生きる者、生きられなかった者

 仕事を終えたサラリーマンや学校帰りの学生でプラットフォームは溢れかえっていた。俺は朝の通勤ラッシュ時の駅が嫌いだが、夕方頃の駅の風景は結構気に入っている。


 大勢の人たちが押し合いへし合い連結した直方体のスペースへと詰め込まれるように入っていく通勤ラッシュの光景はちょっと異様だ。大勢の生きた人間を一度に移動させる手段としては最適かもしれないが、生きた人間が存在するスペースとしては最悪と言わざるを得ない。


 多くの人々が移動の手段を得ることと引き換えに、膨大なエネルギーを消費しながら不快感に耐えるのだ。その不快感に苛立つ人たちの熱気が列車内に充満している。俺はそんな通勤ラッシュの光景が大嫌いだ。大学まで自転車で通える場所に部屋を借りたのも朝の電車になんか絶対に乗りたくなかったからだ。


 逆に夕方の駅は嫌いではない。むしろ好きと言って良いだろう。

 夕陽に照らされて黄金色に染まった街の光景が我々に今日という一日が無事に終わったことを告げるのだ。一日の中で最もゆったりとした時間帯だ。


 帰路へと向かう人々は一様に仕事や勉強を終えてほっとした表情をしており、緊張感から解放された弛緩した空気が穏やかに流れている。心休まる場所へと戻っていく人々の中に混ざっていると不思議と自分の心も安らいでくる。


 俺は大学の講義を終えた俺は天馬荘ではなく、美奈子さんと雛姫が住む実家へと帰るために電車を待っているところだった。


『週末くらいは戻っておいでよ。ママもたまにはお兄ちゃんの顔が見たいって寂しがっているよ』


 雛姫がそんなメッセージをLINE で寄こしたので、たまには実家に戻ってみる気になったのだ。ちなみに俺の親父はそちらの家には住んでいない。というか、それ以前に日本にいない。親父は今、海外出張中でドバイに単身赴任しているのだ。


 大手商社に勤めている親父はどうやら日本のスナック菓子を売り出すために色々と動き回っているらしい。日本のスナック菓子は世界各地で人気があるらしいが、どうにもお金持ちの国というイメージがあるためドバイにスナック菓子という組み合わせが俺にはしっくりこない。まぁ、ビルゲイツですらハンバーガーを好んで食べたという話だからドバイでも意外に売れるのかもしれない。何はともあれ親父には頑張って欲しいものだと思う。




 しばらくすると電車がやってきて俺はそれに乗り込んだ。

 座席には座れなかったが混雑しているというほどでもない。俺は通路の手前側に立って吊革を握った。俺のすぐ傍で五人の女子高生が仲良く歓談している。俺は雛姫と同い年くらいの子たちを眺めながら、若さっていいなぁ、と思った。


 若々しい女子高生のブレザー姿がとても眩しい。

 自分が高校生の頃は制服の有り難みなど全く分からなかったが、いざ日常に制服がなくなってみると初めてそれが素晴らしいものだったと分かる。


 特にこの紺色のスカートから覗く膝裏の素晴らしさよ。

 膝裏がチラリと見えるスカート丈。それ以上でもそれ以下でもいけない黄金比だ。

 どの学校にもスカート丈は短ければ短いほど可愛いと思っている子が一定数はいるのだが、そうではないということを俺は日本中の女子高生に教えながら全国を渡り歩きたい。


 全国の高校へと赴いて女の子たちに、スカートは膝裏にかかるくらいが至高だよ、と教えてあげるのだ。そういう仕事があったら是非とも俺がやってみたい。とても素晴らしい仕事だと思う。




 五人の女子高生は全員とも黒色の運動かばんを手に提げていた。

 きっと同じ運動部の仲間なのだろう。彼女たちのスポーツで鍛えられたふくらはぎの曲線美が素晴らしい。健全で健康的な美はとても尊い。食材の多くに食べごろの季節があるように、彼女たちの健康的な美しさは今が旬なのだ。


 目で味わうことだけで我慢できずに手を伸ばしてしまう阿呆な中年男性の気持ちも少しは理解ができる。だがそれはNGだ。この光景はありがたく遠目に楽しむのが正解であり、誰に迷惑をかけるでもなく秘かに愛でるのが紳士の正しい在り方だろう。


