75『ブリッジオーバー』

「ええ。2人とも無傷……あーいや、三吾さんがちょっとだけ顔擦りむいてて、俺は足首が痛いですけど、まぁ大したことないです」


 追走を交わす為に幾つも狭い路地を走り抜け、コンテナ群の反対側に繋がる橋に出る頃には、夜明けがすぐそこまで迫っていた。

 だんだんとその闇を薄くしていく空を睨みながら、アクセルを開けていく。反響する壁に挟まれなくなったエンジンの音が、澄んだ空気へと気持ちよさそうに響き渡る。


「出血は?」

「出血はー?!」


 ヘルメットから聞こえる院長の声を何倍も大きくして、跳んだ時よりもはるかに強く腰元を握りしめる三吾(偽)へと叫ぶ。突然のボリュームアップに院長が仰け反ったのか、驚く声が僅かに遠くなった。

 当たり前だが捕まっていた彼女はインカムのあるヘルメットなど被っている訳ないので、院長には悪いがエンジンの排気音に負けない大声を張るしかない。


「え、な、何……?」

「だから血!擦りむいたとこ血出てますー?!」

「だ、大丈夫……それより、もうちょっとスピード……」


 しがみ付く手どころか声まで震えている。どうやら彼女にとっては素性の知れない連中に拉致されるよりも、バイクのタンデムのほうが恐ろしいようだ。

 ……多分、、だろう。


「もうちょっと離れたら落としますから我慢して下さい!……失礼、問題ないようです」

「そう、か」


 再び近くなった院長の声。そこには確かに安堵が含まれていた。それに対して社長は脱出以降ずっとだんまりを続けている。もしかしたら既に、マイクの向こうには居ないのかもしれない。この温度差よ。

 

「こちらに寄れるか?」

「うーん……一度バイク置いてきたいですね。三吾さんノーヘルだし捕まっちゃう」


 答えながら頭の中で距離と時間を計算してみる。

 夜明け前の今だからこそ人目を避けられているものの、ここからだと都下の藤沢総合病院へと着く頃にはどれだけ急いでも日が高くなっているだろう。何本か抜ける事になる大通りで1台のパトカーともすれ違わない保証はどこにもない。

 

「そうだな。だが念には念を押したい。遅くなっていいから一度こちらに顔を出してくれ」

「なら……社長に今日休みますって伝えてもらっていいです?三吾さんも」

「わかった」


 今から帰って通常通りに出社するとなれば、当然睡眠を取る時間なぞ確保できず、その上病院へ顔を出し検査を受けるとなればベッドに入れるのは早くて明日の深夜だ。となれば仕事に行く気が湧かないのも当然だろう――


(いつの間にか、こんなことが当たり前になっている)

 当たり前のように出社することを前提に考えていた事に少しだけ背中が寒くなる。

 さっきの状況だってそうだ。例えばタイミングをしくじって三吾(偽)を回収できないまま囲まれたり、あるいはコンテナへのジャンプを失敗したり……どこか一手でもしくじっていれば、間違いなく文字通り痛い目を見ていただろう。それも命の危険が及ぶレベルでだ。

 考えが及ぶにつれて、今更になってギアに掛ける足先が震えて来た。あの時は立てた算段がうまくいく事を疑わず、あまつさえ軽薄に笑っていたというのに。

 言いなりになる薬ってのは即ち、自分の意識を抑え込む事だ。身体に残るその強制力が恐怖を押し殺していたのだろう。

 ……自分でも気づかない間に、こんなことに慣れてしまったという可能性は、あまり考えたくなかった。


「石井君?」

「あ、いえすいません。夕方過ぎには行きます」


 そのやり取りを最後に、院長との通話が切れる。

 長い橋を渡り終えて左に曲がると、川の向こうで朝日にうっすらと照らされ、その輪郭を表し出したコンテナ群は随分と小さくなっていた。右のミラーで後ろを覗くが、相変わらず車が追ってくる気配はない。

 ひとまず振り切ったか。とはいえすぐに大通りには出られない。このまま川沿いを上って行った方が人目に付かないだろう。


「今院長に頼んで、今日は俺達会社休みにしてもらいましたから。いくら三吾さんでもこのまま出社する気はないでしょ?」


 ギアを落としアクセルを絞りながら確認を取る。これなら声を張り上げる必要もないだろう。緩やかになっていく景色の流れに肩から力が抜けて、体が僅かに疲労を訴え始めていた。


「……助けが来るとは思ってなかった」


 そんな的外れな返事が返ってきたのはしばらく後、次の橋を横断し終えたころだった。


「はぁ?」


 ならどうするつもりだったのか、俺がそう続ける前に腰元に回る指に再び力が込められる。1本1本じわりと強まるそれは、急速に流れる景色への怖れとは違った印象を受ける。

 自分はここにいる。つまり、危ないところから抜け出せたのだという、それこそ今更な事実を確かめるような意味合いが込められているのかもしれない。 

 ……今浮かべている表情を拝めれば確信が持てるのだろうけど。


「それも1人で来るなんて。自分も危険な目に遭うかもしれないって考えなかったの?」


 いや、と返す俺の腹は立たなかった。外面こそいつもの叱責と同じ文句だが、そこには全くと言っていいほど棘は込められていない。その細い声に込められたのは心配……だけではないだろう。もう半分はリスクを承知の上で俺が助けに来る、その意味を測りかねている戸惑いからか。


「単に状況見て、一番助けられそうな可能性を取っただけですよ……院長と社長が」


 自分で言っててどうにも恥ずかしくなって、救出の決断をここにいない2人のものにすり替える。こちとら別にヒロインを救う映画のヒーローを気取りたかったわけではない。


「嘘。院長はとにかく、あの社長がそんな判断下すはずがない」

「それは、アンタが美恵先輩じゃないから?」


 そう、この疑問に対する真実を知っている人間の中、確証を与えてくれるとしたらこの人しかいないからだ。


「……」


 川に寄り添ってまっすぐに伸びる道は、下手なバイパスよりも信号が少ない。橋と道の継ぎ目をタイヤが乗り越えるリズミカルな2連符の後、俺はギアを下げ、アクセルを捻る。再びけたたましく嘶きを上げるエンジンに、三吾さんの肩がびくりと震えたのが分かった。


「答えてくれなきゃ、さっきよりもスピードの向こう側に挑んじゃおうかなー」

「そ、それは」


 やめてほしい、と続けたんだろうが聞こえなかった。エンジンの唸りのせいでも風を切る音のせいでもない。突然腹に走った激痛のせいだ。反射的に目を落とすと俺の腹と背中をくっつけんばかりの強さで三吾さんの両腕がぐいぐい食い込んでいる。


「冗談ですから!強く握んないで!」


 ロマンティックの欠片もない鯖折りに堪らず減速してギアを落とす。乱暴なシフトダウンに暴れるバイクに腰が浮き、三吾さんがさらに悲鳴を上げて横腹を締め上げた。タンデムじゃなかったら堪らず両手を離して腹をさすっている所だ。


「痛ったいなあ……ってか、もう知ってるんですけどね。隠してあった病床にもう1人の三吾さんが寝てるの。多分、あっちが本物でしょう」


 疑いを挟まない俺の口調に、彼女はぐっと喉を鳴らして、腰を掴む腕の力を少し緩める。


「……少し長い話になる。落ち着いた場所で話したい」


 もう隠し切れないと判断したのか、長い沈黙の後に重々しく口を開いた。


「なら、戻ってから聞きますよ。せっかくの休みだし」


 それきり会話もないまま、バイクは登り始めた朝日に背を向け、薄青色の空の下をひたすら西へと進んでいった。

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