あなたの健康を損なうおそれがあります
作楽シン
第一章 ブラック・オア・ホワイト
第1話 トイレは爆破していない
事のきっかけは、つまらない合コンだった。
「あータバコ吸ってもいい?」
歓迎会なんかでざわつく居酒屋の店内で、一応礼儀かなと聞いてみたら、向かいに座った女は、あからさまに嫌そうな顔をした。「いいけどぉ」と言って、ビールを飲む。表情も言葉も芝居かかった仕種もブッサイクで、イラッとした。
今日び、喫煙者がもてないのなんか俺だって百も承知だ。だいたい俺だってここが禁煙なら吸わないが、居酒屋だ。居酒屋でくらい吸わせろ。近頃、飲食店とか建物での禁煙を法令化するとかなんとか、色々あがっているが、まだ違法じゃねーし。
別に来たくもない合コンだった。数合わせに呼ばれて、仕事で休みもほとんどない中、なんとか調整して職場を飛び出して来たって言うのに、これだ。
「あー悪い、やっぱ外で……」
「なんだ宮田、タバコかー。俺も俺も」
逃げようとした俺に気づいていないのかわざとか、友人がテーブルの上の灰皿を引き寄せて、タバコを出す。向かいの女がますます嫌そうな顔をした。友人の向かいの女はスマホをいじっている。あーもうどうでもいいや。
「なあお前これ出来る?」
友人も女には興味がなくなったのか、タバコをプカプカふかしながら言った。
「なんだよ」
「まあ見てろよ」
タバコをくわえながらしゃべると、友人はすぱすぱと何度か吸い、口の中に煙を溜める。うがいをするようにぷくぷくと頬を膨らませたりすぼませたりしてから、唇の隙間からぼわーっと煙を吐き出し、吐き出した煙を全部鼻から吸い込んだ。俺はブフッっと吹きだした。
「うっわーなんだそれバカッっぽい!」
「滝登りってんだよしらねーの? これはできるか?」
またタバコを大きく吸って頬に煙を溜めてから、今度はぽふっと煙の塊を吐き出した。白い煙はきれいな輪っかになって宙をただようと、もやもやと薄くなって消えた。
「あー輪っか! やり方しらねー。教えてくれよ!」
「これ簡単だぞ、口の中に煙溜めて舌で輪っか作るんだよ」
教わるがなかなかうまくできない。女たちをほったらかしにしてきゃっきゃしている間に時間が過ぎ、全員の分を完全に割勘にして合コンは終わった。二次会もないつまらない合コンだったが、普通に仕事しているより早く帰れるのが皮肉だ。酔っ払っていた俺はなぜか帰宅途中のコンビニで焼きそばを買い、それっきり寄り道もせずに家に帰りつく。焼きそばを座卓に放り投げて、俺はとりあえずトイレに入った。
築三十年にはなる古いマンションの狭いワンルームだが、風呂とトイレは別になっている。古くさいがトイレはウォシュレットだ。今時ウォシュレットじゃないと借り手がつかないとかなんとかで付け替えたのだと不動産屋が言っていた。なので、トイレの居心地はいい。
俺は家ではトイレでタバコを吸うことにしている。換気扇はあるし壁紙は汚れないし、落ち着くし。近頃はベランダ喫煙も厳しいので、こういうところで吸うしかないのだ。
便座に腰掛けて、胸ポケットから赤ラークの箱とライターを取り出す。タバコをくわえて火をつけた。
家に帰ってするいつもの一連の動きだ。
煙を口の中にため、ひとまず深呼吸のように、肺いっぱいに吸い込む。ゆっくりゆっくりと吐き出す。狭い自分の空間で、うざい女もブラックな仕事も忘れられる、至福のひと時だった。
全身の力が抜けそうなほどリラックスして、俺はさっき友人に教わった技をもう一回やってみることにした。口の中に煙を溜めて、舌を巻き気味にしてから、ふうっと吐き出す。
さっきはあんなにやってもできなかったのに、煙はきれいな輪っかになった。ぷかぷかとただよい、広がって薄れていく。
「おーできたー」
独り言がもれた。輪っかになった煙は、ふわふわと壁に当たって消えた。
――――と思った瞬間、轟音が鳴り響いた。
びっくりしたのと爆風で、俺はトイレのタンクに背中を打ち付けた。
トイレの壁は、丸の形に吹き飛んで、ヤニで黄色くなった壁があるはずの場所から、散らかりきった俺の部屋が見えていた。
爆音がした、と通報されて、夜中に警察の訪問を受ける羽目になった。「いやー寝ぼけてタバコで小火起しちゃってびっくりして棚ひっくり返しちゃっただけで、大丈夫っす、大丈夫っす」と追い返したものの、めちゃくちゃ怪しまれた。
壁に大穴をあけてしまったので、翌日、仕方なしにマンションの管理会社に電話して、小火を起こしてしまったと連絡した。黙っておこうかと思ったが、ごまかしようのない穴だ。状況確認に保険屋が来るということなので、またもや周りに頭を下げまくって仕事を調整して、せっかく平日の夕方なんとか時間を作ったのに。
