加藤崇の手記 その2

第17.5話 映画鑑賞

映画鑑賞



 伏見さんが突然言い出した「ボクは童貞じゃない」発言に一番食いついていたのは奈緒だった。

「ねえ、明歩。伏見さん童貞じゃないって言ってるけど、どうやってするのかなあ?」

 たしかに全身自分の力で動くことのできない伏見さんがセックスをしたことがあるなんておうにも考えにくいことではある。変なところに興味津々な奈緒にわたしはあまり利口ではない回答をしてしまった。

「たぶん、最近のことじゃなくてまだ若いころのことなんじゃないかな。若いころは今よりももっと体の自由が利いていただろうし、もしかしたらそういうことも可能だったかもしれない」

 その考えは結果からすれば見当違いなのだけれど、当時崇さんの手記を読んでいなかったわたしはその実態について詳しくは知らなかった。

 数日後。大学のキャンパス内でわたしのことを見つけた奈緒に大きな声で呼び止められた。

「ねえ、明歩。ちょっと面白い映画を見つけたので一緒に見ない?」

 そう言われて特に断る理由もない。「どんなの?」というわたしの質問に彼女は得意そうな笑みを浮かべて、鞄から二枚のDVDをとりだした。

「これね、障害者とのセックスに関する映画らしいの!」

 ――わかった。わかったからそんな言葉をキャンパス内で叫ばないでほしい。

 奈緒が用意した映画は『キャタピラー』と『チャタレイ夫人の恋』という映画だった。その日の授業がはけた後、奈緒の家で観賞会をしようという話になった。一応、崇さんにも声を掛けたが、

「ああ、その二つならどちらも原作小説の方を読んだことがあるからなあ。今日は深夜のボラのために寝ておきたいから寝とくよ」

 と言って断られてしまった。まあ、崇さんは一応作家志望なのでそのくらいは当然と言えば当然だったかもしれないが、

「『キャタピラー』って、江戸川乱歩の『芋虫』だろ。たしかに障害者の話ではあるけれど、セックスのシーンなんてあったかな。まあ、元が短編だから膨らませたんだろうな」

 とか、言いながら少しだけ興味があるような素振りは見せた。


 奈緒の家で立て続け四時間以上。二本をぶっ通しで観賞した。

 結論から言わせてもらうと…… 崇さんが一緒でなくてよかったと思う。ちょっと男の人と一緒に見るのはどうかと思う内容だった。


 まず、『キャタピラー』。こっちの映画は凄惨な印象を受けた。戦争で両手両足を失って帰って来た旦那さんと夜の営みを繰り返す話だ。映画の冒頭部分で

「そんな体になって、死にたいんでしょう?」

 と言って夫の首を絞める妻に対し、必死で生きたいという意思を示す夫にはなんとなく伏見さんっぽい印象を受けた。しかしながら…… この旦那さん。手足はないと言ってもこれがなかなかよく動く。結構自分から積極的に腰を動かすのだ。あとでこっそり崇さんに内容を伝えたのだが、崇さんの話によると原作の『芋虫』の方がより凄惨だと言っていた。妻は旦那の目をつぶし、「ゆるしてゆるして」と謝る妻。そして夫は「ユルス」と書置きを残して自殺するという。たしかにそう言われればそういう結末だったようにも見えるが、映画の方はどちらかと言えば戦争平和と性の観点での物語性が強い印象を受けた。

続いて『チャタレイ夫人の恋』。これは昔から何かと話題性もあり、発売禁止やポルノ映画扱いされたこともある話題作だ。

とても裕福な家庭に嫁いだコニーは結婚間もなく夫が戦争で負傷し、車いす生活に。夜の営みもできなくなってしまう。

そんなコニーはやがて旦那の使用人との間に、性の喜びを見出す。

「子供を産みたい」と言い出す妻の言葉に、子供をつくることのできなくなった主人は、跡取りを得るためにもそれは仕方のないことだと容認するが、その相手は何としても身分のあるものでないとならないと言う。

 男のプライドと、身分差別と、それに性の喜びと女が子供を産むことの喜びとを描いた素晴らしい映画だった。

 ……が、結局のところ障害を持った旦那さんはセックスできないままのはなし。旦那さんだけがとてもかわいそうだった。


 まあ、結局のところどちらも素晴らしい映画で、障害と性生活について描かれている。ぜひとも一度は見ておく作品だと思うけれども、本来の疑問点、


 ――どうやって伏見さんはセックスをするのだろう?


 という疑問についてどちらの作品からも得ることはできなかった。

 しかしそのことについて崇さんは、

「ああ、そういうことなら……」

 といって自宅から一冊の本を持って来てくれた。『車椅子からベッドインまで』というタイトルの本で、一見すると単に障害者を車いすからベッドに移動させるだけの本に感じてしまうが、この本の実態はスウェーデンで作られた障害者専用のセックスのハウツー本だった。中にはイラスト付きで丁寧に障害者とのセックスの仕方について解説してある。

 崇さんの話によればスウェーデンと日本とでは障害者に対するケアが30年の違いがあるという。現在の日本で障害者とされる人のほとんどがスウェーデンでは〝障害〟だとは認識されないらしい。さらにスウェーデンでは学校で健常者と、障害者とそれぞれのケースでの性行為の違いを学ぶという。崇さんは30年の開きがあると言うが、果たして今の日本の三十年後、それに追いつくことはできるのだろうか。

追いつくどころかますます離れていってしまうのではないだろうか。

今現在の日本国民はやたらと弱者を守ろうとする。

その弱者というのは障害者のことではない。障害者はいったん枠の外に放り出し、自由と権利を奪い目の届かないところに置く。そして代わりに弱者と名乗り出るのが努力をしない健常者たち。やればできることさえ周りの環境のせいにして、国に対して自分を守れとばかりに主張しているようにも見える。

まあ、伏見さんの言葉を借りるなら、そんな奴は精神的障害者であり、障害者であるにもかかわらず障害者年金をもらえないのは気の毒だ、といったところだろう。

与えられた条件でできることを捜し、努力するというのは当たり前のことで、与えられなかった条件を与えられていないと不平不満ばかりこぼす人間が増え、そんな彼らに媚を売る政治家たちが台頭していく。これではいつまでたってもスウェーデンのようにはなれないのではないだろうか。


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