84『創傷、兆候、焦燥』

 目の前には小さな頃からの俺の好物ばかりが並べられているというのに、全くと言っていいほど箸を動かす気になれない。

 それは食卓に満足のいく量の塩が備え付けられていないから、という理由だけではないだろう。


「それじゃあ、職場も一緒なんだ?」

「ええ。ついでに言うと部署も一緒」

「そんな偶然あるんだねぇ!」


 はしゃぐ和也に微笑む美影さん。それを眺めて目を細める母さん。

 ……そして顔を歪める俺。

 数年ぶりに実家で囲む食卓は、想像を遥かに超える苦痛を伴っていた。何を口に運んでも砂を噛んでいる感覚しかない。


「美恵ちゃんみたいに優秀な子と机を並べてるなんて信じられないね……余計な手を煩わせてない?大丈夫?」


 2人の弾む会話に時折、喜色と少しばかりの憂慮を込めた口調で母さんが混じる。ダイニングに着いてから箸を置くまでこっち、こんな風にほぼ俺が入る余地のない会話を頭の上で繰り広げられたせいで、食後の茶を啜る頃には眼の奥が重たくなるほどの倦怠に体が包まれていた。


「まさか。私にだって入社試験を受けろっていう人です。父は能力に関係ない特別扱いはしない人ですから」

「えー……本当?」


 母さんが少しふざけた口調と共にこちらに目を向けてくるが、答えようのない俺は乾いた愛想笑いを浮かべる事しかできなかった。

 本気で疑っているわけではないのだろうが、俺が会話へ積極的に参加していないのが気がかりなのだろう。

 そして本人は気づかれていないつもりだろうが、その横に座る和也もリアクションの度いちいちこちらをちらちらと伺ってくる。


「入社試験を受けさせてはもらったけどね……」


 その期待にずっと答えないままでいる心苦しさが、かといって取り繕う嘘も咄嗟に浮かばない口をもぞもぞと動かした。


「つーか、元々エントリーしてなか」


 どこまで話してよいものか。

 喋りながら考えていると、突然爪先に走った鋭い痛みに歪んで続きが喉に引っ込む。


「あいっ――!」


 代わりに上がってきた言葉にならない悲鳴を必死に押し殺そうとする俺に、和也が不思議そうな顔を浮かべて覗き込んで来た。


「どしたの?」

「……舌火傷しただけだよ。お茶が熱かったかな」 

「まだそんなに熱い?」


 自分の湯飲みを傾けて首をかしげる母さんに薄い笑いを返しながら、さり気なく目線をテーブルの下に向ける。

 やはりというべきか、隣の椅子から黒いストッキングに包まれた踵が俺の小指の先に乗っていた。


「大丈夫?」


 反射的に睨み付ける俺に訊ねてくる美影さん。向かいの2人には見えない絶妙な角度で、柔らかい表情に目元だけ冷たさを交えた笑顔を向けてくる。

 余計な事を口走るなという警告代わりだろう。怪我には気を付けろと言った口と同じ主とは思えない。


「……ご馳走様。食器下げるわ」


 ならばいっそこの場にいない方がいいだろう。

 反応を待たずに椅子から立ち上がり、卓上の皿を纏めていく。


「そんな慌てて下げなくてもいいじゃないの」

「まあまあ、兄ちゃん照れてるんだよ」


 そんな俺を見て呆れたように口を尖らせる母さんとそれを笑いながら窘める和也。


「あ、それなら私も手伝う……」

「いいって。水に着けてくるから、少しゆっくり――」


 一緒に台所に立たれる姿を見られちゃまた2人のテンションが上がる。

 そう思って腰を上げかけた美影さんに制止を掛けようと伸ばした手の先が、急速に上を向いた。

 ような気がした。


「あれ……?」


 まるで傷ついたディスクが読み込みに失敗したかのように、一瞬だけ目の前の景色が途切れる。


「達也?!」


 顔を横から壁に叩き付けられたような衝撃と、伝わる冷たさ。母さんの叫び声が上から聞こえた事で、やっと自分の身に起こった事を悟る。

 床へと倒れ込んだ体の前で、持っていた皿がフローリングに叩き付けられて砕ける音が景気良く響いた。 


「兄ちゃん大丈夫?!」

「……大丈夫大丈夫、ああ、全部割れちゃってんな……」


 駆け寄ってくる和也に心配を掛けまいと手を振りながら軽口を叩く。

 そうすれば当然、眼前に自分の手の甲が映る。

