『怨憎会苦』

 幸福の後には、決まってそれを上回る不幸が訪れるのが世の常というもの。たかだか高校2年生にしてそれを悟る程度には、恵まれない人生を送っている自覚はある。


「よーし、これから実力テストの結果を返すぞー。校内順位も乗っているから推薦を狙うものはこれ見てしっかり気を引き締めるように」


 転落の始まりは、金曜日のホームルームで発せられた間抜けな教員の声だった。

 ああは言うが、元より成績の評定に加味されないテストなど、ほとんど誰も真剣にやりはしない。ごく一部の本気で取り組んでいるであろう層にも、今までの結果は全て私の成績の足元にすら追いすがる者はいなかった。

 ――今の私には、そんな事よりも。

 端末の画面を見やる。彼との約束は明日まで迫ってきていた。おまけに今日交わしたメールのやり取りの結果、当日までに彼の思いに対する返答を答える羽目になってしまった。文面上ではあれだけ饒舌なのにも拘らず、教室で一向に話しかけてこないのは、こういった話題のせいだろう。

 それでも、計画を練る合間に挟まる他愛のない会話は、私にとって新鮮なものだった。

 自身に向いている目線がただのひとつでも存在する、という事実に純然たる喜びを感じている自覚をしてから、メールのやり取りは日々の楽しみとなっていた。部活の魅力から飼っている犬の話まで、人付き合いの下手な私に気を使って色々な引き出しを開けてくれる。

 そのほとんどに『はい』か『いいえ』の2択でしか返信できない私は、未だ彼のことを上手く聞き出せないが、それはこれから知っていけばいいだろう。

 

 そう思い至って初めて、とうに自分の中で彼への返答は決まっていたと思い知る。それはとても胸がもどかしくざわつくが、決して悪い気分では――


「月島ー?聞こえなかったのかー」

「は、はい」


 考え事に更け込むあまり、教員が私を呼ぶ声を完全に聞き逃していた。慌てて結果の記された用紙を取りに行く背中に、潜めたわたい声がいくつも刺さった。

 だが、そんな嘲笑も私より下の順位に居る者達の遠吠えと思えば気にもならない。こと勉学においては、私が頂点なのだ。この狭い教室どころか、この広い国の中でも……


「――え」


 返された紙はそんな当たり前の事実を確認するためだけに存在していた。

 はずだった。

 そこに書かれていた数字を見て、顔から一気に温度が消えていく心地を覚えた。


「月島はまたクラスで一番だな。みんなも見習えよー」


 こちらの気も知らない教員の声に、握りしめた紙が歪む。クラス単位の事なんてどうでもいい。問題は学年別の括りだ。

 そこに刻まれている『2』という数字。1本のシンプルな直線ではない、うねった、みにくい、すうじ。

 それは酷く現実から乖離しているものにものに思えた。有り得ない、有り得てはならないものを目の当たりにし、自尊心の土台にヒビが入った感覚に立ち眩みを覚える。

 それから日直の号令も耳に入らず、立ち去ろうとする教員の姿でやっとホームルームが終わったことに気付いた。慌てて後を追い、その背中を呼び止める。


「ん?どうした」

「あの、学年1位の人、って……」


 全国模試とは違い、校内テストの結果用紙には高成績者の名前はおろか、順位表すらない。私の上を行ったものが他のクラスにいると、直接教員に聞く以外知る手立てはなかった。


「ああ、確か……三吾、だったかな。確かに普段から成績は良かったが」


 三吾、私は最近どこかで、ちらりとその苗字を見た覚えがある。


「何組ですか!」


 食い下がる態度と声の大きさが余程意外だったのか、教員は目を丸くしてしばらく言葉を失っていた。もう一度せっついて初めて半開きの口が再び動き始める。


「ええと、確か、2組だったかな。しかし月島が上を行かれるとは――」


 2組。それだけ聞いた瞬間私は廊下を走り出していた。ここは7組なので中央廊下を挟んでちょうど反対側になる。

 急がなければ帰ってしまうかもしれない。

 そいつに何がしたいわけでもない。それでも自分を負かした相手の顔を拝まずにはいられなかった。


「遅かった」


 ドアを開けた瞬間に口からこぼれ、既に誰もいない教室を睨み付けながら奥歯を噛む。肩を落として踵を返す私の目に、廊下の向こうから楽しそうな笑い声とともに、こちらに向かってくる女子の集団が見えた。

