも付けようもんなら下手すると何年かただ働きする羽目になるかもしれない。

 テーブルの隅からナプキンを1枚失敬し、丁寧に包んでから内ポケットへ滑り込ませ、ゆっくりと席を立つ。

 タダより高い物はない――なんて故人の金言を思い浮かべながら、胸元を気にしつつ先輩の後を追った。






 ※     ※     ※





 わざわざ見送りに来た店主に気まずい面持ちで頭を下げ、店の庇を出た途端、鼻先に冷たい感触が落ちてきた。


「あー……降ってきちゃったか」


 1歩下がって鉛の色が尾を引く夜空を見上げながら、そんな文句を零してしまう。とはいえ朝からいつ降ってもおかしくないような空模様だったし、むしろここまでよく保った方と言えるだろう。


「傘、持ってきてないな」


 そんな俺を見て片手で器用にバッグの中を改めていた先輩が、やがて諦めのため息を吐いてその手を止める。それからわずかな期待を込めてこっちを見てくるが、俺としても力なく首を振ることしかできない。

 二日酔いで迎えた今朝は元より余計な寄り道をする気力もなかったので、空が泣き出す前に帰れるだろうと踏んでいた。

 多少濡れたところで風邪なんてそうそうひくもんじゃないし。


「しゃーない、どっか近くのコンビニで買うべ」


 とはいえ、その論理を女の子に押し付けるのは流石に乱暴ってもんだ。明るく言いながら交差点までひとっ走りし四方を見回すが、そこで改めて今俺達の立っている場所が閑静な住宅地であることを思い知らされた。

 すなわち、どう目を凝らしてもそれらしき明かりは見当たらない。そういえば夕方にここまで歩いてくる最中、スーパーくらいは見た気がするが、コンビニの看板を目にした覚えはない。


「うーん、気の利かない男でごめん」

「大丈夫ですよ。タクシー呼んじゃいますから」


 とぼとぼと戻った俺の謝罪に今度は先輩が声を明るくし、いつもの事とばかりに端末を取り出し耳に当てる先輩。

 お礼とはいえ店を選んだのはこっちだ。さすがに足代まで持ってもらうのは気が引ける。ここは黙って乗って、去り際に有無を言わさない勢いで出すか……などと頭で算段を立てていると、隣でオペレーターとやり取りを始めた先輩の声色が急に曇った。


「……30分以上掛かるそうです。今さっき起きた人身のせいで、ものすごい混んでるらしくて」

「30分」


 マイクに手を当ててこちらを見る先輩の言葉尻を、思わず繰り返してしまう。

 夜も深まり、冷え込みも結構キツくなってきた。寒空の中30分もボケっと突っ立ってるのはあまり望ましい事態ではない。

 それなら中で待たせてもらうかと振り返るが、いつの間にか入口の明かりが落とされた店は、どう見ても本日の営業を終了していた。


「まいったなこりゃ」


 後ろ頭を掻く俺と空の間で目線を往復させていた先輩が、やがて何かを決したように小さく頷く。

 その意味をこっちが問う前に、丁寧な口調で待たせていたオペレーターに断りを入れて端末をバッグにしまいこんだ。


「……まだ小雨ですし、駅まで歩いちゃいますか」

「いいの?」


 ――そのお召し物が濡れてしまいますぞ。

 さっきの一幕のせいで余計な一言が頭をぎるが、なんとか口から出すことは抑えられた。確かに彼女の言う通り、目に見える雨足はまばらで、霧雨の方がまだ濡れると言っていい勢いだった。


「早足なら10分掛かんねーか」


 しばらく考え込んだ末にでたその言葉を承諾と取ったのだろう。先輩がやや悪戯めいた顔で笑って一足先に庇の外へ出る。


「もし風邪ひいたら、次は石井君のおごりってことで。高いとこで」

「よし、5分でいこう」

「中距離走になりません?それ」


 消し忘れたラジオのホワイトノイズにも似た雨音の中、冗談を飛ばし合いながら人気のない道をそぞろ歩く。小包みをひとつ引き受けた右手の先が、時折彼女の左手の先に触れて、その度に伝わる冬空の中唯一の熱に、弾んでいた会話が一瞬だけ止まる。

 割とこっ恥ずかしいが、周りの目がないせいか、その沈黙も存外悪くない心地だった。





 ――歩き出して5分もしないうち。

 互いの声が聞こえないほど雨脚が強くなるまでは。

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