 腕時計を見る時、煙草に火をつける時、頬杖を付くとき、日常に幾度となく訪れるそんな瞬間に見慣れているはずなのに――

 肌の色が、


「やだ……立ちくらみ?手とか切ってない?」


 和也の後ろから近寄ってくる母さんの顔も、その手に持つ箒と塵取りも、割ったばかりの皿も、壁も天井も、赤い。


「なんだよ、これ」


 あちこちを見回しながら思わず零した小さなつぶやきに、それまで割れた音の大きさに目を丸くしたまま後ろに座っていた美影さんだけが反応し、視界の端でその表情から緩さが消え失せたのが見えた。


「……達也君、昨日まで働きづめだったから、疲れてるのかもしれません」

「そうなの?」


 それは鋭く変わった相貌とまるで釣り合わない細く頼りない声だった。

 しかし、割れた皿をあらかた片付け終わった母さんが美影さんの方を向く頃には、彼女の表情は口調に似合う色を張り付け終えていた。


「ええ、ちょっと部署で色々あって、その煽りを達也君が一番受けてますから……少し休んできたら?」

「や、俺は――」

「私の事は気にしないで」


 有無を言わせず言葉を被せられたことで、その裏にある意図を読み取ることができた。

 俺も彼女も、実家に挨拶しにきた恋人の振りをして懇親を深める事が目的ではない。

 アクシデントにかこつける形になったが、適当なところで部屋を探すタイミングを作ってくれたのだ。


「言われれば顔色も良くないね……充血もしてるし。美恵さんもそう言ってくれているんだから、少し横になってきなさいよ」

「こっちは心配しないで、お客さんを退屈させるようなことはしないからさ。まだまだ聞きたい話もあるしね」


 2人もそれに概ね賛成……というより、俺抜きで聞きたい話もあるようだ。

 下手な事を口走らないうちに彼女が来てくれることを祈りつつ、俺はダイニングを後にした。






 ※      ※      ※






「調子はどう?」


 2回の軽いノックが聞こえてベッドから身を剥がすと、すっかり普段の声色に戻った美影さんが顔を覗かせた。


「いや、もう平気です」   


 答えながら布団を剥いで立ち上がる。

 少し瞼を落としていただけのつもりだったが、壁に掛けた時計を見ると14時半。あれから小1時間は経過していたようだ。理由はどうあれ疲れているのは事実だし無理もないか。

 そういえば。

 思い立ちぐるりと部屋を見渡してみても、特段違和感を抱くことはない。深く眠り込んだおかげか、視界を覆っていたあの赤みも元に戻っていたようだった。


「やっぱりあの時、視界に何か変調を来していたのね?」


 あちこちに視界を巡らせる俺を見て、美影さんが潜めるような声で訊ねてくる。

 『やっぱり』という枕詞から、既にあの時俺の身に何かが起きた事を見抜いていたのが伺える。

 それならば本来不測の事態に弱い彼女が迅速に、かつ的確な理由付けまでこなして自然とこの部屋に訪れる流れを作れた事にも頷けた。


「ええ。ぶっ倒れた後に――」

「目に映るものが全部赤くなっていた?」

「何で解るんですか……」


 言い当てられて驚き、理由を訊いてみるが、彼女は直ぐに答えず、しばらく眉間に皺を寄せていた。


「……良くない兆候。症状が進行しているサインね。間隔が短くなったり、色味が強くなって来たら、直ぐに院長に報告して」

「マジか……」


 説明を終えて顔色を直すどころか、更に深刻なものにしている彼女を見て、思わず唾をのむ。

 既に何度か経験している上、段階的に視界の赤が強くなっている――などとは、とてもじゃないが言い出せない雰囲気だった。


「まさか――」

「あー……それより、そろそろ探し始めましょ?のんびりして呼び出しでも入ったら面倒だし」


 鋭く察知し追及の手を伸ばす彼女を、空元気とも言える大声で制する。

 そんな俺にいっそう眉根を寄せる美影さんだったが、構わず半身を逸らして話は終わりとばかりに机に手を掛ける。

 しばらくは温度の低い視線をこちらに向けて来ていた彼女も、やがて諦めた様に背を向け渋々後ろの本棚へと向かっていった。

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