第4相
22『ピエロ』
廃屋の窓から外へと飛び出し、どれくらい走っただろう。気が付けば俺は大通りの隙間にある公園の隅で立ち止まった鏑木の後ろで、両ひざに手を置いて肩を上下させていた。対して奴は汗一つ書いた様子もなく、こちらをゆっくりと振り返る。
(どんな体力してんだ……)
周囲を見回しても俺たちがいた廃屋は見当たらない。公園を挟むいくつかの明かりが灯るマンションと、出入口に面した道路にコンビニの明かりが灯っているだけだ。
かなりの距離を全力で走ったというのに呼吸ひとつ乱さずこちらを見下ろす奴の様子は、単に俺が運動していないとか、彼が体育会系だとか、そういった常識的な差異ではない、何か空恐ろしいものを感じた。
「おまえ、脚、早すぎ……」
息も切れ切れにどうにかそれだけを言葉にする。しこたま走ったせいか、頭の中にもうひとりの自分がいるようなあの違和感は完全に消え去っていた。鏑木を目に入れて以降、あの穴を覗く感覚ももうない。
そんな俺の声に耳を貸さず、しばらくひり立った表情で辺りを見回していた鏑木は、俺の耳元へと目を向けて初めて警戒を解いたように肩の力を抜いた。
「大丈夫か?」
鏑木が俺の腕を肩に回し、近くのベンチへと連れて行った。水が欲しくなって水飲み場を探したが、かなり遠くにぽつんとある蛇口へと歩く気力もなく、乾く喉で息を着く。
「インカムはどうした?」
やっとのことで息が整ってきた俺を見て、改めて鏑木が声を掛けてくる。
「インカム?」
あの、いつの間にか耳に挟まっていたやつのことか。うざったさから道すがら投げ捨てた事を告げると、彼は小さく嗤いを浮かべた。
「これでしばらくは居場所が割れることはないか」
俺の横に腰を下ろしながら、鏑木も息を着く。伏していた顔を上げながら横目に伺ったその表情は、まるで何かを諦めるような悟りの色を宿していた。
「……やっぱり、あの治験が関係しているのか」
「その前に」
確信を突こうと切り出した俺を制するように、鏑木が声を被せてくる。
「なんだよ」
「やっぱり、お前もこの治験に参加してたのか」
「は……?」
その言葉の意味が解らず、俺は思わず間抜けな声を上げた。
「いや、そんな覚えは……」
「ならなんでここにいる」
それはこちらが聞きたいくらいだ。返答を探しあぐねて黙り込んでいると、鏑木は微妙に聞き取りづらい声量で口早になにか一人ごちた。
(何も知らされていないのか、か?)
確かめようと俺が口を開く前に、鏑木が先んじる。
「……ひとつ約束してほしい。俺はわかる限りお前の質問に答える。さっきお前に言えなかったことも含めてな」
『さっき』とはあのバーで話した時の事だろうか。
まだ辺りに日が昇る気配はない。だとしたらあれから大した時間は立ってないということになる。
「その代り、俺をこのまま逃がしてくれないか」
「逃がす?」
「あいつらからだ。俺がどの方向に走って行ったか。それを知らぬ存ぜぬで通してくれればいい。どのみちもう時間はないけど、最後にもう一度、楓の顔くらい拝んでおきたい」
「最後……?」
奴の言葉を繰り返すことしか出来ない。なんだよその口ぶりは。相変わらず変わらない鏑木の穏やかな表情と相まって、まるで――
「死ぬってことだよ。このまま逃げてももうすぐ死ぬ。捕まったら殺される」
見ただろ?あのハンカチに着いた血を。そう続ける彼の声は僅かに震え始めていた。
「あいつらにか?」
問いかけに鏑木は答えず、俺の眼を覗き込んで、またすぐに視線を外した。
「あいつと結婚する、母さんを困らせない。その二つを両立させるためにどうしても金が必要だった。でも、もう少しバイトは選ぶべきだったなぁ」
