『矛盾撞着』
「ただいま!」
日の落ち始めた夕方。
キッチンで野菜を刻んでいた私の耳に、玄関を開ける音と美恵の声が届いた。
今日は5限まで講義が入っていたはずなのにずいぶんと早い帰宅だ。しかし裏腹にその声は随分と慌てている。
「もう夕飯支度しちゃった?」
再び顔を出した美恵が訊ねるがその足を止める事はなく、こちらが首肯を返す前に奥の部屋へと消えていく。
何かあったのか。思わず手を止める私に、これまた焦った様子の衣擦れが聞こえてきた。
「ごめん、出席ないから5限は抜けてきちゃった。これからすぐにラボに行かなきゃいけなくなっちゃって……帰りは日跨ぐかも」
肉を炒め始めるころに再び戻ってきて申し訳なさそうに謝る美恵の姿は、いつものラフな服装に戻っている。
「ああ、別にいいよ。先に食べてるから」
「ホントごめんね。さすがに電話だけじゃ済まなくて」
謝罪を重ねる美恵に、そんな必要はないと手で制する。
こちらとしてはむしろ安堵の気持ちの方が強い。本分を忘れていない裏が取れて何よりだった。
「でも、遅くなるって事は、夕食は外?」
「いや、帰って食べる。美影のシチューおいしいから」
大学で使っているものと比べ、幾分サイズの小さいバッグにせかせかと荷物を入れ替えながらも、そこはきっぱりと答える美恵。
「うわ、車拾うかな……あー、授業のまとめは明日でいい?」
腕時計に目を落とした美恵は焦燥をさらに増したようだった。頬と肩で挟んだ端末でタクシーを呼んで、再び懐に収めようとしたその手が大学のバッグを引っ掛け、リビングに敷いたラグの上にノートが散乱する。
「ああっごめん!」
「いいよ。片づけておくから、早く行っておいで」
腰をかがめる美恵を制しながら促すと、送り足にもう一度頭を下げながら玄関へと消えていった。
嵐が去って煮立ち始めた鍋の音だけが部屋に戻り、エプロンを外しながらリビングへと戻る。結局仔細は聞きそびれたが、あれだけ慌てて会社に向かう理由は恐らく、昼間の社長が言っていたラットの反応とやらよるものだろう。
――これで研究が前に進めばいいのだが。そんなことを思いながら床に広がるバッグの中身を片付けようと手を伸ばすと、ノートの束に埋もれた美恵の端末が見えた。撒き散らかした拍子に取り落してしまったのだろう。あの慌てようでは気づかないのも無理はない。
追いかけて届けるべきか……?拾い上げてしばらく思案したのち、結局テーブルの端に置き、再び手を動かし始める。
私達の存在は蘇生薬の研究メンバーにすら明かしていない事項だ。まして美恵は自分に連絡を取る、あるいは取って来る相手が集まる場所に向かったのだ。端末が必要になる可能性は極めて薄い。わざわざ誰かに見られるリスクを冒してまで持っていく必要はないだろう。
一先ず頭の片隅に追いやり、粗方片付けを終えて、中身の戻ったバッグをラックに掛ける。
そろそろ火を緩める頃合いだ。思い至り立ち上がろうとしたその時、美恵の端末が能天気な音を立てた。人の私物をみだりに触れる趣味はないが、着信音と共にしばらく続いた振動のせいでテーブルから落ちてしまった。
仕方なしに拾い上げれば、嫌でも画面は目に入る。こんな状況でも――いや、だからこそ――プライバシーは尊重すべきだ。しかしすぐに逸らそうとした視線は、ディスプレイに発信者の名前が映し出された途端、そこにくぎ付けになった。
石井達也。
とうに昔の事となっていたはずのその名が大きく表示されている。その下には今日の講義の板書を何時写すか、といったセンテンスが砕けた文調で続いていた。
美恵はあれから名前を口に出す事すらしていない。それなのにこうして慣れた様子の文面が送られてきている。
ということは。
私の頭はそこでやっと、昼間の社長の言葉の意味と美恵が入れ替わりをせがむ理由を結びつけていた。
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