80『浅薄ワルキューレ』
「ほんっとごめん!勝手に乗り回して挙句パクられたとか兄ちゃんにどう謝ろうってテンパっちゃって……」
「いいっていいって。黙って乗ってった俺も悪かったし」
向けてきた嫌疑に全く釣り合わない軽い謝罪を残して警官が帰った後、すぐに俺は和也へと電話を掛けた。
全てを説明し終えないうちに奴は事情を察したらしく、さきほどからずっとこの調子である。どうやら家のバイクが消えていることに気付いてすぐ、押っ取り刀で警察署に駆け込んだらしい。
「すぐ誤解も解けたし、もう気にすんなって。それに、お前が乗っていることは知ってたよ」
端末の向こうで頭を下げている姿がありありと浮かぶ勢いで謝罪の弁を述べる和也をなだめ、話を切り替える。
「え?」
「母さんが送ってくるメールに書いてあったんだ。しっかりメンテもしてくれてたみたいだし、むしろ礼を言わなきゃって思ったからさ」
「そっか、だから母さんも賛成してくれたんだ」
「それより、お前は困らないか?いきなりなくなって。足代わりに使ってたんだろ?」
「う……」
兄に似ず隠し事が下手なのは相変わらずだった。言葉に詰まる和也に軽く笑いを返してやる。
「いいから話してみろって」
「正直言うと少し……通学用に使ってたから、定期解約しちゃって」
「マジか」
黙って使っていたにしては随分と思い切った話だな……。
よしんば判明したところで俺が怒るはずがないと踏んでの事だろうか。いや実際怒りなど微塵も沸いてきてはいない。が、どうにもそれだけではない気がする。
「うん。もっと切り詰めなきゃって。来年度からは平気なんだけど」
「んあ?別に4年になったからってキャンパス変わらないだろ?」
「いや、留学の話が決まってさ……来年からハノーヴァーに行くことになったんだ」
「ホントか?!すげーじゃんか!」
急に喜色を浮かべる俺に驚いたのか、後ろでソファに座っている美影さんがびくりと跳ねてこちらを見た。
「……ハノーヴァーってどこだかわかんないけど」
「ドイツ」
後ろから捕捉する声が聞こえて振り返るが、美影さんは何事もなかったように、家探しで更に散らかったリビングの中央でココアを啜っている。
「ん?誰かいるの?」
その小声を耳ざとく拾ったのか、和也が語尾を上げる。
「あぁいや、別に……テレビの音が大きいかな?」
我ながら白々しい嘘だ。
別に俺の部屋に美恵先輩――にしか見えない人――がいても不思議ではないのだが、弟の手前なんとなく声を潜め、美影さんに向かって口の前で人差し指を立てる。
が。彼女はこちらの心情なぞどこ吹く風で顎に手を当て、何かを考え始めたご様子。
なんだろう、すごくイヤーな予感がします。
「そう?……だから今、その費用を稼ぐのに必死でバイト詰めてるんだ。学校から援助もあるし、全額じゃないけど……あぁそうだ。そこにもバイクで通ってる……」
「確かに、それは困るわな……来週返しに行くよ」
「えぇ?!悪いよ!忙しいんでしょ?」
考えても分からない悪寒の余地はさておき、こちらに気を遣う和也にいやいやと笑う。
定期もなくなったうえに徒歩ではいけない距離のバイトまで公共交通機関に頼るとなれば、月の交通費も馬鹿にならないことは容易に想像できる。下手をすれば働き損だろう。
「日曜休みが取れないほどじゃないよ。だから1週間だけ我慢できるか?」
「それくらいなら、何とか……でも」
「でももストもないよ。兄に向かって変な遠慮なんかするもんじゃないっつの」
迷う和也に笑って見せる。
しかし、しばらく考え込んだ末に小さく「よしっ」と気合いを入れた和也から出た言葉は、俺の希望とは正反対のものだった。
「いや。やっぱりなんとかするよ。そもそも黙って使っていたのが悪いんだし」
こっちとしては最大限に気を遣わせない様に軽く振る舞ったつもりだが、それが却って災いし、逆の意味に読み取られたようだ。