 痴漢というのは女性の敵というだけではなく男性にとっても共通の敵だ。奴等がのさばっているせいで俺のような正義の紳士たちは冤罪を恐れ、常に吊革を握るなどの対策をしなくてはならなくなる。


 たとえ濡れ衣であろうとも容疑をかけられれば一発アウト。

 駅員室に連れていかれようものなら言い訳の余地なし速攻で現行犯逮捕。

 こと痴漢容疑に関しては疑わしきは罰せずという原則など嘲笑うかのような魔女狩りが平然とまかり通っており、それが冤罪ビジネスなどというふざけた犯罪に手を貸す一因となっているのだ。


 痴漢と冤罪ビジネスはいわば共存の関係にある。

 痴漢が一般女性を性的犯罪へのターゲットとして狙う一方で、冤罪ビジネスは普通に電車を利用している紳士諸君をターゲットする。痴漢が増えれば冤罪ビジネスはやりやすくなり、冤罪ビジネスが増えれば痴漢がやりやすくなる。ここに悪魔的な協力関係が成立しているのだ。


 よって善良な紳士である俺は朝の満員電車は避け、たとえ夕方の混みあう事のない電車内であっても慎重にターゲットを尾行する探偵みたいに女性からはなるべく一定の距離を保つように心がけていた


 どれほど彼女たちの膝裏が素晴らしいものであっても決してジロジロと眺めたりはせずに漠然と視界へ入ってくるその光景だけを堪能するのが紳士の作法だ。男性のぶしつけな視線は女性を不快にさせることを紳士ならば自覚しなくてはならない。紳士は一日にしてならず。多くのマナーを学んで女性に不快感を与えることなくスカートから覗く膝裏を密かに堪能できるようになってようやく一人前なのだ。


 それにしても、と俺は彼女たちを眺めながら思う。

 元カノと付き合い始めた当時、年上だった恋人は今のあの子たちよりも若かったのだな、と。


 そう考えると少し不思議な気分になった。

 中学生の時はお姉さんだと思っていたが、今にして思えば彼女もずいぶんと子供だったのだ。大学三年生になった今では大学生のメンタリティなんて中学生の頃とあまり変わっていないことも分かる。成人は迎えたもののそれを機に大人になった自覚は特にない。大人であるということはどれだけ年を重ねたかではなく、きっと心構えの問題なのだ。


 元カノに振られた時は彼女の身勝手さを恨んだものだが、今はそんな気持ちなど全くなかった。当時は二人とも子供だったのだ。そう思ったら、振られたことも含めて元カノとの過去が良い思い出なのだと気が付いた。


 かしましい女子高生たちの話声が聞こえてくる。

 彼女たちも当時の俺たちみたいに甘くて苦い恋愛を楽しんでいるだろうか?

 できることならば後悔のない青春を送って欲しいと思う。




 目的の駅で降りた俺は近くのケーキ屋に寄っていくつかケーキを購入した。

 雛姫には彼女には抹茶ショコラ。美奈子さんには林檎タルト。

 二人とも甘いケーキが好きなのできっと喜んでくれるだろう。


 実家に帰るのは一か月ぶりだ。

 天馬荘からそれほど遠いわけではないので毎週帰っておいでと雛姫と美奈子さんは言うのだが、なかなか毎週という気分にはなれない。


 雛姫に会うのは抵抗ないのだが、美奈子さんのことはちょっと苦手だ。

別に嫌いというわけではない。母に似すぎているためどう接すればいいのが迷ってしまうだけだ。美奈子さんはかなり馴れ馴れしい性格の人で、そういう意味でも雛姫は母親似だ。ぐいぐいと距離を詰めてくる美奈子さんのスキンシップは正直俺にとってかなり気恥ずかしい。好き避けの一種なのは自覚しているが、ついおよび腰になってしまうのだ。


 実家は駅から歩いて10分ほどの閑静な住宅街にある。

 もともと俺と親父と母さんの三人が住んでいた家に、今は雛姫と美奈子さんが住んでいる。久しぶりに帰る実家は生まれ育った場所のはずなのになんだか自分の家ではないみたいだった。


