『削足適履』

 両手を勢い良く振り下ろすと、広げたシャツが景気のいい破裂音を立てた。

 皺を伸ばし終えた最後の1枚をハンガーに通し竿に掛けて、良し、と心の中で呟く。それと同時に10分ほど寒風の吹きすさぶベランダに晒されていた体が震えを思い出し、慌てて洗濯籠を拾い上げて暖房の効いたリビングへと取って返した。

 ――陽が高くなっても一向に温度が上がらなくなってきた。この時間に干しても乾くのは夕方を過ぎるだろう。そんな算段を立てながら、ソファに沈み込み冷えた手をこすり合わせる。

 このまま昼食の支度に取り掛かろうかとキッチンに立ったものの、用意するのが自分1人分だけ、しかもとりわけ空腹を覚えているわけでは無いとなると、どうにも手が鈍る。かといってほかに何か用事がある訳でもない。

 結局殆ど手持無沙汰にポットに紅茶を淹れ、再びソファに腰を下ろした。

 シュガーポットに手を伸ばしながら、壁に掛けられた時計に目をやる。今頃大学では2限の講義が後半に差し掛かる頃だろう。

 ……教授の話に飽きた美恵が、また下手な事をしていなければいいのだが。

 あながち杞憂とも言い切れない心配をしながら動かす腕が、気づけば4杯目の砂糖を琥珀色の水面に落としていた。

 まだビニールの掛かったリモコンに手を伸ばし、テレビに向ける。すぐにトピックの解説よりも笑い声の方が大きく響くワイドショーの音声が部屋を満たした。

 適度に意味合いの薄められた喧騒と退屈に、自然とあくびが招かれる。


「……くあ、ぁ」


 暇、だ。

 無論、単に学校をさぼっているわけでは無い。

 研究に余裕が出てきたのか、それとも大学の雰囲気がよほど気に入ったのか、あれから美恵はちょくちょくと私に代わって大学に行く。そうして急に入れ替わりをせがまれる度、私は降って沸いた休日の潰し方に苦心していた。

 美恵が外出している以上、同じ人物を演じる私が外に出るわけにもいかない。そんな私の思いを察したのか、幾度目かの入れ替わりの際、大学の帰りがけに美恵がテレビを買って帰ってきてくれたのだ。

 それが当初考えた以上の活躍をしているのが、良い事なのか悪い事なのか……。2杯目を空のカップに注ぎ、手に取ったスプーンがシュガーポットの底をつつく乾いた音を立てる。ため息とともに再びキッチンに向かうが、いくら探しても予備の砂糖が見当たらず、肩を落とした。


「苦い」


 仕方なしに1口含んでから思わず苦悶が漏れた。しかも茶葉を上げ忘れたせいで、注いだ紅茶は1杯目より色と渋味を増しているのだからたまらない。帰りがけにでも買ってきてもらおう。

 半分ほど飲み終えて端末を手に取り、カレンダーを開く。

 5×7の正方形が並ぶ画面を指で上下すると、そこには祝日の表示とは異なるオレンジ色の文字で記された日付が点在している。

 美恵と入れ替わった日だ。

 6月に初めて美恵が大学に行ってから4か月。2度目にせがまれたのは7月の頭と考査直前。それから夏休みを挟んで9月からは週に1度、美恵は大学へ行っている。それは同時に等しい日数だけ、美恵が研究室に籠っていないという事でもある。

 本格的に煮詰まってしまったのか、あるいは研究の順調に進んで逆に手が空きがちになったのか。後者である事を願ってやまないが……そんなことを考えながらぼんやりと画面を眺めていると、そこで初めて彼女が入れ替わりをせがむのは決まって火曜日か木曜日であることに気付いた。

