第32話 憶えていない……
お風呂を上がり、わたしたちは浴衣に着替えた。こうしてみると女二人で仲良く温泉旅行でもしているみたいだ。そういえばそんなこと、人生のうちで今までなかったことに気付く。そしてわたしたちはすっかりあの震災から立ち直り始めたんだと実感し出来た。
部屋に戻るまでの道のりを湯冷ましがてらに回り道をしながら中庭を歩いた。中庭の隅っこには本館とは少し離れた場所に小さな土蔵が立っている。
「ほら、あれ!」
奈緒が先だって土蔵に駆け寄って、大きなかんぬきの掛けられた鉄の扉の前で振り返り、わたしを呼んだ。仕方なしに気持ち小走りで駆け寄った。
「ねえ、よくここでかくれんぼしたの憶えてる?」
「うーん…… ごめん、やっぱり憶えてないや。」
言いながらも、当時すでに八、九歳くらいになっていたことを考えると、そのころによくかくれんぼをしていたというのがどうにもおかしかった。みんななんだかんだつらいことはあっただろうが、それでも微笑ましい生活を送っていたんだと思えばなんだか救われる。
「ほら、明歩。よくこの土蔵の中に隠れていたわよね!」
「えー、わたしこんなところに隠れていたの?」
今になってみれば随分老朽化している土蔵だ。土壁はところどころ剥がれ落ちているし、何より入口の鉄の扉は重そうで赤さびだらけ。考えてみればいかにもおどろおどろしい。よくこんなところに隠れていたものだと感心する。
「ほんと憶えていないんだね…… たしかいつも明歩がこの中に隠れていて、あたしがいつも…… え…… 」
「ん? 奈緒…… どうかした?」
「ん? ううん、なんでもない。かえろっか…… 部屋……」
「そうね。崇さんもお風呂に入りたいでしょうから。」
部屋に戻り、崇さんと交代した。素早く入浴を済ませている間に部屋で伏見さんの体を拭いた。せっかくだから伏見さんにも浴衣を着せてみた。
「お前ら…… 面白がってるやろ。」
「うふふふ、そんなことないない。」
「似合ってる、似合ってる。」
事実、伏見さんに浴衣はとても似合っていた。その細すぎる体に浴衣を着せると、なぜだか少し威厳を感じる。どこかの文豪だかが書斎に向かう姿を連想させる。そこに浴衣姿になった崇さんが帰って来た。風鈴の下で縁側に寝そべっている伏見さんを団扇であおぐ奈緒の姿がなんだかとても風情を感じる。わたしが「なんか、絵になってるよ。」というと、伏見さんが、「お前らかてそうやで、そうやってタカシと浴衣で並んでいると、なんや若夫婦に見えるで。」
「ははは。」と笑う崇さんの隣で、恥ずかしうてうつむいてしまったわたしはとてもじゃないが奈緒の顔を見れなかった。
しばらくして卓ちゃんがスイカを持って来てくれた。陽が傾きかけ、静かだった街のはるか遠くから笛や太鼓の音、かすかな喧騒が聞こえてくる。
「ねえ、卓ちゃん。今日、このあたりでなにかあるの?」
「え、しらないの? おれはてっきりこの日に合わせて帰郷したんだとばかりに思っていたけど…… 今日は港の方でお祭りがあるから。……ほら、大船渡祭り。今日のうちの宿泊客のほとんどはそれが目当てだからね。もうじき現地までのシャトルバスもすぐそこを通るよ。折角だから行ってきなよ。」
「え…… でも……」
ちょっと興味もわいた。まだ小さいころに親と一緒に行ったことだけは憶えているが、実際そこで何を見たのかはもうすっかり覚えていない。だからもう一度見てみたいとは思った。
「明歩、せっかくだから行ってきなよ。伏見さんはあたしが付いているから崇さんと行ってきなよ……」
「え…… そんな… 悪いわよ……」
「気にしなくっていいのよ。ほら、あたしなんてここに来るまでずっと寝ていて二人に運転任せっぱなしだったでしょ。そのお詫びも含めて、ぜひ行ってきなよ。」
「そんな、わたしだって単に助手席に座っていただけよ。お詫びなんて……」
「じゃあ、タカシを一人で行かせるつもり? そんなのあまりにもかわいそうでしょ。」
「い、いや、そうじゃなくても……」
遠慮の塊の言い合いに終止符をつけたのは崇さん。
「まあ、いいじゃないか。せっかく奈緒が行って来いって言うんだから行こうじゃないか。あ、それとも俺と二人で行くのは嫌だったか?」
「い、いや……」
「嫌なのか?」
「あ…… もう、違う。その嫌じゃなくて……」
「よし、じゃあ、決まりだな。」
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