82『終わりの先を切り拓け』
「……決めつけんの早すぎじゃないですかね。先の可能性を俺たちが作ればいいんじゃないっすか」
彼も俺と同じなんだ。
そう感じたからこそ、言葉はするりと出て来てくれた。
「美影さんがまだ生きていることを把握できんのが俺達だけなら、その俺達が間口を広げてやるしかないでしょう。それがあの人のした覚悟ってやつに釣り合う、唯一の返礼じゃないですかね」
「そうは言うが……」
ほら見ろ、決めつけてかかるもんじゃない。
戸惑いを交えて歯切れの悪い口を挟む院長を見て、口の端が自然と吊り上がった。
こんな俺の考え着くレベルの物事だとしても、全部が全部既に勘案済み、というわけではないのだ。
「例えばの話。戸籍を持たない事が生きる上でネックならば、誰か別人の戸籍を用意すればいい。そういった汚いやり方は何か社長が知ってるでしょ。死人が生き返るよりも随分と現実的な話だ」
間違いなく世界全体に影響を及ぼす新薬の許可を得る事よりも容易い事だろう。
段々いつもの調子が戻ってきて、口も滑らかになってきた。乾いた笑いを交えて鼻を鳴らす。
「確かに啓示ならば可能かもしれないが……あいつは何の利益も見込めず動く男では――」
「それなら俺が協力の対価として交渉すればいい」
なおも後ろ向きな院長の論を食い気味に遮った俺の文句に、彼は今日一番の衝撃を受けたようだった。
「なんすか、その顔……いまんところアンタらに利用されっぱなしなんだ。完成の暁には俺にも何か得るものがあっていいでしょ」
未だ呆気に取られて目を丸くする彼に向かって続けると、その口から大きな感嘆の息が漏れた。
「正直、君がそんなことを口にするとは思っていなかった」
「ボランティアは嫌いなんですよ」
我ながら薄っぺらい半笑いで返す俺に、院長はそうではない、と首を振る。
「ともすれば報酬云々の話は出ないとも限らんと踏んではいたが……それにしてももっと俗な、自分本位の対価を求めると思っていた。まさか君が美影君の為にその権利を行使するとは」
「……別に、今自分の為にぱっと思いつくものもないし、それならあの堅物に恩を売っておくのも悪くないってだけですよ」
美影さんの為、と改めて他人の口から言われると少し面映い。後ろ頭を掻きながら目線を逸らして呟く俺に、院長は嫌味なく鼻を鳴らした。
長くこの部屋を漂っていた
いそいそと箸を拾い上げ軽く拭いて握り直した俺を見て、彼もまた弁当の残りを平らげに掛かった。
「それなら、私には何が出来るかな」
咀嚼の合間にそう呟いて言葉尻にふっと笑いを浮かべる彼に、左手の人差し指と親指で輪を作って見せる。
「そら金でしょ。マニーマニー」
向けられた問いかけに碌に考え込みもせず、軽い口ぶりでニヤけて返す俺を見て、真面目に考えていないとでも思ったのか、院長は嚥下と共に渋面を浮かべた。
「いや、そんな直接的なものではなくだな……」
「いやーありがたいと思いますよ?戸籍を用意するのにどれだけかかるか分からないんだ。その間はまともに働けもしないだろうし……ちょっといいですか?」
「ん?」
長い事箸が止まっていたせいで、改めて口に含めると味の薄さは際立っていた。
向き合いながら俺の倍はあろうかというペースで箸を進める院長に一言告げて、俺は懐から塩の瓶を取り出し、白米から揚げ物からサラダまで、全てに振りかけていく。
「お、おいおい……」
容赦ない塩のシャワーを浴びて全体の色合いが変わった弁当を見て、戸惑う院長が威勢よく進めていた箸を止める。その反応にも慣れたものだった。俺と初めて食事を囲んだ人間は例外なく驚く。
鏑木なんぞは文字通り椅子からひっくり返っていたっけか。
「正気か?症状が進む前に塩分過多で死ぬぞ?」
目の前の行いが信じられないといった表情で視線をこちらにくぎ付けにする院長に、俺は訳もなく答える。
