『叛服不常』
「すみません、乗せて頂いて」
革張りのシートに腰掛けながら礼を言うと、隣に乗り込んできた院長が首を振った。
「構わんさ。どうせ戻るまでの道すがらだ。仮眠を長く取る言い分にもなる」
病院で大口開けて寝るわけにも行かないからな。と続ける院長に生返事を返す。
「ここへ、向かって、くれ」
腰を下ろし背を預けた院長は、端末を指差しながら妙に輪郭をはっきりとさせた声を掛ける。美恵の自殺から一夜も開けないうちに用意された私の仮住まいは、会社と病院を結ぶ道からやや外れた所にあった。
「畏まりました」
一瞬の間を置いてハンドルを握る壮年の男性が慇懃に答え、ハンドブレーキを下ろした。
家のセダンより大きい車体が滑るように動き出し、景色を後ろへと流していく。体に感じる加重も振動もごく僅かで、後ろに乗る人間に対する気遣いが伝わってくるような運転だった。
走り出してしばらく、私は窓の外を眺めるふりをしながら、合間に隣へと密かに視線をやっていた。仮眠を取ると言った割には瞼を閉じる様子もなく、薄く開いた目はずっと前を向いたまま、何か考え込んでいる様だ。
「あの、ありがとうございました」
「ん?」
そこに混じる幾度目かの溜息の後、なおも眠るそぶりを見せない彼に、少しの勇気と共に口を開く。だが、こちらを向いた視線には思考を邪魔された怒りは見て取れず、ただ純然に私の言葉に対する疑問を浮かべていた。
「ああ。礼には及ばんよ。むしろ私は君を利用してしまったのだからな」
「……利用?」
僅かな間を挟み、意味するところを察知した院長が返してきた不穏当な言葉。今度は私が疑問を呈する表情を作る番となった。
「正直なところ、あれ以上啓示の顔を見たくなくなっていた。君をダシにして帰る算段を立てただけさ」
「いえ、私も少し、辛かったですから」
言葉を選ぶ。心の中で彼にノートの存在を仄めかしていいかどうかの判断を下しかねていた。
彼と社長の間には一定の信頼があることは、この数年で感じ取っている。ここで口を割ったとして、彼が社長にノートの事を報告しないという保証はどこにもない。
ならば自分の態度の説明として、事態の急変と社長の詰問に追い詰められたという事のままにしておく方が得策に思える。
だが、術後一向に目覚めない美恵を思っての言動、そして先ほどの社長との口論を目の当たりにし、両者が重きを置いているものの間に相違があるのではないか。私はそう感じ始めていた。
まぁ、どちらにしろ運転席に第三者がいる以上、ここでは話せない――
「美影君、君は蘇生薬が完成するべきだと思うか?」
と思っていたのだが。
院長は突如はっきりと、それこそハンドルを握る男性にも充分聞こえる声量で問いかけてきた。
「えっ……ていうか、あの」
「問題ない。彼もまた草のひとりだ」
「草、って……」
狼狽えながら運転手へと視線をやる。しかし彼はこちらの様子を気に留める事もなく、それこそハンドリングと同じく不気味な程平静を保ったままでいた。
「研究においてここまでの足がないのは不便だろう、と啓示が私にあてがった。研究所の職員のうち重要な工程を任されている者たちも同様だ。皆一様に外では研究の事を口外しないと催眠を掛けられている」
――奴の声で、な。
そう続ける院長の顔には苦みが走っている。
「それを……この人たちは知っているのでしょうか」
「どうだろうな。奴の性格上それはあり得んとは思うが」
ぶるりと背中が震え、頭の中では今まで彼に出された飲み物が次々と思い浮かんでいた。
「ああ、心配しなくとも君には盛っていないと言っていたよ。何かを口にした後突然意識を失うなんてこと、なかっただろう。そもそも美恵君が許しはしないさ」
「蘇生薬、のほうはちゃんと手続きを踏むのに……」
運転手の横目で見ながらたどたどしく疑問を呈する私に、院長は簡単なことだ、と不快さを顔に滲み出した。
「それが奴にとってツールか商品かの違いでしかない。それで、君はどう思う?」
改めて問われ、一度彼から視線を外し思案に耽るが、どうやっても自らの内側を正しく外に出す文句が浮かばない。
「会社の利益、とか、そういうことは置いておいて……死を克服できる、ということはいい事なのだと、思います。多分……」
たどたどしく答える私自身も、それが本心なのかどうかの区別すらつかなかった。
「ずいぶんと歯切れが悪いな」
そんな言葉に思わず半眼を向けてしまう。
仮に全くこの計画に関係を持たない人間であったのならば、もっと淀みなく素晴らしいと答えられただろう。
しかし、私はその対極にいる存在だ。眉ひとつ動かさない運転手の表情をバックミラー越しに見て、それから病院のベッドで眠る石井達也の顔を思い出す。
ここまでの道のりに生じた数々の問題を、所業を目の当たりにしている。それは倫理の歪みと言い換えてもいい。後の人間を生き返らせるためならば、今の人間を尊厳を無視することは許されるのか?
一時の熱から解放された頭は、今更になって人道と常識を突き付けて来る。
「……自分の覚悟が甘かった、とは今でも思っていません。ですが院長も仰っていたじゃないですか。人としての行いを超えていると」
「いやなに、責めているわけじゃない」
口早になって僅かに身を乗り出す私。それを制するようにゆったりとした口調で、院長は続ける。
「……質問を変えよう。美恵君はあのまま目覚めない方がいいか?」
一瞬、彼が何を口にしているのか、理解できなかった。
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