ちらちらと星が光る空を見上げながら鏑木が呟く。きっと、何も知らない俺一人が彼を助けるために出来ることなんてない。鏑木もそれを望んでない。そんな現実を思い知らせるには十分すぎる程の空虚な声だった。
「言わないよ」
逆に、それだけ俺が出来るただ一つの事だ。承服した声に満足げに頷いた鏑木がこちらに向き直ってくる。
「それより、ここで話していて大丈夫なのか」
鏑木はすぐにでも白石さんの元へと行きたいだろうに、ここで万一見つかってしまってはおしまいだろう。
そんな俺の心配をよそに、鏑木はあくまで冷静だった。
「やつらはあの廃墟から軽々しく動く事はしない。少なくとも居場所が割れないうちはむやみやたらに探し回る事は無いだろう。目立つことを殊更に嫌うんだ。ここなら騒ぎが起これば確実に誰かが気づくからな」
確かに、今は深夜だがあの廃墟と比べれば格段に人の息遣いは感じられる。だがそれでも何かに追われている感覚が俺を急かしていた。そんな俺の心中を察したのか、鏑木は姿勢を直し、こちらを見据えた。
「H市で起きたバラバラ殺人、覚えてるか?」
「え?」
静かに開いた鏑木の口からでた予想外の質問に、俺があっけにとられていると、彼は「あの居酒屋で一緒にニュース見た奴だよ」と補足し、どうにか記憶から掘り起こすことが出来た。
工事現場で腐敗した遺体が見つかって、すぐに犯人が捕まった奴だ。しかし、
「それがなんだってのさ」
「あれ、俺がやったんだ」
まるで日常の些事でも語るような彼の口調が、逆に驚きと恐ろしさを大きくさせていた。言葉を失っている俺に、鏑木はなおも淡々と続ける。
「正確には、あいつらの指示でやった」
「なんで、そんなこと……」
「言ったろ。あいつらは目立つことを嫌うって」
でもニュースになってしまってる。俺がそう反論することを読んでいたように、こちらが口に出す前に彼は更に続けた。
「あのまま奴を野放しにしておけば、あれ以上の騒ぎになるようなことをやってたってことだよ」
「それって……」
ここまで聞けば、大体の見当はついていた。
「奴も俺と同じ、治験の参加者だった。奴はプロジェクトの情報を持ち逃げしようとした。他社にデータを売るためだろうな」
大方、自分も助からないところまできたと知って自棄を起こしたんだろう。そう続ける鏑木に、俺はやっと自分の考えを口にする。
「それだったらまず警察に駆け込むなりして、保護してもらうんじゃないのか?」
それか、マスコミにリークしてもいい。連中が騒ぎになる事を嫌うなら有効に思える。身の安全を確保する前に金の話が出ることに違和感を覚えた。
「話に現実味がなさすぎるだろう。何の証拠も持たずに警察行って、殺されかけてるから保護してくれなんて、まともに相手されると思うか?」
確かに話を聞くだけでは誰もまともに取り合わないだろう。新型薬品の実験台にされて、揚句殺されようとしている。そんなものは三流小説か深夜ドラマの世界だ。
ただ、その当事者である俺は言葉を呑み、鏑木はなおも続ける。
「ただ、業界内は別だ。うちが極秘に国と結託して薬品開発をして、第一相臨床をパスしたことはまことしやかに囁かれているからな。例え半信半疑でも検査を行って残留成分が出れば、少なくともうちがなんらかの治験を行っている事は立証される……いわば、自分の体が第一の証拠になるってわけだ。同時に持ち出した資料が初めて価値を持つ」
薬効成分とデータ。その二つを価値と捉えるのは警察では有り得ない。そう考えるとそいつの行動は確かに筋が通っている。
「そうなれば、少なくともデータを取っている間は身の安全が保障される」
「けど、情報の漏洩を恐れた奴らに殺された。殺したのは俺だけどな」
『奴ら』というところで三吾の顔と、影に隠れた男が浮かぶ。
「お前もその薬を投与されている以上、逆らえずに殺したってこと?」