 俺は門扉を開けて中に入る。今では女性の二人暮らしの家だが、俺も家族なのでわざわざインターホンを鳴らすことはしない。俺は玄関を開けて「ただいま」と言った。


「あらあら、あらあらあらあら~」


 独特のテンションでバタバタと玄関へ駆けてきた美奈子さんは俺の顔を見るなり「おかえりなさい、和樹くん」と出迎えた。そして俺が靴を脱いで家に上がると「わぁ、嬉しい」と美奈子さんは軽くハグをしながら頭を撫でてきた。


 美奈子さんは十九歳の時に雛姫を産んでおり、まだ三十七歳だ。

 一体どんな魔法を使っているのか知らないが肌は瑞々しく綺麗で目立つ皺はない。


 日頃から食事と運動には気を付けているのだろう。スタイルも驚くほど良い。胸は雛姫よりも一回り大きいのだが、胸にいった栄養が余って腰やお腹へと移動した形跡はみられない。身長は雛姫より10㎝ほど高くてモデル体型だ。


 容姿は少なく見積もっても実年齢より十歳は若い。

 二十代だと言っても誰も疑わないだろう。


 そのせいか美奈子さんに撫でられると年上のお姉さんに可愛がられているみたいで妙にこそばゆい。しかも容姿が記憶の中の母に似ているので凄く複雑な心境になってしまう。義妹や後輩をママと呼んでいる俺が言うもなんだが、とてもお義母さんとは呼びにくい。俺が美奈子さんと名前で呼ぶのはそういう理由があるのだ。


「雛ちゃ~ん。お兄ちゃんが帰ってきたわよ~」


「あっ、うん。ちょっと待ってて~」


 二階から雛姫の声がした。

 俺は手に持っていたケーキ箱を美奈子さんに預けると最初に仏間へと移動した。仏間の壁には母の遺影が置かれている。


 俺は母さんに「ただいま」と笑いかけた後、仏壇に線香をあげて合掌した。


 顔をあげて母の遺影に目をやった。

 そこには今の俺とさして変わらない年頃の母さんが写っている。母さんの時間は死んだ時点で止まってしまったが、俺は生きてきた分だけ年をとった。あと数年もすれば俺は二十代半ばでこの世を去った母さんと同い年になるだろう。


 今の俺とそう変わらない年齢で俺を産んで、小さな俺を残してあの世へと旅立たねばならなかった母さんの心境を思うととても可哀想になる。母さんだって俺をもっと可愛がりたかっただろうし、その成長を見届けたかったことだろう。


だが、それは叶わなかった。


 母さんは俺を十分に可愛がることはできなかったし、俺は母さんから十分に愛情を受け取ることができなかった。受け取ることのできた愛情の質はとても素晴らしかったが、その量は圧倒的に不足していた。時間がそれを許さなかったからだ。


 子供にとって両親の愛情は栄養と同じようなものだ。

 母の愛と父の愛は同じ愛でも種類が違う。穀物とお肉くらい違っているのだ。穀物だけでもお肉だけでもお腹は膨れるけれども、一方だけでは十分ではない。両方あって初めてバランスのとれた栄養を摂取できるのだ。


 不足した栄養はどこかで別に補うか諦めなければならない。

愛情が十分なのが理想的だが、不足していてもやがて子供は成長する。

そして個人差はあるが、子供は次第に愛情が不足した状態に慣れていくのだ。


 ちなみに俺は早い段階でそのことに慣れることができた方だと思う。


 それはきっと母さんが天国で心配しないように『和君がしっかりしてくれると嬉しいな』という母さんの言葉をしっかり守ろうとしたからだろう。だが、慣れただけで決して愛情が欲しくないわけではなかったはずだ。それはケーキがないからとパンで我慢するのと同じだ。お腹が満たされても心まで満たされるわけではない。


 しばらく母さんの遺影を眺めていると少年時代に感じてきた寂寥が蘇ってきた。

 母さんに会いたくて、会えない寂しさ。

 それは久しく忘れていた感覚だった。きっと忘れさせてくれる人がいたからだろう。


 今の俺は十分に満たされているのだと思う。雛姫もいるし美奈子さんもいる。考えてみれば、俺は親父が再婚した頃から寂しい思いをしなくなった。実家から出て大学で一人暮らしをはじめても、それは変わらなかった。


