81『到達点=消失点』

「それで週末、美影君と君の実家に?」

「えーえ……」


 週中の昼時.。

 俺は営業に赴いたついでに藤沢院長に声を掛けられ、地下のジムスペースにいた。

 わざわざ呼び止めるとあって火急の事態を想定したものの、訊いてみれば特段なんのこともない、単なる昼食の誘いだった。

 特に断る理由もない俺は差し出された折り詰めの弁当を素直に受け取り、適当な運動器具に腰掛ける。

 今更何かを盛られる心配は……するだけ無駄だろう。


「今から気が重いですよ」


 ぼやきながら蓋を外す俺の目に、かぐわしい香りと共に色鮮やかな中身がお目見えする。その豪勢ぶりに思わず目を丸くするが、対面に座る院長は何の感動もなしに箸を割り、白米を頬張りだしていた。

 流石はセレブ。弁当ひとつとっても世人とはレベルが違うものを普段から食っているのか。


「そう言っている場合じゃないのは分かってますけど、わざわざうちまで来なくてもいいだろうに……」


 箸を指に挟んで一礼し、衣の着いた鶏肉を口に放り込みながらぼやく。

 そのお味は掛け紙に包まれた外箱と同じで良く言えば上品、だが俺にはあまりにも塩気が足りなさすぎた。


「彼女なりの気遣いさ。自分のせいで2度も傷を負わせてしまっているんだ。悪戯に時間を取って君の病状が万一進んでしまったら――そう考えているんだろう」

「いや思いっきりビンタされたんですが」

「それは𠮟咤の仕方が悪かっただけだ」

「えー……」


 微妙な贔屓目に納得がいかない俺に、院長は間のプルタブを引っ張りながら笑う。


「この期に及んで嫌がらせに精をだすような子ではないさ。それに彼女はもう、家族の前に姿を表せないんだ。家族と会う機会を棒に振る君を見て、思う所があったんだろう」


 諭してくる彼の視線こそ俺の方へと向いているが、その実俺を見てはいない。恐らく院長も美影さんの過去を語られた事があり、それを思い返しているのだろう。


「……俺には理解できませんよ。いくら恩人だからってそこまで」


 話を訊き、記憶との齟齬の全てに合点が行った今でも、俺は自分という存在を抹消し誰かの影になるという決断を下し、実際に行動に移した美影さんの心理を理解することが出来ないでいた。


「そう思うのは、君に価値観が崩れる程虐げられた経験も、そこから救い上げられた経験もないからだろう。幸せな子供時代を送っていたのだろうな」


 言葉の棘にちくりと刺された気がして、思わず弁当から目線を上げる。しかし彼はこちらを向く事もなく、大きな背を丸くして魚の骨を取り外していた。

 決して俺の今までを侮りたかった訳じゃないだろう。そこに話の主眼が置かれているわけでもない。ムキになって反論しても仕方のない事だ。


「だからって、それじゃ自分が無くなっちまうようなもんじゃないですか。いくら辛いことから抜け出せたって、それじゃあ」


 そう分かっていながらも苛立ちは募り、知らずして語尾が僅かに鋭くなっていた。院長の箸が止まり、呼応するように彼の瞼がすっと降りる。


「今のあの子に自分がないと?姿形だけを失っただけで、誰に強制されてもいない強い意志で事を成そうとしてるしている彼女を見て、君はそう思うのか?」

「いや、そういう事じゃなくて……」


 それからしばらく、言葉を探しあぐねる俺と返しを待つ院長との間には、箸が弁当の底をつつく音と、お茶の入った缶を置く音だけが響いていた。

 ……自分がない、か。人の事言えないよな。俺も。

 長いとも短いともつかないその時間が俺の波立っていた心を静め、その反動か思考を暗い方向へと傾けさせる。

 こんなことになるまで、自分の今までなんてあってもなくても一緒って、碌に調べもしなかった。その意識の薄さこそ、自分の過去を軽薄に捉えていた何よりの証拠だった。


 『意志無き徘徊者』


 いつしか社長に向けられた言葉が頭の中に蘇る。薬の呪縛から逃れたとして、そこからはまた何の目標も定めない、ただ今と比べ物にならない小さな困難をやり過ごすだけの日々に戻っていくのだとしたら、今の彼女を差し置いて俺は確かに生きていると言えるのだろうか。


「……美影さん自身って、今はどういう扱いになっているんです?」


 ――いや、それは彼女だって同じだ。

 本物の美恵先輩が意識を取り戻したその後、美影さんはどうするのだろう。そんな疑問が長い沈黙を終わらせた。

 研究が完成してしまえばいずれ、影を演じる必要はなくなる。完全に宙に浮いてしまうその存在を受け入れてくれる環境は、果たして残されているのだろうか。


「美恵君が手首を切って病院に運ばれた時、こちらに搬送する前にあまりに多くの人間にその顔を見られてしまっていた」


 語るべきかどうか迷ったのか、僅かな逡巡の末院長の口から出たそんな言葉は、答えとは程遠いものだった。

 当然とばかりに黙って続きを待つ俺へ、院長は重々しい口ぶりで続ける。


「アパートに駆け付けた救急隊員、運び込まれた病院の先の医師連中……発見された時点で助かる見込みがゼロだった訳ではないが、あれだけの時間を経れば重い後遺症が残ることは、医療従事者ならば誰だって解る」