 残った一般教養の授業を纏めて入れている曜日。奇妙な一致に何か引っかかるものを覚える。

 その正体がつかめないうちに急に画面が切り替わり、同時に端末が震え出した。

 三吾社長からだ。入学前に交換はしていたものの、それ以来1度も使われることはなかった番号が名前の下に表示されている。

 活かされる機会がある想像すらついていなかった上、その最初がむこうからの発信となれば、僅かな緊張を覚えるのも仕方ない。

 あわててテレビを消し、『応答』と書かれたパネルをスライドさせる。


「も、もしもし……?」

「あぁ美影君?今近くに美恵はー……いないよねぇ」


 こちらが何かを答える前に、その口調が諦観を含んだものへと変わったことで、ある程度事情は掴んでいる事が伺えた。

 なるほど美恵は入れ替わるたび、社長には連絡を寄越していたようだ。


「ええっと……講義中なので端末の電源は切っているのかもしれませんね」

「そーなんだよー。全っ然繋がらなくてさぁ」

「何かありました?」

「ちょっと急ぎの案件があってね。投薬実験中のラットのうち、ひとつのグループが気になる反応を示したんだ。その報告と次のステップについて聞きたかったんだけど……あいつ最近研究室空け過ぎ!」


 彼の嘆きにうんうんと同意を示すが、愚痴はさらに続いた。


「長い事行き詰って、せっかくやっとこ違う反応が出たってのに……皆がまだ連絡着かないのかって今もせっついてくるんだ。僕、一応社長なんだけどなぁ」


 拗ねた声色に、彼が電話の向こうで肩をすくめる様が透けて見えるようだった。いつもの軽さを残してはいるが、その実辟易は真に迫っている――そんな口調は同時に私の予想が悪い方に当たっていた事を伝えてきた。


「順調に進んでるんじゃなかったんですか?てっきりそれで美恵に余裕が出来たからだと思ったんですが……」

「とんでもない。最初に入れ替わって味を占めたのか、煮詰まるたんびに外に出せ外に出せってうるさくてさ……」

「すみません。私が調子を崩さなければ」

「君が謝る事じゃないさ……」


 ――どうも最近、それだけじゃないみたいだしね。

 続く含みを持たせたその口ぶりに、私の頭上で疑問符が浮かぶ。


「親としてはフクザツなんだけどねー。馬に蹴られたくはないからこれ以上は言えないけど」

「そう、なんですか?」


 虚ろに返すことしかできない。こちらの戸惑いは察してくれたようだが、彼が見当を付けている具体的な事態までは教えてくれなかった。


「ま、君に迷惑がかからない様にうまくやってはいるみたいだし、大目に見てたけど……よりによって今日だもんなぁ」

「はぁ……一応、昼に連絡を寄越すようこちらからも言っておきます」

「そうしてくれると嬉しいよ。いつまでもテレアポやってるわけいかないし」


 続くわざとらしいため息とともに、社長はそれじゃあね。電話を切ろうとする。


「あのっ」


 そこで私はひとつ、ずっと胸につかえている気がかりの事を思い出して呼び止めた。


「ん?」

「実家への連絡って、どうなってますか?」

「あぁ、問題ないよ。留年の通知も連絡もこっちでシャットアウトしてる」

「どうやって?」

「単純さ。ご両親がポストを開ける前に通知を抜き取って、君のお父さんを装ってこっちから学校に連絡を取ってる」


 ……思った以上に力技だった。

 どうやらずいぶん前に言っていた『草』とはそういった工作のための実行部隊を指すようだ。


「で、代わりに美恵のものをコピーしていじった進級通知書を放り込んでいるから、問題ないさ。君に電話もきてないだろう?」


 確かに、娘が一度も授業に顔を出さずオールEで留年したとなれば連絡のひとつも寄越して当然だ。それがないという事は両親の中ではちゃんと優秀な成績を収め大学生活を謳歌している私が出来上がっている事を意味している。

 良かった。と言っていいのか悪いのか……。

 改めて伝えられた事実は私に安堵、そして同じくらいの申し訳なさを覚えていた。


「……そうですか。安心しました」

「伝えなくてごめんね、よく考えれば君が心配するのも当然なのにさ。それじゃ、美恵の事頼んだよ」


 端末を切ると、さっきまでよりも深い静けさがリビングを支配した気がして、私は幾度目かになる溜息を大きく吐いた。


「射撃場、行きたいな」


 ぽつりと呟く。

 同じ静寂でも余計な考えを排せる、あの空間が無性に恋しくなった。下手を打つことを恐れて外出をためらっていたせいもあるが、思えばこの生活を始めて以来久しくあの射撃場からは足が遠のいていた。

 今度院長に頼んでみよう。美恵が帰ってきてからの夜間ならば問題あるまい。

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