51『オープンコンバット』

「痛ってえ!」

『何やってるの!』


 もんどりうって背中を強く打ち、苦悶の声を上げる。すかさず三吾の叱責が飛んでくるが、今はそれに反応する余裕もない。


(逃げられる!)

 痛みに耐えながら咄嗟に起き上がり視線を上に向ける。しかしその眼が捉えた物はその間に走り出したであろう男との距離を予測していた俺の思考とは、まるでかけ離れた光景だった。


「あ……」


 戦慄が声となり、口から零れ落ちる。

 男は逃げるどころか、背を向けてすらいない。俺の視界を覆っている暗視バイザーが光源を増幅し、顔中から血を滴らせる男の顔を映し出した。


『いかん、ステージ移行か』


 ――自分が死に晒されているという極度の興奮による症状進行。

 俺を見下すその瞳は、もはや餌を見つけた獣のそれに近い。立場が逆転した恐怖に射竦められ足が止まる俺へ、男はゆっくりと歩み寄ってきた。

 ……ヤバい。

 意識と同時に体が動いたのは幸いだった。咄嗟に飛び退く俺と入れ替わるように、男がその位置と飛び込んできていた。四つん這いになってすぐさまこちらを向き直る男の口に、血まみれの犬歯が覗く。

 もし、一瞬でも反応が遅れていたなら。頭でその答えが像を結び、背中にじわりと汗がにじむ。

 再び立ち上がり、折れた左腕をだらりと下げながら、焦点の合わない目で視界の中央に俺を捉えなおす男。その様相は完全に人と呼べるものではなかった。

――逃げたい。迫力に気圧され後ずさる俺の背に固いものがぶつかる。

 いつの間にか壁を背負ってしまっている。咄嗟に右側へと退こうと動かしかけた俺の肩に、殆ど同時と言っていいほど素早く男の視線と右足が反応する。

 これでは、逃げることもままならない。加えてあの瞬発力だ。まず間違いなく動き始めをを捉えられる。

 にじり寄る男と、動くに動けない俺。間合いがゆっくりと詰められていく。


『三吾君がそちらに向かわせる。それまでどうにか凌いでくれ。……なにしてる、走れ三吾君!』

『は、はい』


 院長の荒げる声と、焦燥しきった三吾の声を最後に通信が途切れた。対峙する俺達と三吾の間にどれだけの距離があるのかは分からないが、最低でも一度は攻撃を避けるなりいなすなりしなければならないようだ。

 ……こうなりゃやってやる。火事場のなせることなのか、やけくそ気味に開き直頭から急激に恐怖と熱が引いていった。静かに半身を引いて正対した俺に、男がもはや言葉の体を成さない叫びと共に突っ込んでくる。


「このっ!」


 ぎりぎりまで引き付けて、一気に右側に跳ねる。当たり前のようにそれに追従した男は俺の肩口を掴むべく左手を振り上げようとしたが、予想通り、折れた腕は一瞬だけ動きが遅れた。

 それでも紙一重のタイミングでなんとか交わし切り、後頭部へと手を伸ばして、とん、と押してやる。


「うわ……」


 思わず声が漏れた、軽く押しただけのつもりが、ぐしゃっという心地の悪いと共に、男の顔が壁へと埋まった。コンクリートに噴き出た血をなすりつけながら、男の体はずるずると地面に崩れ落ちていく。

 もし思いっきり力を込めていたら、今頃奴の顔は潰れたトマトのようになっていただろう。土壇場で手加減を加えた自分の判断は正しかった。

 ともあれ、これなら普通の人間なら気絶、そうでなくても痛みでろくに動けないはず――そう踏んで思わず息をつく俺の頬に、男の腕がさらに伸びてきていた。


(嘘だろ?!)


 ステージが移行すると痛みにひどく鈍感になるのか、男は苦悶に身をよじる事もなく、凹凸の無くなった顔をこちらに向けながら気配だけを頼りに両腕を振り上げてくる。


「っこの!」


 今度は折れていない右腕を掴み引き倒した。再び跳ね除けられることがないように、腰と尻の境目を、両膝に力を思い切りこめてホールドする。


『そのまま、顔を引き上げて!』


 言われるがままに後ろ髪を引き上げ、男の顔を起こした瞬間、聞き慣れたばしん、という音と共にその体がびくりと震えた。後頭部から幾筋も血を吹き上げ、膝から伝わる抵抗が徐々に力を失っていき、極めていた腕がずるりと落ちた。