 そこまで訊けば、俺にもその先にある答えが見えてきていた。

 投薬した時点で、美恵先輩が蘇るかはイチバチの未知数だった。その上いつ結果が出るかもわからない以上、対外的に運び込まれた彼女のしておく必要がある。手首を見れば誰だって死に瀕した原因が分かってしまうとあっては、未知の奇病だなんだと屁理屈をこねて時間を稼ぐわけにもいかないだろう。

 そして結果、今日現在を以って美恵先輩は目を覚ましていない。

 だがそれは単なる死ではなく、復活の望みを抱いたまま眠り続けているだけ。研究の成就によって目を覚ます可能性がある限り、軽々と故人にはできない。

 なら美影さんを『完全に回復した三吾美恵』としてICUから出す……それもノーだ。

 事を公にできない以上、美恵先輩に許される顛末は『死亡』か『重篤な後遺症を残して生存』の2択。更に彼女が病院へ運び込まれた後、美影さんは美恵先輩として会社に顔を出してしまっている。

 つまりはこの段階で、どの道『彼女が死に瀕した』という事実自体が世間へ受け入れられるものではなくなっていた。

 ……平たく言えば、状況なんだ。

 そして、美影さんの役割と言えば――


「自殺したのは美影君、という事になっている。死亡診断書は私が作った」


 やっぱりか。影武者の面目躍如も甚だしい。


「『彼女は同居していた美恵君に憧れる余り、本人と瓜ふたつに顔を変えていた』と嘘と誠を切り張りした説明を添えて、美影君が見ている目の前で家族に渡したよ。彼女こそもう戸籍も持たない、生ける死者そのものだ」


 続けざまに吐き出された口早な院長の言葉が、俺の想像にハッキリと輪郭を与えた。

 今までは単に、美恵先輩の影武者になっているから家族と会う事が許されない――そう漠然と捉えていたが、実際はそんな甘い軛ではなかった。

 仮面の下の彼女はこの社会にとって既に死者であり、存在し、行動する事自体があり得ない存在。その事実の重さが時間さで指から力を失わせ、地面にぶつかった箸が乾いた2連符を鳴らす。


「君の言う通りだよ。もう、『月島 美影』という人間の居場所はどこにもない」


 俺は彼女の語る過去を聞いて、少なからずその胸の内を理解した気でいたが、それは浅慮に過ぎる勘違いだった。

 箸を拾い上げる事も忘れ、下唇を噛む。全てが終われば意志ひとつで今までの日常に戻れる――彼女にとってはそんなゴールはとうに失われたものであり、それを承知で尚不退転の道を歩き続けている。

 歴然とした覚悟の差を前に、俺がその心情を理解できるはずもない。左脇腹がまた熱を持った気がした。


「それじゃあ、『それから』なんて考えられないじゃないですか……」


 いくら死人をこの世に蘇らせる薬が出来ても、既に焼いた灰まで元通りになんて出来はしない。家族が受け取ったのは偽の死亡診断書だが、その瞬間永遠に『月島 美影』という存在が社会から喪われた事に変わりはない。

 全てが終わったその後、社長と院長、そして美恵先輩と俺の4人だけしか認識の出来ない動く死人は、その広がりようのない世界の中文字通り誰に成ることも出来ないまま、どんな心地で歩き続けるのだろう。


「何度も確認したよ。それでも望んだのは彼女自身だ。あの子の覚悟を、私は誰よりも甘く見て、その意志の固さに甘えた。覚悟の表明として自ら薬を迎え入れる彼女を、止めることだって出来たはずなのにな」


 そんな逃げ口上と懺悔を同時に吐いた口に乱暴に白飯を突っ込む院長。その姿に普段の巨木を思わせる重心の低さはどこにもない。

 自棄に思える勢いで弁当を掻き込んでいるその様は、2人の少女を救い損ねた失敗を悔やむ、どこにでもいる中年のそれに映った。


「……美影さん自身は、薬が完成したらどうするつもりなんでしょうね」

「訊ねた事はない。訊ねられん。私が出来るのは、望みである美恵君の復活に尽力する事だけだ。それ以外は何も出来んよ」


 言い切る語調と裏腹に、表情にはその判断に対する不服がありありと見て取れる。そんな彼の姿に、確かに俺はを見た。

 そう感じた途端、彼と向き合っていて初めて、肩の力が完全に抜けた気がする。

 恐らく、彼が社長とは違うと自嘲する所以はそこにあるのだろう。出会ってからずっと彼に抱いていた、泰然とした迷いない人間という印象はいわばポーズだ。

 それはあくまで導く対象に不安を抱かせない為の虚像。社長の持つ狂気とも取れる本物の不惑とは根本から異なる。

 この人もまた全能ではなく、自らの不足を嘆き、迷いの中で途方に暮れていた。

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