まさか自分の意志で殺しを行ったわけではあるまい。迷いなく頷くと思っていた鏑木は、どういえばいいのかわからなそうに考え込んでいる。それを見た俺の心の片隅に、確かに軽蔑にも似た思いが生まれるのを感じた。
「まさか――」
この思いが恐れに変わる前に、そんな訳ないだろと言ってくれ。そう願いを込めて口を開いたつもりが、出たのは猜疑が混じった声色だった。
「いや、率先して人殺しなんてやるわけないだろう」
落ち着けよ、とたしなむ鏑木の声に肩の力が抜けていく。
「じゃあどうして」
――おい、待て。
続けようとして、突然ある想像が浮かび、背筋を冷たいものが走り抜ける。思わず言葉を途切らせた俺には、鏑木の静かな視線もまるで刺さるような心地だった。
「……お前も、薄々わかってるんじゃないのか?」
強制された殺し、自由の効かない体、血の滲んだ顔。奴らが口にしていた俺の名前。突然廃墟で目覚めた俺、鏑木を捕えようとしていた俺。処理という言葉。この想像が正しければそのすべてに理由がつく。
だが、それを認めてしまうわけには行かなかった。だとすれば俺も、鏑木と同じように――。
「あの薬には、投与した人間を意のままに操れる作用がある」
「そんな実験に参加した覚えはない!」
思わず声を荒げる。幾度も見たあの夢が、夢でなかったとしたならば、鏑木に向かって僅かに生まれた軽蔑と怖れが、幾倍にも膨れ上がって自分に返ってくる。吐き気にも似た悪寒が全身を走り抜けていく。
「じゃあ、お前はなんで今夜、ここにいた?」
「知らないよ!気付いたらあのビルに立たされてて……」
「それ自体がこのプロジェクトにお前が組み込まれてるっていう、何よりの証拠だ」
核心を突く鏑木の言葉から逃げるように、俺は話題を変えた。
「そんな、人を思い通りに操れる薬を作って……それも国の認可事業だと?一体何考えてるんだよ!」
うちの会社と国は!と続けようとした矢先、鏑木が「いや」と鋭く俺の言葉を制した。
「あれは副作用みたいなものだ。あの薬はそんなレベルものじゃない」
まだ話が大きくなるのか、俺は辟易して頭を抱えて俯いた。
「考えてもみろ。お前の言った通り仮にも国の認可を得て行われている事業だ。そんなくだらない効力の為にわざわざ極秘にまでして推し進めるか?」
「じゃあ、何の薬だよ」
頭を抱えて呟いてから、天を仰ぐ。上がる視線の先には夜空ではなく鏑木の顔が一杯に映りこんでいて、思わずたじろいだ。わざわざベンチを立って、俺の正面にしゃがみ込み、こちらを見上げている。
「これを知れば、お前も奴と同じだけの情報を握ることになる」
それは言外の警告だった。聞いてしまえば、奴や俺と同じ末路を辿るぞ。という事か。
「……お前には何も聞けずに逃げられたことにしておくよ」
何も知らずに殺されることも、何も知らずに操られ続けることも同じくらい嫌だと考える俺の頭が、知らず狡猾な逃げ道を作っていた。
「そうか」
鏑木はそこで一度声を切り、曲げた膝を伸ばして立ち上がる。鏑木に視線を合わせられるように、俺もベンチから腰を上げた。
静かな公園に枯葉を乗せた風が一迅、吹き抜けた。風の音が収まると同時に、鏑木は意を決したように息を吸い込む。
「あの薬は」
「そこまでです」
突如、鏑木の背後から冷淡な声が被さり、それに弾かれたように振り返った鏑木が突如として膝から崩れ落ちた。その後ろに立っていたのは、漆黒のヘルメットとアウターに身を包んだ三吾だった。
「あ、あ」
鏑木を見下す彼女の、バイザー越しにも感じ取れるほどの怖気が籠無機質な瞳を見て、俺の足は恐怖に竦む。
いつの間にか、周囲からは人の気配が全くといっていいほど消えていた。
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