『釈近謀遠』
肩の痺れも腕の痛みも意識の遥か遠くと飛ばして、60射を立て続けに3セット。ようやく出た納得のいくスコアに、ストックを胸から外して息を吐く。
レンジを出ても他の練習生の姿が見えない事で、ようやく終バスの時間がとっくに過ぎていた事に気付く。気は進まないが、今日ばかりは言い訳でなく、本当に迎えを呼ばなくてはならない。
「調子が戻ってきているのは何よりだけど、やっぱりやり過ぎだよ」
要件だけを書き連ねたメールを親へと送信し終えると同時に、片手に鍵をぶら下げた先生が戻って来た。2セット回目を終えた後、帰宅を促す提案を無下にしているので少し視線を合わせづらい。
「すみません、あと1回だけ」
「だめだ。もう23時近いんだから、帰らないと」
一度突っぱねられているせいか、先生の口調は普段よりも幾分か厳しかった。普段は凪のように穏やかな表情もこわばり、何を言われても引かないという毅然さを表している。
「明日は学校もないし、迎えはちゃんと――」
「そういう問題じゃないよ。これ以上は確実にオーバーワークだ。指導者としても我儘を2度も聞き入れるわけにはいかない」
それから2往復程押し問答を続けてみたものの、頑として譲らない先生に結局私が根負けする形で、渋々ケースに手を伸ばす。
家に帰りたくない、というよりもここ以外に居たくはない。そんな思いがライフルを分解する手をいつも以上にもたつかせ、ようやくすべてのパーツがケースに収まった頃、ふと、壁に留められている射撃大会のポスターが目に留まった。
「……先生。段級審査の申し込みって、まだ間に合いますか?」
審査は大会と同じ会場で並行して行われる。ケースのヒンジを締めながら私がこぼしたその声に、彼はひどく驚いたようだった。
「いや、そりゃあ申請用紙はここにあるし、当日にそれを持っていけば受験できるけど……どういう心境の変化だい?」
その問いには答えられなかった。学力という拠り所を失った今、残された取り柄と言えるものはもうこれしかない。
自身の寄る辺が誇れるものである、その証が欲しい。文章にすればこんな短いセンテンスが、どうしても口から出なかった。
それでもしばらくの沈黙を挟んで、先生はいつもの優しい笑顔を向けてくる。
「いいさ。理由はどうあれ、君が受ける気になってくれた事が、先生嬉しいよ」
でも、それならなおさら早く帰らなくちゃね。そう続ける言葉の真意が分からず首をひねる私に、彼は軽く笑いながら続けた。
「審査、明日だから」
「明日?!」
明日、彼との約束の日。ああそういえば、学校を出てから彼のメールを返信していない。
「やっぱり急すぎるかな。まぁ次回でも――」
「……次は、いつになります?」
「年明けの2月だね。これならゆっくり時間も取れるし――」
その言葉を聞いた途端、頭の中の天秤ははっきりと傾いた。
「いえ、行きます。申込用紙、貰っていいですか」
それは自身でも驚くほど速い決断だったが、年明けの2月――おおよそ3か月という期間は、この空虚を抱えるには長すぎる。
それに、暗澹とした気持ちのまま彼と会って、万一不快な思いをさせてしまうより、少しでも晴れやかな気持ちで向かい合う方がいいだろう。約束ならば来週にでも再び取り付ければいい。
今まで返信を忘れていたのも、断るにはいいタイミングに繋がったかもしれない。
――結局は全て、学力という自信の代わりを最優先に求めるが故、なのだが。
「わかった。帰りに渡すよ。しかし君の腕前を見たら、特例もあり得るかもなぁ!先生も鼻が高いよ。そうなればさ」
もう既に結果が出ているかのように、弾む声でそう語る先生の顔は明るかった。私もなるべく力強く頷いて見せる。
この身に期待が寄せられている。その実感だけでもこの判断が正しいと信じるには充分だった。
※ ※ ※
「明日、目黒まで審査受けに行くから」
僅かな振動と静かなエンジン音が支配する車内で私が口を開いたのは、車が射撃場を出てすぐ。約束の延期を申し出るメールを送り、端末をポケットに戻した後の事だった。
ハンドルを握る母親はこちらこそ向かなかったものの、眉根をピクリと上げたのが横からでも見えた。
「先生も絶対受かるだろうって言ってくれてる」
本来予定だけを伝えて終いにするつもりだった。それでもつい口が滑ったのは、無意識にたった一言だけでも激励を求めていたが故だろう。
「そう。気を付けてね」
しかしそんな願いも虚しく、母親から返ってきたのはそれだけ。再び車内にはタイヤが地面を擦る音だけが耳障りに延々と響く。
――いいよ。端から期待はしていないから。
こつん、と助手席のガラス窓に側頭を付けて目を閉じる。体は思い出したように疲れを訴え出しているというのに、心だけがまだレンジに入っているように張り詰めていた。
だがそれも悪い心地ではない。ここで緊張まで解けてしまったら着替えもままならず眠ってしまうだろう。
今日だけで心は恐ろしい程の落差を落ちていき、今再び浮き上がり始めた。これはきっと、タイミングというやつなのだろう。自分に見出していた絶対的な価値観を失った私が、再び私である
そして結果が良ければ――悪かった時のことなど考えるつもりもないが――本格的にプロとしての道を歩み始めよう。比べたことなどないが、先生の言葉を信じるならば、普段の私が叩き出すスコアは同年代どころか、オリンピック出場選手と比べても遜色はない。机を並べる凡俗が決して辿り着けない場所は、なにも国立大学の首席に限りはしないだろう。
会場で60射を終えた私を囲むどよめきを想像しながら、心中で静かに闘志を燃やしていると、ポケットの中の端末が震えた。
恐らく約束をふいにしてしまった彼からのものだ。車に乗る前に一方的とも言える断りの文句を送ってしまったので、綴られているは怒りの文面かもしれない。
素直に謝罪を重ねるつもりでメールを開けたが、そこには短く、呆気のない了承の文句が添えられていただけだった。申し訳のなさが行き場を失う程シンプルな文面に肩透かしを喰らいながらも、埋め合わせの日時を指定し終わる頃、前方に感じていた緩やかな重力が逆を向く。
端末の画面から顔を上げると、車は自宅の車庫へとその後輪を収めている所だった。この時間にしては珍しく、犬小屋から主の帰宅を喜ぶ鳴き声が響いてくる。
「ただいま、ラルゴ」
エンジンの鳴動が止まると同時にドアを開けて鳴き声の元へと歩み寄る。
姿勢よく座ったまま、しかし尻尾だけを揚々と揺らすラルゴの前にしゃがみ込み、いつも通り喉、垂れた耳の裏、そして頭の順に撫でてやる。期待通りの気持ちよさに鼻を鳴らした後、ラルゴは耳に優しく潜めた鳴き声を返してくれた。
……この子の言葉が分かればいいのに。
その後ろから母親がドアを開ける音と、スリッパに履き変えて遠ざかる足音が耳に届いて、ふとそんな事を思った。
ラルゴの鳴き声は『お帰り』なのか、それとも『待っていたよ』なのか。それだけでも知ることが出来たなら、家に着くまで終ぞ聞こえる事の無かった『頑張ってね』や『応援しているよ』の代わりに、心を慰めてくれたのかもしれないのにな。
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