38『ようやく自覚するケツの火』

  さっき上げた扉が、120キロって言っていたな。

 確かに蓋が落ちた時の音と衝撃は生半可ではなかったが、何かの聞き間違いだと怖い。まずは半分である60キロをセットして、シートに仰向けになる。

 一度しっかりと、肺腑の奥まで息を吸い込み、端から順に両の指へと力を籠―― 


「いよっ!……と、と?」


 ……重し、つけたよね?

 腕に力を込めた瞬間、そんな疑念がよぎるほど、バーベルはあまりにもあっさりと上がった。同時に力を込めた腕を包む服が膨れ上がった筋肉に更に吸い付き、僅かに熱を帯びた気がする。

 70,85、そして100。次々に錘を追加してもあっさりと持ち上げてしまう己の両手が、まるで他人のもののように思えた。他の器具に移り、次々と体中を試してみるが、どれもこれもあっさりと3桁を超えてしまった。

 ――もしかしたら今この時間が一番、自分が人間を辞めつつあることを実感しているかもしれない。三吾はと言えばシューティングレンジから離れ、ルームランナーで汗を流している。回るコンベアが普通のジムではおよそお目にかかれない速度で唸りを上げていて、本人も息一つ切らせずに平然と、そして黙々と足を動かしている。身体能力はともかく、いきなり真似したら足が絡まりそうだった。


「あとは……サンドバッグか?あれ」


 器具の群れを一周し、最後に部屋の隅で存在を主張する柱に目をやる。吊り下げ式ではなく、底に支えをしつらえたものようだ。一般的なイメージとは違ってもそのモデルに見覚えがないわけでは無い。

 にも関わらず識別に迷い言葉が澱んだのは、ひとえにその太さ故だった。近づけばさらに戸惑い、まるで遠近感が狂ったかのような錯覚に陥る。

 なにせゆうに一般のものの倍はある。三吾の乗っていたルームランナーと言い、ここの器具は最初から薬で強化された者向けに作られているようだ。


「私はあまり使わないけど、多分普通の太さじゃ持たないからじゃないかしら」


 走り込みを終えた彼女がタオルで汗を拭きながら歩いてくる。なるほど確かに文字通り『常人離れ』している人間には普通のサンドバッグでは役者不足かもしれない。

 ――使ってみるか。軽く足の筋を伸ばした後、もはや柱ともいえるそれの前に立つ。

 実践はおろか、サンドバッグ相手も久々だけど……ゆっくりと息を吐き切って肩幅に足を開き、左足を下げてその中央に重心を置く。


「――シッ!」


 気合と共に軸足の先端に力を籠め、思い切り外に捻る。

 伝わる回転を更に腰で増幅させ、上げた膝先を十分に『入れて』爪先を伸ばせば、後は膝から下が全ての力を集約させた、鋭い半円を描き出す。


「「……は?」」


 インパクトの瞬間耳に飛び込んだのは、衝撃音というよりは破砕音に近かった。あまりの轟音に傍にいた三吾はおろか、蹴りを放った張本人自分ですら呆けた声を上げる。

 流石に破れはしなかったものの、充分な支えがあるはずのそれが大きく反対側にたわみ、たっぷりと時間を掛けて戻るまで、残心ざんしんを解く事すら忘れていた。


「これで人蹴ったら、首から上が消し飛ぶんじゃ……」


 おずおずと構えを解いて、浮かんだ懸念を口にする。


「だから打撃を命じなかったのね……」


 驚きながらも得心した様子の三吾を見ながら、次は突きを試してみようと足を動かしてやっと、足の甲に熱を伴った痛みが走っている事に気付いた。


「うわ……やっぱりか」


 あまりに大きな蹴りの衝撃で、元々薄い甲の皮が裂けて血が滲み出している。

 まぁ、骨までイカれてしまわなかったのは幸いだった。足の皮意外に目立った反動がないのは、このスーツのおかげなのだろうか。


「これと同じ素材の靴があるから、履けば大丈夫だとは思うけど……細かい怪我でも代謝は行われるから気をつけなさい」


 三吾が片隅にある治療キットを面倒くさそうに寄越しながら口を尖らせた。確かに別の意味でも力は意識的に抑える必要がありそうだ。


「とりあえず、今日はこんなもんか」


 包帯を巻き終えて一息。もう少し加減の具合を確かめたいのは山々だが、こんな足でさらに体を動かせば、いつまでたっても血は止まらないだろう。訓練を続けるなら血が止まるまで待つべきだが、ここでは他にすることもない。

 三吾のトレーニングが終わるまで待って、残りの説明を、と考えているうちに彼女も荷物を纏めはじめたようだ。


「既にあなたの静脈認証は登録してあるから、訓練するつもりならいつでも来れる。ただし、誰かに見つからないように」


 スーツ姿に戻るつもりはないのか、上から直接外套を羽織るその姿には見覚えがあった。夏に鏑木の結婚報告を効いた帰り、三吾は今と同じ格好でマンションのドアを潜っていた。


「着替えなくていいんですか?」

「ここ、シャワー室ないから」


 なるほど。自家発電装置なりで比較的手軽に供給路を確保することが出来る電気とは違って、水道ばかりは秘密裏に引くことは出来ない、ということだろうか。


「でも、家に帰るまで汗だくか……遠いんだよな。ここ」


 ぼやく俺に向かって、三吾が鞄を肩に掛けながら細い目を向けてくる。


「……さっきの蹴りを見る限り、なまった体を治すより早急に力の抑え方を覚えないと、多分すぐにステージⅢになると思うけど。それでもいいなら――」

「あーはいはいわかってますって……相変らず手厳しいな……」

 

