『兼弱攻昧』

「そんなことは!」


 いいはずがないだろう。激昂し声を荒げる私に、院長は反応を予期していたようにそんなものさと薄く笑う。


「個人の倫理感なんてものは、時々の立場と事情によっていくらでも変わる。相反する思いを抱いたとしても、何の不思議もない」


 どこか自虐を秘めた口調で呟き、真顔に戻った院長がじっとこちらを見据えてくる。


「……確かめたかったんだ。君も私と同じく惑っているのかどうか。それとも奴のように何事にも揺れず、ただ邁進する気なのか」


 そこで初めて私は、彼の瞳もまた揺れていることに気付いた。じっと向き合い見つめなければ分からないほど微かなものだが、彼の内にある迷いを如実に表している。

 それが伝わったと感じ取ったのか、彼は視線を外した。


「奴が蘇生薬を自社のとして扱う以上、それが全人類における公平な死の回避に繋がる事はあり得ない。この研究のために不利益を被ったような層には行きわたらず、ただ呆れるほどの金と相応の立場を持つ者だけがその恩恵を手にするだろう」


 視線は私と窓の間を所在なく彷徨ったまま。彼の口から出る言葉の全てが、私の耳だけでなく彼自身の心情からも上滑りしているのがありありと見て取れた。


「本来、医療は全ての人間に公平に与えられるべきだ。しかしそこには常に金銭をはじめとした障害が存在し、高い価値を持つものほど万人には行き渡ることはない。経済の基礎、社会の成り立ちとも言えるその壁を取り除ける力は誰にもない」


 なおも続く彼の言葉は単なる一般論で、今語るべきことではない。それを分かっていても私は頷くことも制する事もせず、ただ続きを待った。その先にある彼の本心、それを吐露する覚悟を決めるための儀式なのだ。


「まして効果が効果だ。仮に市場が生まれたとして、その効果に付けられる値段は途方もないだろう。一体何人がその薬を手にできる?それはこれまでにその身を晒した、これからその身を晒す人数よりも多いのか?果たしてそれは医療の前進と言えるのか?」


 もはや言葉は応酬の体を成す事すらなく、いうなれば演説――いや、彼自身の告解とも言える様相を呈している。答えるつもりもその資格もない私からは当然声は返らず、しばらくして彼は置き去りにした私を顧みるように言葉を止めた。


「いや、言い訳はよそう。私は今更怖くなった。自らの裁量で人の生き死にを決められる。そんな立場に立ち続ける事が」


 やっと、か。

 細く息を吐く。彼も本心を口にすることが出来て弛緩したのか、その体が力なくシートに沈んでいった。


「今日はっきりしたよ。私は啓示のように善悪を越えて泰然とはあれないと。だが腹を決めかねている内に前に取り返しのつかない所にまで来てしまった。その責任だけは取らなければ、美恵君に顔向けできん」


 美恵が目覚める事を前提としているその言葉は同時に、それまではこの計画から降りるつもりはないことを暗示している。だが研究や社長の考え自体には否定的。彼が今示しているスタンスは今の私、つまり美恵の考えそのものと一致している。


「そのための目途が、院長にはあるんですか?」


 あるいは、彼ならば。

 固まりつつ意志が逸るのを押さえながら、慎重に言葉を選ぶ。


「そんなものがあるならば、奴と一席つ前に試しているさ……そもそも私は製薬の分野は門外漢だ。奴の息がかからない伝手がないわけではないが、指針すら無い今の状況ではどうしようもない」


 語気を弱めて視線を外す院長。だが、続く声には強い意志が込められている。例え手筈は整っていなくとも、このまま流されるだけでいるものか。窓の外を睨む瞳はそう語っていた。


「このままでは美恵君は目覚めない。しかし仮に手筈が整ったとして、今の姿勢のまま研究が進んでしまうことは何としても避けなければならん」

「それは社長が」


 ここがタイミングだろう。突如口を差し挟んだ私を院長はいぶかしげに見つめてくる。 


「彼らのから?」


 その問いかけに、懐疑に細まっていた瞳が一瞬にして限界まで見開かれる。


「なぜそのことを……!」

「それだけじゃない。精製された蘇生薬はアンブロシアに含まれるすべての成分を使う。つまり副次的にあの催眠効果も被験者には起こる。つまりは蘇らせた者全員が、社長の支配下に収まってしまう。美恵はそこを危惧していました」


 あの日部屋で打ち明けられた美恵の告白、そこに手紙に書かれていた事を加えて諳んじる私に、院長は驚きと得心をない交ぜにしたように眉を吊り上げた。


「やはり、君はあの子から何かを託されていたんだな」


 よどみなく頷く私に、院長はまたも顔を疑問に曇らせる。


「しかし、なぜそれを私に」


 答える代わりに、私は懐から封筒を取り出す。


「院長。少し、寄り道してもらっても構いませんか?」


 断わられる筈もない。美恵が残したものは私たちが嵌っている袋小路を切り開く唯一の鍵そのものなのだから。

 耳打ちする住所を、院長が声を潜めて運転手へと伝える。慇懃な了承と共に淀みなく動く指がカーナビの経路表示を変え、車は流れるように車線を移っていった。

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