 普段の癖で反射的に目を伏せながら、去り足を速める。


「やっぱ三吾さん、すごいよね」


 すれ違う瞬間聞こえてきたその声に、私の足はピタリと止められた。一団はそれに気づかず脇を通り抜けていく。


「んー?そうかな……」


 謙遜する声の主のもとへ振り返ると、そこにはゆるくウェーブのかかった艶やかな黒髪を伸ばした、1人の女生徒が1枚の絵画のような笑みを浮かべていた。

 ただそこに居るだけで雰囲気を変えてしまえるような佇まい。他の生徒や教員とは明らかに違うを持っていることが伝わってくる。


「ねぇ」


 その彼女のものであろう、まさに鈴を転がすような美声に呼び止められ、肩がびくりと震える。


「月島さん、2組に何か御用?」


 恐る恐る振り返る私に、三吾は純粋な善意の眼差しを向けてきている。


「い、いや……別に」


 うろたえながら否定を返す私に、彼女以外の人間が眉根を潜めた。無理もない。目も合わせられないまま俯く今の私の姿は、誰がどう見たって不審に満ちている。


「そう?誰か探しているなら、呼び出してあげようか?」


 中空を彷徨う視線が時折捉える三吾の目は、自身のそれと全く正反対に澱みなく、ただまっすぐにこちらを捉えている。

 それが無言の圧となり、いくら迷う目を懸命に彼女の方へ向けようとしても、卑屈に臆する心の底が顔を上げる事を認めない。

 続く沈黙の中で、知らず奥歯を噛み締める。

 何故顔を上げられない?何故目を合わせられない?

 ……答えは分かりきっていた。たったこれだけのやり取りで、私の中で彼我私と三吾の絶対的な立ち位置が定まりかけている。

 それが、ただ我慢ならないんだ。

 その思いに至って初めて、自分を抜き去った者の顔を拝みたいという衝動に駆られたに気付いた。

 そこでやっと顔が持ち上がり、三吾を視線の中央に収めることが出来た。


「ひっ」

「うわ……」


 取り巻きの誰かが、小さく叫び声を上げた。恐らく無理矢理にでも顔を上げる為に、勢いで噛み締めた下唇から血が出ているのだろう。

 だが、当の三吾は顔から笑みを剥がしただけで、臆した様子も気味悪がるそぶりも見せない。

 そこまで世人と違うのかと、心中で毒づく。

 何かの間違いで上を行かれた相手がいたとしても、そいつは私と同様日陰の者であった欲しかったのだ。

 勉学以外にさしたる才気も持ち合わせない、ただそれだけの為に学校という社会で得るべき多くをなげうっている人間であってほしい。

 あるはずだ。

 あるべきだ。

 そうでない筈がない、と。







 ――だってそんなの、あまりにも不公平じゃないか!







 だが、そんな卑しい願望は今まさに打ち砕かれた。

 奴は誰もいない教室を背に、呼び出しを申し出た。

 つまりその手にかかればクラスのどんな人間でも、たとえ帰路についている途中の生徒でも呼び出すことが出来ると言いたいのだろう。

 今もこうして多くの友達に囲まれている。それだけでも私が捨ててきたモノを持っていると見せつけられているというのに。

 気を抜けば今にも下を向こうとする頭を必死に止める。ここで目を伏せてしまえば、それは奴に対する敗北と自身への劣等感を認めたことになる。

 段々とひきつり始める顔の筋肉が、今浮かべている形相の酷さを伝えてきた。


「ねぇ、早く行こうよ……」


 そんな様子でただ睨み付ける私を見て、取り巻きのひとりが三吾に耳打ちする。

 しかし彼女は意に介する様子もなく、背筋をぴんと伸ばしたままこちらの反応を待っていた。

 私はその濁りのない目に向かって、滴る血の勢いが増すほど歯を食いしばり、嫌悪、憎悪、そして嫉妬を有らん限り込めた視線を撃ち込んだ。


「――っ!」


 さしもの三吾も気圧されたのか、半身を引く。

 涼しげなその表情が驚きに染まっていくその様は、私に後ろ暗い喜びをもたらした。言葉を失っている奴の横を決然とした足取りで通り抜ける。


「何、あれ……」

「こっわ……」


 背中へと取り巻きが声を連ねているが、奴の反応はない。やがて私との距離を充分に取ったと判断したのか、遠く離れて一団が私と同じ方向、昇降口へと歩き始めるのが気配で知れた。


「そ、それで……何の話だったっけ」


 歩調は私と大差ない。嫌でも会話の続きが耳に入ってくる。


「実力テストの話ー。三吾さん、どんな勉強したの?」

「あ、うん……今の実力が知りたいから、1週間くらい、寝る前にちょっと復習しただけだよ」


 ――寝る前に、ちょっと?


「えぇ、マジ?どれくらい?」

「1時間くらいかな?っていっても、寝ながら1年からのノート見直しただけだけど」


 ――1時間、くらい?

 ――寝ながら?

 ――ノートを見直しただけ?


 ……それだけ?


 そこで限界を迎えた私は、傍目も気にせず走り出していた。それが謙遜である可能性を考えなかったわけではない。だがそれでもこれ以上、一言たりとも奴の吐く言葉を聞くことはできない。

 早く学校を出よう。射撃場に向かおう。

 脳裏に焼き付いたあの笑顔が、あの声が、私を壊し尽くす、その前に。

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