 ある意味、自立したのだろう。

 しかし、心の拠り所として雛姫や美奈子さんに依存してもいるのだろう。


 俺は大学生になるとすぐに実家から出て一人暮らしを始めた。

 就活を始める前までは大学近くのファミレスでアルバイトをしていたこともある。バイトとはいえ初めて自分で働いて賃金を受け取った時、俺は一人の男としてついに自立できたのだと思ったものだった。


 けれども、それは大きな勘違いだった。

 俺は赤ちゃんプレイを通じてそれを雛姫に思い知らされたのだ。


 あのプレイは自分の一番弱い部分を浮き彫りにさせる特性がある。

 無防備で無力な赤ん坊になるということは弱い部分を曝け出す行為なのだ。俺は赤ちゃんになることで心の中にあった自分の空白に気が付いた。俺が決して一人では埋めることのできなかった空白がそこにはあった。


 けれども、気が付いた時にはその空白は完全ではないが既にある程度は埋まっていた。

 埋めてくれたのは美奈子さんと雛姫だ。

 俺は知らず知らずのうちに彼女たちに助けられ、そして依存していたのだ。


『ごめんな母さん、雛姫と美奈子さんに依存する弱い俺と父さんを許して欲しい』


 そう心の中で母さんに謝った。きっと母さんなら許してくれるだろう。

 でもちょっと複雑そうな顔をしているような気もする。母さんはヤキモチ焼きだから。


 しばらく遺影の前で立ち尽くしていると襖が開いて後ろから声がした。

 振り向くとベージュのワンピースを着た雛姫が立っていた。


「おかえり、お兄ちゃん。久しぶりに帰ってきたんだね。お兄ちゃんも週一くらいは帰っておいでよ。ママも寂しがっているし、定期的に真那花さんにも会いに来なきゃだよ」


 雛姫はそう言って、仏壇の前に座ると手慣れた様子で線香をあげて合掌した。


「真那花さん。お兄ちゃんのことは私にお任せ下さい。お兄ちゃんは元気ですよ」


 本来なら俺が伝えるべきことを雛姫が母さんに報告してくれた。

 俺は微笑ましい気持ちになって雛姫と遺影を交互に見つめると、

『まぁ、そんな訳だからさ。元気でやってるよ』と心の中で母さんに言った。


「ありがとう、雛姫。きっと母さんも安心してるよ。せっかくだから、俺も誠司さんに挨拶させてもらって良いかな?」


「もちろんだよ、お兄ちゃん。きっとパパも喜ぶよ」


 雛姫はそういうと俺の手を引いて二階へと連れて行った。

 雛姫の実の父親で美奈子さんの前の夫だった逢妻誠司さんは八年前に交通事故で亡くなっている。轢いたのは78歳の老婆が運転するスズキのアルトだ。


 信号が赤になっているにも関わらず突っ込んでくる車に気が付いた誠司さんは、小学生の女の子が車に気が付かず横断歩道を渡っているのを目にして咄嗟に飛び出し少女を庇って轢かれたのだ。幸い女の子は軽い打撲で済んだのだが、誠司さんは頭を強く打って死亡した。


 俺は雛姫からその話を聞かされたことはないが、前に美奈子さんから聞かされたので知っている。彼の小さな仏壇は父親と同じ逢妻の姓を名乗っている雛姫の部屋の壁に立てかけられており、遺影はそのコンパクトなミニ仏壇の横に置かれていた。


「はい、どーぞ」


 久しぶりに入った雛姫の部屋は綺麗に片付けられていた。

 多分、俺が部屋に入るのを予測して前もって掃除していたのだろう。床はしっかり雑巾がかけられている。きっちりと整理された形跡があり、小物は邪魔にならない場所に整頓されていた。ピンク色のカーテンや花柄のベッドシーツがいかにも女の子の部屋らしい。ミニ仏壇は本棚の横の壁に掛けられるように設置されており、そのスペースの右側に誠司さんの遺影が置かれていた。


 本棚を覗くとそこには参考書が並べられている。一目で大学受験を控えた学生のものだと分かるラインナップだ。勉強机には赤本とノートが広げてあり先程まで勉強していた形跡が残っていた。