「いやいやお前……」
「だって前あった時も有給って言ってたし、こないだ飲んだ時はわざわざ早退したんでしょ?それなのに普通の休みに帰ってこさせるなんて悪いから」
「そりゃ、そうだけどさ」
思わず口ごもってしまった。
溜まっていたとはいえ、この3か月あまりで有休はガンガン消化している。その上実際は休暇などではなく、仕事よりはるかに過酷かつ危険な事をしているのだ。
更に言えば今後どうなるかの見通しも立つものではないので、予定の無い休日があるに越したことはない。
そんな兄の本心を察する和也の優しさに感動するが、同時に断られる流れを生んでしまった。
「だから、もし兄ちゃんが使わないってんなら、今度取りに行くよ」
そして、一度決めた和也は引かない。
それが誰かのための親切という理由に裏付けされればなおのこと。つくづく似ていない兄弟だ。
「そ、そう……?」
頭ではずっと切り返しの文句を探しているが、意固地なまでに譲らない和也の勢いによって、口からは同意の言葉が漏れていた。
いかん。このままでは和也にやせ我慢を強いることになってしまう。
「そ、そこで引き下がるの?冷たい」
どうにかならんものかと困り果てていた俺の背後から、突然あからさまに大仰な声がマイクへと飛び込んでいった。
この部屋で現在俺以外に人の言葉を操れるのは1人しかいない。のだが、そんな声色も調子も聞いたことがない……申し訳ないが、思わず背筋が震えた。
「はいぃ?」
必死で1人でいる演技をしていたことも忘れて声の方へと向くと、口の端を歪に吊り上げ、ひくついた表情の美影さんがこちらを向いていた。僅かに赤らめるその顔には、絶妙に羞恥と嫌悪が入り混じっている。
「あれ、この声って……彼女さんいるの?!」
オウ、シット。
スピーカーから漏れだす和也の大声に、美影さんの表情はさらに歪む。相当無理しているようだが、その顔を浮かべたいのは俺も同じだよ。
「いや、まぁ」
明瞭に聞こえてしまった以上、どう考えても否定できる状況ではない。小さな唸り声の後、気まずさと共に呟く。
「どうせ今週は遊びに行くんだったでしょ?だったら帰ればいいじゃない。い……た、達也」
マジかよ下の名前呼びとか。
汚物吐き出した後のようなその顔も相まって、背筋が冷水……というか足の多い虫が這い降りるように総毛立つ。
だが、覚えたものは決して単なる不快だけではなかった。彼女は彼女なりに、この状況に助け舟を出してくれているのだ。あの表情も、原因の半分は慣れない事をしているがゆえ……という事にしておこう。じゃないと割と凹む。
「え、それはそれで申し訳ないんだけど、せっかく仲直りしたっぽいのに」
「大丈夫だよ、和也君。遠慮しないで」
「い、いいんですか……?」
美影さんに和也が抑えれているうちに畳みかけておく。突然のカットインには驚かされたが、軌道修正としてはなかなか上々だ。
「ほら、みか……美恵先輩もこう言っているし、厚意には甘えておけって」
「うーん……それならさ、折角なら三吾さんもうちに来たらいいんじゃない?こないだ飯食うって言ってたじゃん?それも兼ねて」
「「え」」
……と、思っていたのもつかの間。
全く予期していなかった提案に、俺と美影さんの声が重なった。
「それなら2人の予定潰すことにもならないしさ」
「ちょ、ちょっと待ってて和也」
ハンドルよ止まってくれ。そっちの方向は間違いなく崖だぞ。
早くも頭の中で想像を巡らせる和也を制し、慌てて保留ボタンを押す。呑気な音が流れ出した端末を片手に、空いている右手で頭を抱える。
「いや、それはないわー。連れていくとか想像できないわー……」
「でも、その提案飲まないと彼、また意地を張るかも」
てっきり俺以上に拒絶反応を示すものかと思っていた美影さんが予想外の反応を示し、思わず詰め寄って食って掛かる。