 目を合わせずに上げた手をひらひら振る俺に、三吾は腰に手を当てて溜息を交える。


「薬による制御が解けた今、あなたは自分の判断で行動しなければならない。いざというときに体が動かなければ、共倒れよ」

 

 丸で会社にいる時みたいに慣れた調子で叱責を飛ばしてくる三吾だったが、しかし同時に向けてきたその眼差しは普段の嘲笑交じりのそれでなく、あくまで真剣なものだった。

 ……それもそうか。現状対峙できるのが俺と彼女の2人で、サポートと言えばインカムから伝わる院長の声のみ。そこで俺が拘束に失敗すれば彼女がとどめが差せなくなり、必然的に総崩れとなる可能性は高まる。


(なるほど、あくまで自分の為、ってことね)

「何、その顔……」


 小言を言われた側として余程似つかわしくない表情を浮かべていたのか、三吾が半眼で睨みつけてきた。


「俺だって、人の事は言えないど」


 つい、やるかたない思いが小さな声で口から零れる。


「……どういうこと?」

「いーえ。てめぇの為はお互い様、ってだけです」


 自分を無理やり納得させるためのロジック。それをイチからくどくど説明するのは面倒くさいし、無駄な論争の種になる。

 これで大人しく引いてくれればいいけど――。

 彼女の顔を伺った俺は、思わず手の甲で瞼を擦っていた。

 

「自分の為、か……どうなのかしらね」


 目を向けた先の三吾が全く予期していなかった、伏し目がちな憂い顔を浮かべていたからだ。


「はぁ?もしかしてあんたも医学の徒なんて言い出すんじゃ――」

「なんでもない」


 被せられる彼女の言葉には、珍しく己の失策を覆い隠すような動揺が見受けられた。予想外の展開ではあるが、ここを切欠に聞き出せるかもしれない。

 彼女の事情、というやつを。


「自分の為じゃなく命を掛けるなんて、よほどの事情があるみたいですね」

「貴方にはまだ関係のない事」


 その一言であっさりと会話を切られてしまったが、明確な否定はされなかったという事実が、ある程度カマ掛けの効果があったことを示していた。


「ああ、そうそう。言い忘れていたけど」


 それを裏付ける様に、三吾はわざとらしく話題を変える。ここでムキになって戻そうとするのは彼女の性格上得策とは言えないだろう。ひとまずは先の反応だけで十分だ。


「こっちは一時的なものだけど、代謝以外で症状が進行する原因として『極度の興奮状態に陥る』というものがある。ノルアドレナリンの過剰分泌が悪影響を及ぼすらしいけど」

「一時的ってことは、気分が落ち着けば元に戻るんですか?」

「……大体はね」


 歯切れの悪い彼女の言葉を鸚鵡返しにして、続きを促す。


「ただ、症状が限りなくステージⅢに近づいていると、興奮の度合いによってそのボーダーを越えてしまう場合がある。そうなった場合もう元に戻ったケースは、ない」

「つまり、症状が進めば進むほどそのリスクが増える、ってことですね」


 話題を引き戻さなくて正解だったようだ。これは怪我よりもさらに日常で気を使わなければならない事柄であるうえ、普通に起こりうる。

 ――興奮って、オナニーとかもだめなのかな。


「……なに?」

「いえ、なんでもないです」


 自分でも何故かよぎったのかわからないくらいどうでもいい疑問。これをぶつけたらどんなリアクションを取るのか興味がないわけではなかったが、それこそ怒らせた彼女が凶暴化したらたまったもんじゃない。


「把握しました。俺もそろそろ帰りますから、出ましょう」


 聞き返される前に入り口に向き直り、荷物を腕に提げながら考えを纏めに入る。

 明言こそされなかったものの、あの言い方ではたとえ怪我がなくとも、症状は緩やかにだが進行してしまう――つまり、時間制限がある、という事だ。

 それまでに記憶の手掛かりを辿り、防止薬を作り出す。それがどれほどの時間を要するものかは門外漢の自分には想像もつかない。

 だが、それが限りなく細い糸だという事は解る。おまけに専念できる訳ではなく、同じ穴のムジナとの気の進まない戦いにも参加しなければならないのだ。

 これからは更に、時間を無駄には出来ない。

「ちょっと」


 出口へと歩き出す俺の首筋へと走る、久しく忘れていたちりつくような感覚。久しく忘れていた焦燥を覚える俺を遮るように、背中から三吾の声が掛かった。


「何すか?俺も色々やらなきゃいけない事が――」

 歩きながら紡いだ言葉は、瞼に飛び散った火花と、同時に額に走る鈍い衝撃によって遮られた。


「なんでドア開かねえんだよ……」

「出口は別だから、あそこはあくまでこの病院と関係ない私達が通るためのもの」


 上から降り注ぐ声に、痛みにうずくまる俺を三吾が冷ややかな視線で見下ろしているのが手に取るようにわかった。

 ……怪我で症状悪化するってんなら、止めろよ……


「第一、あの扉を院長が開けられる訳ないでしょう。この時間になってしまえば人気もないし、私達も普通の出入り口を使えばいい」


 額を擦りながら立ち上がると、三吾は俺が頭をぶつけた扉の真反対にある、もう一枚のドアを無表情で指さしていた。


「……さいですか」

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