「いや、習慣になっているもんで」
「……習慣だと?いつからだ?」
「いや、会社に入る前からずっと……別にこれで体調崩したりはしていないですよ?健康診断もオール異常なしだし」
「その食生活でか?」
箸を口に挟みながら言う俺に驚きの目を向け、直ぐに納得のいかない様子で顎に手を当てて唸り出した。
ついで取り出した端末に目を落とし、俄かには信じられないと言った表情で深く唸る。
「確かに、上がってくるバイタルには血圧の異常は出ていないが……」
そこまで言って、何かに気付いたように院長の顎が跳ね上がった。
「まさか、死体の周りにあったのは、そういう事か……?」
俺に向けたものでないその呟きの後、しばらくの間聞き取れない声量で口早に何かを
ようやっとその口が閉じると共に、彼は一度大きく頷いてから更に箸のペースを速め、瞬く間に弁当を空にする。
「すまん石井君、早急に確かめたいことが出来た。ここの戸締りは頼めるか?」
言うが早いか彼の腰はもう浮き上がり、手早く弁当の殻を纏めに掛かっていた。それはもはや頼むというより半ば強制的な押し付けに近い。
「はあ……別に構いませんけど……?」
「書類の押印は秘書に頼んでおく!」
まぁ言うて、断る理由も無し。
俺の首が縦に振られるや否や、手にぶら下げたゴミ袋が乱暴に上下するほどに慌ただしく出ていく院長。の背中を見送りながら、ひとり残された俺は白い粒が無数に浮かぶ焼き魚を頬張る。
(随分と慌てた様子だったけど……いったいなんだ?)
彼から遅れる事およそ10分。空になった弁当箱に折った割り箸を置くまで考えを巡らせてみても、頭にその答えは浮かんではこなかった。
思索の間浮かべていた、彼の戸惑いと興奮を混ぜた様な顔を思い返す。悪い事ではなさそうだが……ともあれ、分からない事をいつまでも考えても仕方がない。
営業鞄を取ってジムの灯りを落とし、入口とは逆に伸びる廊下を歩いて外に繋がるスライドドアに手をかざす。
普段ここを行き来するのは陽が落ちてからなので、開いた先に望む景色は新鮮だった。出た先は病院が背負う丘の反対側。積もり始めた枯葉のせいで踏み出す先が道かどうかの判別に難儀しながら木々の間を歩く。
「っとと!」
5分ほどで傾斜を下り終え、正面に車の往来が見えてきたところで、濡れた落ち葉に足を取られ、視界がぐるりと後ろを向いた。
摩擦を失った革靴の底が天を向く程の勢いでバランスを崩し、転ぶ間際で体を捻って何とか手近な木に手を着く。
(あれ……?)
腰の痛みに耐えながら顔を上げれば、歩いてきた丘の頂上付近が視線に入る。ふと、その中央に人影を捉えた気がした。
改めて目を凝らすと、その背丈と纏うダークグレーのスーツには見覚えがある。
(社長……か?なんであんなところに?)
その先に浮かぶ西日のせいで顔までは分からないが、その前に立つ細いモニュメントの前に佇んでいるようだった。手には円錐状のものが逆さに握られている。
その先から飛び出して風に揺れる、社長室の机の端にあったものと同じ色彩。
(花束、か?)
正体に確信を持てないうちに、影は丘の反対側へと影は消えてしまった。残ったのは辺りの枯れ木とは明らかに質を異とする1本の直方体だけ。
もし見立て通り、持っていたものが花束だとするならば、あのモニュメントは誰かの墓石、と考えるのが普通に思える。
でも、だとしたら一体誰の――?
『もしもし、石井さん?田辺薬局よりお電話が入っていますが、藤沢様の後で直行できます?』
その答えも分からないまま、俺は掛かってきた小林課長からの電話で思考を中断され、その場を離れる事を余儀なくされた。
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