62『ピンサーアサルト』

 降りたタクシーのポジションランプが見えなくなってから、工事現場の細い道路へと入り、改めて辺りを見回す。こちらは完全に通行止めとなる形で工事しているおかげか、ありがたい事に人の気配はおろか、車の往来もほとんどと言っていいほど途絶えていた。

 長方形に切り取られたアスファルトから覗く闇を見やる。院長からの連絡が無いという事は、未だ標的と三吾はここから出てきてはいない、という事だ。

 独りでに乾く喉へと一度唾を落とし、懐中電灯のライトを点ける。安物にしては比較的強く前を照らし出したその光を穴へ向けると、下水道へと向かう足場が見えた。

 これならば感嘆に潜れる。さっき保存した下水道の地図を開き、ここ以外に逃走経路が無いことをもう一度確認してから、院長へと絞った声を出す。


「現場に到着、俺も下水に入ります」

『ああ。もし何事もなく三吾君と合流してしまったら、すぐに地上に戻れ』

「あまり考えたくはないですけどね。それでは」


 その返事を最後にヘッドセットのスイッチを切り中に入る。すぐさま漂ってきた強烈な匂いにすぐさま左手の裾で鼻孔を塞いだ。

 イメージ通りと言うか、やはり中は灯りひとつなく、まとわりつくような湿気と悪臭が充満していた。

 ……一緒にマスクも買わせておけばよかったか。三吾と言えどもここに女の子を入れるのは気の毒に思えたが、今更引き返すわけにも行かない。


(おっと)

 一歩目を踏み出した俺の耳に、足音の残響が思いのほか大きく、そして長く鳴った。それまで平行に持っていた灯りを地面へと降ろし、足先数メートルを照らす程度に抑える。その上で今度は爪先から地面にそっと触れるように気を遣いながら、再び歩き出した。

 分かれ道にぶつかる度に地図を眺め、念の為ルートを逸れる方へと光を投げて、また歩を進める。幸いにして逸れた先には格子が嵌っていたり、急激に狭くなっていたりといずれもすぐに人の通れるスペースが無くなっていたので、隠れているかの確認にはそれで十分だった。逆側から侵入している三吾が見落としていないかが気掛かりだったが、あの様子では足音を殺すなんて事も考えず走っているだろう。そんな追跡者の存在を感じながら袋小路に逃げ込むのは考えにくい。

 絶えず聞こえてくるのは濁った水の流れる音、その間を規則的に自身の小さな足音が挟まる。


(さて、どこで鉢合わせになるかね)

 こちらが策を練る前にトラブルが起きたのは予想外だが、果たしてそれが吉と出るか凶と出るか。前の時とは異なるざわつきが、心を覆い始めていた。


 ※     ※     ※


「うん、おかしいとは思っていたんだ。見舞いにも来ないし、あれ以来兄ちゃん全くその人の事話さなくなったからさ」


 未だ写真に釘付けになっている俺を見ながら、和也は沈痛な面持ちを浮かべていた。


「俺が、こいつと、付き合っていた?いつからだ?」

「最初に2人で居るのを見たのは、ちょうどその写真撮った時だよ。その人が言うには、付き合って丁度半年、って言ってた」


 和也に言われ、右下に浮かび上がってい4桁の数字を見やる。

 この半年前というと2年生の9月頃に交際を始めた、ということになる。旅行は3年の夏。親密になるには無理のない期間と言える。


「兄ちゃんもあれから逢って無いの?」


 落ち着こうと水を嚥下する俺に、和也はおずおずと尋ねてきた。


「あ、ああ……和也、俺が付き合うことになった経緯とか、知ってるか?」

「え?うーん……詳しく聞いたことは無かったけど、高柳さん、だっけ?あの人が言うには同じ授業を取ってて、いつの間にか一緒に行動していたみたい。好きなバンドがどうとか言ってた気もするけど……なんだったかなぁ」


 その口ぶりから察するに、恐らくこのあたりは一志の方が詳しいだろう。


(そういやまだ連絡返してなかったな。やっぱり直に逢わなきゃダメか)

「他に、何か印象深い事とか無かったか?」


 それにしたって彼と逢う前に、出来る限り情報を得たい事には変わらないので質問を重ねていく。照らし合わせてこそ見えてくる事実もあるかもしれない。


「そうだな……」


 記憶を手繰りしばし黙り込む和也を見ながら、俺は煙草に火を点ける。最初の紫煙を吐き出すと同時に、和也はそういえば、と声を上げた。


「聴きそびれちゃったんだけどさ、兄ちゃんその人呼ぶ時――」

「なんだ、恥ずかしい渾名あだなでも付けてたのか?」

「ううん、同い年なのに変だな、って。その人の名前の後に――」


 ※    ※     ※


 鼻をつくような悪臭にようやく嗅覚が麻痺してきた頃、鼓膜に微かな音を捉えた俺は足を止め、息を潜めた。


 ――足音。だんだん近づいてくる……。

 咄嗟とっさに壁に背を着け、灯りを真下に落とす。足音がこの閉鎖された空間で耳に届くまで、何度跳ね返っているのかは分からない。しかし僅かに、しかし着実に大きくなっている。

 クレッシェンドは聞こえ始めてから一度も途切れてはいない。こちらに気付かれた可能性は低い。


(音の感覚が短い……走っているな)

 やはり三吾の追走には気づいている、という事か。足元以外を覆う闇がそうさせるのか、目を閉じなくても勝手に聴覚が研ぎ澄まされていく。その甲斐あって近づく足音の間に更に小さく別の足音が混じっている事に気付くことができた。後を追う彼女のものだ。

 ……なら。こちらの存在を感づかれない様にすり足で歩き出し、片手で取り出した端末の光を手で覆いながら地図を睨む。2人の足音の違いがはっきり判別できるほど近くなってきたタイミングで、目星をつけた分かれ道からわざとルートを逸れた俺は、曲がって丁度5歩進んで所で止まった。

 流石に灯りのひとつも持たずにこの全力疾走はしないだろう。だがこのポジションならば血迷ってルートをこちらに変えてこない――つまり、光をこっちに向けてこない――限り、こっちの姿はギリギリで見えないはずだ。後はタイミングを見計らって横合いから足を払うなりすればいい。


(って、言葉にするのは簡単だけどさ……)

 流石に接敵が近くなってくると、胃の下あたりがきゅっと締まる心地が襲ってくる。細く、長く息を吐きながら、スラックスの下から覗く強化服の裾を見やった。

 大丈夫。身体能力も人数的にもこちらが後れを取る要素はない。……はずだ。


(落ち着け。うまくやれよ)

 自身を鼓舞しながら平静を取り戻そうと努力していると、不意に近づく足音が途切れた。それを訝しむ間もなく、今度は何かを壁に叩きつけるような音が低く響き渡り、思わず顎を上げた。

 まさか、三吾がもう交戦しているのか。


(あれだけ言ったのに……タイマン張っちゃってるんじゃないだろうな)


 あわよくば、もう倒していたりして――。

 それが都合のいい予想だと気付かされたのは、分岐路へと戻る俺の耳に、狂乱じみた男の笑い声が突き刺さった瞬間だった。

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