「アンタなぁに考えてんすか?!普段ならともかく、俺といるときの美恵先輩を演じ切る事できんですか?!!」
口調も乱暴になるというもの。
記憶の無い俺も影武者を演じていた彼女も、『彼氏の前の三吾美恵』というものを伝聞でしか知らないのだ。
それでボロを出すなという方が無理……誰だってそう考えるのが当然と思うのだが、彼女は違ったようだ。
「そこは多分大丈夫。私がその役目に辛抱できれば」
「微妙に失礼だな!ってそういう問題じゃなくて」
こうして問答している間に和也が待ちくたびれて電話を切ってくれないだろうか。
儚い希望を抱くものの、俺と美影さんの間には相変わらず雰囲気に合わないメロディーが間を取り持つように流れ続けている。
あれだけ声を弾ませていた和也だ。こんなイベントを有耶無耶に終わらせるつもりはないだろう。望み薄。
「だって、美恵は石井さんの家族と親密だった訳ではないんでしょう?」
「それはそうだけど」
「それに」
彼女はそこで一度言葉を切って、テーブルの上に置いていた封筒を手に取った。
「ここには美恵が、最期の鍵をあなたの家に残したって書いてある。貴方ではなく貴方の『家』」
「だからさっきさんざん探したでしょ……それに、当たり前ですけど、俺がここ住んでるのは大学卒業してからですよ?もしかしたら、引っ越しのごたごたで捨てているかも」
「卒業したら学生アパートから引っ越すことくらい美恵じゃなくったって想像はつく。モノに頓着の無いあなたの性格も考えた上で家、と指定しているのなら――」
「単に俺の住むところ、ではなく実家のことだ……って言いたいんです?」
続きを引き継いだ俺に、美影さんは頷いて続ける。
「それに、もし貴方が鍵の正体を明確に思い出していたなら、私だってわざわざ実家に行こうなんて言い出さない。イメージが蘇らないのは思い出さないんじゃなくて、単に貴方が知らないから。そう考えるのが自然じゃない?」
「話に筋は通っているけど……別に一緒に行く必要はないんじゃ」
美影さんの論も別に物証がある訳ではなく、恥を忍んで実家に連れて行った所で空振りに終わる公算の方が高い気がする。だからといって思い当たる可能性は全て当たってみるべしというその姿勢を否定できるわけではない。
が、話が出たというだけで和也のあの舞い上がりようだ。実際に連れて行ったとなればどうなるか。
(和也はともかく、母親に彼女を紹介するとか想像するだけでキツイもんがあるな……)
「恥ずかしがっている場合じゃないでしょ。美恵の手紙には、貴方に預けたものを私が見ればその意味が分かるって書いてある。だったら私も行った方が話が早い――手段の選り好みしてる場合じゃないと思うけど?貴方も、私も」
言葉と共に細まった目が、俺の左わき腹と足首を見やる。
その意味を推しを図ることは出来なかったものの、さっきまで浮かべていた気恥ずかしさを必死に隠し声の温度を落としているその様子は、和也以上に譲る気が無い事を物語っていた。
「……わかりましたよ」
これ以上の押し問答は逸れこそ時間の無駄と決めて折れる。ようやっと彼女は俺から視線を外し、再び口の端を歪めた。
「私だってやりたい訳じゃないんだから、我慢はお互いさま」
「やっぱり微妙に失礼ですよねアンタ」
嘆息をひとつ吐いて、もはや幾度ループしたか分からない保留音を止める。
「あ、もしもし?!話纏まった?」
これだけ待たせたにもかかわらず、和也は電話を片時も離さずに待っていたのだろう。
こちらが何かを言う前に耳に飛び込んできた声は、その時間の長さなどまるで気にしていない様子で弾んでいる。
「ああ、うん。じゃあ、それで……」
その勢いのまま待ち合わせの時間を決め出した和也の心情とは対照的に、俺の胃は既にきりきりと悲鳴を上げ始めていた。
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