 ベッドの上には見覚えのある大きな熊のプーさんのぬいぐるみが置いてある。一昨年前、雛姫が欲しがっていたので誕生日に俺が買ってあげたものだ。プーさんは布団を被った状態で寝かされており、とても平和そうな姿だった。


 俺が視線をぬいぐるみに向けていると、その視線に気が付いた雛姫がぬいぐるみを手に取ってギューっと抱きしめた。


「へへっ。この子をお兄ちゃんだと思って毎日抱いて寝ているんだよ」


「へぇ、なかなか羨ましいヤツだな」


「もし良かったら今夜だけお兄ちゃんこの子と変わってみない?」


「魅力的な提案だけど美奈子さんに怒られそうだから止めとく」


「そうかな~、ママなら大丈夫な気がするけど?」


 そう言われると俺も美奈子さんなら大丈夫な気がしてくる。

 あの人は何というか人の色恋沙汰を当人以上に楽しむタイプなのだ。クラスに必ず一人はいる恋愛の噂ばなしが大好きな女の子がそのまま大人になったのが美奈子さんだ。


 いくらなんでも俺たちが血の繋がった実の兄妹なら全力で止めるだろうが、そうではないので美奈子さんなら逆に応援されかねない。


俺は雛姫に敢えて返事をせずに彼女に抱かれたプーさん人形を撫でてやった。


「なるほど、キミはずいぶんと可愛がられているわけだね」


「そりゃ~、お兄ちゃんからのプレゼントだもん。大切にするよ~」


 世の中には男からのプレゼントを質屋に売り払う悪い女もいるらしいが、雛姫はどうやらそういった悪い女にはなりそうにもなかった。プレゼントの扱い方は贈った相手をどれほど想っているのかを測るバロメーターとなる。分かってはいたものの、どうやら俺はずいぶんと雛姫に愛されているらしい。


「良かったな。雛姫に大事にされているお前は幸せものだぞ、っと。ああそうだ、まずは誠司さんに挨拶しないと」


 この部屋に来た目的を思いだした俺は本棚の横の壁に飾られているミニ仏壇の前に立った。おそらく逢妻の実家にはもっと立派な仏壇があるはずだが、彼が愛した美奈子さんと雛姫が住むこちらの家にこそ彼の仏壇が必要だろう。きっと誠司さんの魂だって二人の姿を見守っていたいはずだ。


 とはいえ、俺は線香をあげ合掌しつつ考えてしまう。

 仮に死後の魂に意識があったとして、他の男と再婚した妻と子供が新しい夫の家で生活している様子を眺めていたいだろうか、と


 もし俺が死者の立場だったら、どうだろう?

 多分、死んでしまった以上は生者に干渉できないので仕方がないと諦めるだろう。だが諦めたとしても複雑な気分になるのは間違いない。気持ちの整理をつけなくてはいけないと思いつつ、やるせない気持ちになると思う。


 死には理不尽なケースが多い。

 心残りを抱えたままこの世を去らねばならないというのは不幸なことだろう。

 それはよくある不幸の一つだが、最も悲劇的な不幸の一つだ。


 きっと生者である俺が誠司さんのために出来ることは少ない。

 強いて挙げれば雛姫が少しでも幸せになれるように努力するくらいだろう。美奈子さんを幸せにすることは親父の役目なので俺がでしゃばる必要はないはずだ。


『どうか雛姫のことはお任せください。兄として雛姫をしっかり見守っていきますので、どうか安らかに』


 そんな風に祈った。

 結果として雛姫が母さんに祈った内容とだいたい同じになった事に気が付いて俺はつい苦笑した。やはり生者が死者に対して出来ることは少ない。そういう事なのだろう。


 愛する人のために何かができるならば、それはお互いが生きているうちの方が良い。

 そしてちゃんと言葉と行動で示さなければ意味がないのだ。

 現実世界でやり直しは効かない。

 自分の手が相手に届かなくなってからでは全てが遅いのだ。


「じゃ、下へ降りよっか」


 ゆっくりと閉じていた目蓋を開いた俺は雛姫にそう言った。

 それと同時にシーンとした空気が動き出すのを感じた。死者の時間は止まったままだが、俺や雛姫の時間は常に移ろい変わりゆく。それが諸行無常というやつだ。



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