状況確認に来た保険屋は、不審者を見る目つきで言った。完全に体が引いてる。
「これ……どう見ても、小火じゃないですよね」
……ですよねー。
「いや、本当に、トイレでタバコ吸ってたらこんなんなっちゃってたんですよ。酔ってたから知らないうちに寝ちゃってたのかもしれないんで、ちょっとひどいことになってますけど!」
「でもこれ、穴開いてますよね。貫通してますよね。小火ってこんな燃え方しないですよね。まさか家の中で変なことやってませんよね? 爆発物作ったりとか……」
「いや、いや、いや、この焦げ方どう見てもトイレ側からでしょ、トイレで爆発物作らないでしょ!」
調査員は、黙りこんだ。トイレで爆発物を作らなくても、作った爆発物をトイレで試しに爆発させてみたりすることはあるかもしれない、と考えている顔だ。とりあえずやたらめったら写真を撮っていた。そして、「上司と相談してからまたご連絡します」とだけ言って帰って行った。帰りしな、玄関を出てすぐどこかに電話をしているようで、警察に連絡したほうが……とか言ってるのが聞こえて、俺は玄関に座り込んでしまった。
これ、もしかして、かなりやばくないか。
警察には怪しまれる、保険会社にも怪しまれる。保険がおりるどころか逮捕されるかもしれない。なんてこった冤罪だ。タバコを吸っただけなのに。いやでも状況がおかしいのは認めざるを得ない。だからといって冤罪だ。不安になりつつも、いつも通りにブラック会社から帰宅した翌日23時50分。日付が変わるギリギリだった。世間の残業規制の波なんてなんのその。
まだ肌寒い春の夜空の下、マンションの前に、黒スーツの男が二人立っていた。
今度はその筋の人か? それとも真っ黒なスーツはもしかして葬儀屋か? 俺もしかしてあの爆発で死んだのか?
いや俺に用とは限らない。無視に限る。
「今仕事の帰り?」
さりげなさを装ってマンションのエントランスに入ろうとしたところ、声をかけられた。あ、やっぱ俺か。
「何時だと思ってんの? 遅くない?」
言外に、めっちゃ待ったんだけど、とスーツの若いほうが不機嫌そうに言った。なんだお前は彼女か。ムッとする以前に気持ち悪い。なんで知らない奴が慣れ慣れしくそんなこと言ってくるんだ。無視だ。さっさと行こうとしたが、黒いスーツはまだ話しかけてくる。
「ちゃんと残業代出てんの?」
「…………裁量労働制ですけど」
仕方なしに応えると、若い黒スーツは渋い顔をした。
「うわーブラック! 社畜!」
なんで見ず知らずのやつに罵られねばならん。
こらこら、とおっさんのスーツにたしなめられて若いスーツは黙ったが、イライラしてきた。
「あんたたちなんなの?」
おっさんはにっこりとサラリーマンスマイルをこちらに向けて言った。
「宮田さんですよね。エンジニアさんでしたっけ。今のお勤め先にあまり満足されていないようですが」
怪しい者じゃありませんオーラを出そうとしているが、知ったこっちゃない。俺は普段からたまりにたまった疲労と、先日からのゴタゴタで、ストレスフルだった。
「なんか関係あんの? 労基の調査? 俺早く帰ってビール飲みたいんだけど」
言ってから、得体の知れないこいつらがなんでそんなこと知ってるのか、ということに疑問が湧いた。俺の家の前、俺の名前、俺の仕事。一気に気味が悪くなる。
なんだどっかで会ったのか、仕事関係か、この間の合コンのからみか、黒スーツからしてその筋の人か、しかし絡まれる理由が思いつかない。
色々考えたって、こんな訳の分からない状況の原因なんて一つしか思い至らない。ということは。
「え、あんたら警察? 逮捕? 冤罪?」
「あ、いえいえ、我々こういうものでして」
おっさんが名刺を出した。ナントカ調査会社、と書かれている。
「あー……タンテイさん」
「そんなようなもんだけど、ちょっと違うかなー。異能力者を集めて、怪奇現象の調査とか研究とかしてる会社でね」
……なんかおかしなこと言いだした。
名刺をよくよく見ると、会社名の横に「奇妙な音や現象に悩まされていませんか? お気軽にご相談を!」と変なキャッチフレーズが書かれていた。
「ちょっと、保険会社ともつながりがあってね。トイレ爆破させた時の状況を再現してくれたら、保険会社と警察にはいい感じに説明した上に、新しい就職先紹介できるけど、どう?」
トイレ爆破って中二病っぽい言い方やめて。
――かくして俺は、十年務めたブラックな会社をやめて、謎多き会社へ転職したのだった。
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