『有智高才』
「本当に聞きたかったのはそっちだろう?」
「いえ、そういうわけでは」
狼狽える私に、わざわざ否定する事でもないさと笑いながら、院長は空となった重箱を袋に戻す。
「ちょうど美恵君が生まれた頃はあいつの会社が急伸している最中でな。ここの応接室でよく預かったものだ」
「え……もしかして」
――母親は世話を焼かないのか。
そう訊ねようとして一つの思い当たりに心がざらつき、思わず言葉を切る。そんな私を見た彼は少し驚いたように僅かばかり目を見開いた。
その一瞬だけでおおよその察しをつけてしまったことを悟られたらしい。しばらく思案したのち、諦めたように彼の口が再び開く。
「美恵君から聞いていなかったのか……悪いことをしたかな。あの子は、小学校に上がって間もなく母を亡くしている。丁度今くらいの時分だ」
やはり。自らが軽率に失言を放ってしまったことを悔いて黙る院長と、返すべき言葉を見失った私の間に気まずい沈黙が生まれた。
迷いながら動く箸と舌では、折角残しておいた魚の味などわかるはずもない。
「済まない。聞かなかったことにしてくれ」
「いいえ。美恵には悪いかもしれないけど、教えて頂いて良かったです」
空になった弁当を袋に入れて、院長の分もまとめて口を縛る。別に彼へのフォロー、というわけではない。考え方を変えれば思慮の浅い私がふとした拍子に彼女へ直接その話題を振ってしまうリスクを事前に避けてくれたとも言える。
「余計な気を回させてしまったな」
そんなことをいちいち説明しなければ理解できない彼ではない。私におしぼりを手渡しながら並べた言葉とは裏腹に少し安心したように口調を和らげる。
「それで……院長から見て、美恵はどんな子だったんですか?」
指先を拭い終え、残しておいた間のお茶を飲み干して床に置いた。天井の高いこの部屋では抜けるような高音がよく響く。
「月並みな表現だが、年に似つかわないほど利発な子だったよ。かといって大人しい訳でもない。興味のあるものには決まって駆け足で寄っていくような」
「今と変わりませんね」
口元に手を当てて笑う私に倣って院長もああ、と含み笑いと浮かべ、缶を口元で傾ける。緩やかに上を向く顎の先で、彼の瞳はまた場所と時を超えていた。
「ただ、時々ひどく寂しそうな顔をしていた」
「寂しそう……?」
そうして飲み口を離した彼の顔は、いつの間にか少しだけ憂いを帯びたものに変わっている。
「私の部屋にあった医学や病理学の本を絵本代わりにして、それを感覚で理解するような子だったからな。これまた陳腐な言い回しだが、紛れもない天才だった」
それが寂しさとどうつながるのか、今度はすぐに見当がつかず先を訪ねようとしたが、私より先に彼がまた口を開く。
「それが災いして、幼稚園や小学校での、いわゆる同年代の友達とは全く話が合わなかったのだろうな。いつもつまらなさそう顔で帰ってきていた。私達と話している方が楽しい、と」
「でも、院長がいてくれたなら――」
「私達は同い年にはなれないよ。どうしたって子供と大人の隔てを除くことはできん。むしろより学校での孤立を自覚させてしまっていたのかもしれん」
私は内心で頷いていた。
隣で輪の中心に居る時、さらに遡れば、初めて美恵を見た時に感じた妙な雰囲気の正体、それが今になって分かった。
どれだけ望んでも、価値観を
きっとそうして美恵は長い事、その孤独と自分なりの折り合いをつけて生きてきたのだろう。
「だからな。君の話を初めてしてきた時は、それは嬉しそうだった」
「……そんなに?」
「そうとも。『自分の予測を上回る事をする子がいた!』って。まる新種の生き物を見つけたような興奮ぶりだったな」
「ええ……」
院長の喩え方にいまいち喜ぶにも喜びきれず、そんな胸の内が顔まで出ていたのか、院長はまたも顔を掻く。やはりユーモアのセンスは少しずれているようだ。
「あるいは、向けられた牙そのものが嬉しかったのかもしれん。それはとにかく。だ。君と出会ってからあの子が寂しそうな顔を見せる事は無くなった。だから、あまり自分の無力を責めるものじゃない」
いつの間にか、こちらがフォローされている。
気を回させたのは私の方だった。そのことに気付いて反射的に頭を下げ――ようとして踏みとどまる。ここで言うべきは謝罪ではない。
「ありがとう、ございます」
そう口にすると、また少しだけ心の澱が溶け出した心地がした。院長もまた満足そうに頷く。
「石井君とやらの件は、まぁあの年頃にある一過性のものだろう。何せ君がいなければこの計画自体――」
続く院長の声が突然鳴り響いた端末の着信音が遮られ、彼の眉間にしわが集まる。
「落ち着いて飯も食えんな。昼休みはまだあるはずだが……」
愚痴をこぼして端末を耳に当てながら私に片手を上げて応対するその顔が、一瞬にして険しいものに変わった。続く切迫したやりとりが、火急の事態が起きた事を物語っていた。
「すまん。急患だ」
通話を終えた彼は言うが早いかガンラックに引っ掛けていた白衣を纏いなおし、こちらの反応を待たずに出口へと脚を向ける。
「でしたら、戸締りはこちらでしておきます」
「助かる」
短く言い残して出口へと消えていく彼を見送る。
締まる扉の残響が消えた後、もう一度ライフルを構え直すが、電話から伝わってきた緊張が私の心にまで妙なざわめきがどうしても拭いきれない。
結局彼に10分ほど遅れる形で、その日は射撃場を後にする事となった。
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