 男の体から離れ、緊張が一気に抜けて地面へとへたり込む。そこで初めて俺は自分の息が上がりきっている事に気付いた。胃の奥が逆流する感覚に抵抗しながら必死で息を整えようとする俺に、三吾が静かに近づいてくる。


「どうしてあの時、取り逃がしたの」

「そりゃ、いざ人が死ぬってなれば、そうも、なるでしょ」


 向けられる冷たい視線に俺は、息も絶え絶えに意味が伝わっているかもわからない言葉を吐くのが精いっぱいだった。


「もう少しで、逆に殺されるところだった。この様じゃ覚悟っていうのも、程度が知れる」


 淡々と卑下の言葉を吐く三吾にも、俺は睨みを返す事くらいしか出来ない。殺されそうになって、初めて意識ある中で人を殺して、その上これからその肉を食べなきゃならない。去来する事実に、頭の中の処理容量はとっくにオーバーフローしている。


「そもそも――」

『三吾君、もうその辺にしておけ』


 そんな精神状態を知ってか知らずか、なおもこちらをなじろうとする三吾を院長が制止した。


『石井君、ご苦労だった。これから回収の手を向かわせる。ふたりとも摂取を済ませたら、速やかに裏口へ向かってくれ。車を待たせてある』


(せっしゅ……?)

「……了解」


 院長の言葉が指す所がわからず呆ける俺を尻目に、不服そうに返事をした三吾はこちらにもう一瞥をくれた後、男の死体へと近づいていく。

 歩きながら彼女はポケットに手を突っ込み、そこから黒い袋に入った細長い何かを取り出した。

「!」


 それが折り畳みのナイフであると解ったのは、彼女が男の折れた腕へと突き立てた後だった。腱を切断し、骨に沿ってぐるりと肉を削ぎ落として――ためらいもなく口へと運ぶ。


「うっ……うぉえっ!」


 目の前で繰り広げられる『食事』の光景は、死に様よりもはるかに凄惨なものだった。えづく口からは胃液が、目からは涙が勢いよく流れ出していく。


「……食べないの?」


 口の周りに血をべったりと着けながら飲み下した三吾が、今度は右腕の解体に取り掛かりながら訊ねてくる。手際よく淡々と、そして無感動に手と口を動かすその様が、却ってより狂気を匂わせていた

 それに俺が加わる……?

 冗談じゃない。


「いらない……いらない!」

「そう」


 逆流した胃液でひりつく喉を振り絞って叫ぶ俺に、三吾はまるで不衛生なゴミを見るような目つきをくれた後、再び口元へと肉を運ぶ。くち、くちと粘り気のある咀嚼の音に耳を塞いで目を背ける。

 あんなこと、俺には出来ない。

 ――なら、何のために俺はここにいるんだ。

 死んでもごめんだ。

 ――食わなければ死ぬんだぞ。


(わかってる。わかっているけど)

 矛盾し、抗う思考が頭の中で渦巻く。結論の出ない葛藤は、右の肩口を引っ張り上げられる感覚で唐突に幕を閉じた。眼を開いて振り向くと、たっぷりと『何か』を入れた黒い袋を片手提げた三吾がこちらを冷たく睨んでいる。


「立ちなさい」

「また、無理やり食わす気ですか」


 手を振り払う余力もないまま、よろよろと立ち上がりながら睨みつける俺に、三吾は心底不思議そうな瞳を向けてきた。


「どうして私が二度もそんなことしなければ?食べたくなければそのまま飢えて死ねばいい。でも、いつまでもここに座っていられると迷惑なの」


 ――行くわよ。そう言って無理やり腕を引かれながら、俺は自分の末路を思い浮かべていた。

 このまま立ち尽くして、夜明けを待てばどうなるだろうか。殺人犯として捕まり、獄中で満たされない飢餓で狂い死ぬか。それとも、この後に来るという処理担当によって始末されるのか。


「……一人で歩けます」


 どうせ食わなければ行き着く先は変わらない。だとというのに、そこまでの距離を比べた俺の足は、彼女を追う事を選んでいた。

 結局、死が怖い。近づく死が恐ろしい。

 そこから一歩でも遠い所へ。ひどく半端な選択を胸に歩き出す。視界の隅に四肢と頬の肉を削ぎ落とされた男の死体を捉え、心の中で幾度も謝罪の念を浮かべながら、遠くに停まった車へと向かっていった。

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