グラディウス(刀剣)から。
伊藤マサユキ
第一部
序章 逃亡
薄暗い古城の広い通路を、少年は息を枯らしながら走っていた。
少年が向かう先の逆、後方の古城の外からは数千という数の兵士達の
十五歳ほどの、まだ幼さが残る柔らな赤毛を持った少年である。
痩せ型の少年であるものの、身を包む真新しい鎧の中にはしっかりとした
まだ幼い少年が、その見た目とは相反するような形相で走り続けている。
今より少し前のこと、少年の元に凶報が届いた。
別働隊の兵からの報告を聞いてすぐに、自らの持ち場と兵達を置いて単身で走り出した。
古城の居館の入り口から長く続く通路を周囲に注意しながら走り、自軍の兵や魔物の亡骸をいくつか見たが、城内での戦闘の音は一向に聞こえてこない。
通路の先に多少明るくなっている部屋が見えてくる。
その入り口に近づくにつれ、部屋の中央で
まさかと思う気持ちを抑えながらその人影に駆け寄るも、距離が縮まるごとに自身の不安が現実味を帯びてくる。
「――父上!!」
声を張り上げながら部屋に走り入ると、その人物が少年と同じ戦場に出ていた父親だと分かった。
自身の肘を支えにしてこちらの方に這いずっていた少年の父は力弱く顔を上げる。
「……フェルナンドか」
「父上、私です!! 一体何があったのですか!?」
少年に届いた報告は、少年の父の部隊と魔物を率いる将の部隊とが戦闘に入ったこと、また自軍が劣勢であることだ。
少年の父は部隊から少数の兵を選抜して、城の本丸である居館に向けて突入をかけていた。
報告が届いた時の少年はというと、父の命を受け、残った兵達を率いて城門近くの戦闘で剣を振るっていた所であった。
あろうことか、その報告を届けたのは少年の父と時を同じくして城内に突入し、その戦闘の有り様を見て本陣近くまで逃げ帰ってきた別隊の兵だった。
しかし、今まさにたどり着いたこの部屋には戦闘の後はほとんどなく、敵軍の将の姿も見えない。
報告の内容と状況との違い、そして父の姿の有り様を見て、少年の頭は混乱する一方である。
少年はすがり付くように父親の前に膝を付き、弱々しく動くその肩に手をあてる。
近くでその姿を見て少年は目を見張った。血と汚れからすでにその身が満身創痍であることが分かる。
その背中には何本もの矢を受け、着込んだ鎧の胸部が斜めに裂かれている。
「……すまない、こんな形になるとは。私も長くはないだろう……お前は早く逃げろ……」
「一体何があったのですか!? 父上の兵は……皆はどこに?」
「……のんびりと説明している時間はない。せめてこれを持て……。とにかく逃げるんだ、国には戻るな……」
腰に付けた皮の小袋から紫色に光る結晶を取り出し、少年の手に握らせてきた。
父親の声の弱々しさと城内の静けさに、部屋の明かりがじりじりと燃える音ですら耳ざわりに感じる。
少年は父親が何を言っているのか全く分からなかった。
もっとも、少年の頭は混乱と焦りで埋め尽くされており、動転して収まらない呼吸を抑えるので精一杯だ。
致命傷を負ったように見える目の前の父親と共に、本陣に引き上げることだけを考えている。
「父上、早く陣に戻って手当てを! 私が支えに――」
「申し訳ないが、それはできないな」
部屋のさらに奥の暗がりから、一人の男を先頭に数名が近寄ってくる。
石造りの床を踵で蹴る音を響かせながら、こちらに向かってくるのは少年もよく知った顔だった。
息絶え絶えの父親が今にも力尽きそうであることと、父親の隊と同時に突入したはずの総隊長――自国の王子であるその男と周りの兵達がほとんど無傷でいること、それらの現状を見て少年は更に混乱する。
嫌な予感が胸の内からこみ上げてくるが、その考えを理解することを頭が拒否しているのか、考えが整理できない。
「あなたは……バズルール隊長――」
「フェルナンド!! ……逃げろ!! 走るんだ!!」
少年の父は搾り出すように叫び声を上げる。
「行くんだ!! 早く――」
少年に向けた声が終わらないうちに、目の前の父親の背、さらに首に矢が突き刺さる。
血走った目で少年に叫びかけていた父は口を開けたまま言葉にならない声を出した後、頭をがくりと落とし、少年に体重を預ける。
父親の手から力が抜けていくのを感じた少年もまた嗚咽のような声を出し、そして矢が飛んできた方に顔を向けると、数名の兵がこちらに向けて弓を構えているのが見えた。
腰にくくりつけた鞘から剣を抜き放った先頭の男が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
体を動かせず呆然とする中、こちらに歩いてくる男が攻撃指示のサインを出し、弓を構えた兵が新たな矢をつがえる姿を見た時、急に現実が戻って来た。
単身でいた傷を負った父親の姿を見た時すでに察していたはずの事実を、ようやく理解したのだ。
すでに物言わぬ父親の手を離し、弾かれるように立ち上がると、来た道を走り始めた。
「撃て」
淡々と指示を出す声と、矢が風を切る音が耳の後ろに聞こえるが、わき目も振らずただひたすら前に走り出した。
目の前で父親が味方の手にかかって死んだ。
それを見ても、あまりに突然のことに怒りや悲しみはこみ上げてこず、ひたすら湧き上がる焦燥感のみを持って走り続ける。
汗なのか涙なのかも分からないもので、少年の視界がぼやける。
先ほどと同様に暗い廊下を走り、走り、古城の外に飛び出す。
外は先刻までと同様に騒然としていた。
剣と剣がぶつかり打ち鳴らされる音、進めと進軍を鼓舞する叫び、剣を握ったまま血を流して倒れている骸、建物が燃える音、煙。
城の居館から飛び出る前、走り続ける途中で追っ手がないことに気付いていたが、それら全てを無視して城門に向かって走る。
息を切らして全力疾走で走る
鳴り続ける兵や魔物の叫びが耳をつんざくが、それでも少年の足は止まらない。
数刻前、自国のためにと慣れないながらも勇猛に剣を振るっていた少年だが、その戦いの記憶や目の前に広がる景色、その全てが非現実的に感じられ、ただひたすら前にと考えるだけだった。
まっすぐに城を外に出る道を走り、城門を飛び出して道脇の森に飛び込む。
もはや味方の兵はもちろんのこと、周囲に何の気配も感じないような森の中に入っても少年はまだ走り続ける。
前に、前に、ただひたすら前に進んで森の奥まで走り続けたところで、木の根に躓いて転んだ。
地面に倒れこみ、無我夢中で走り続けたからか転んだ際の衝撃で痛めたのか、少年はもはや立ち上がることができない。
こわばった体の力を抜いて空を仰ぐと、木々の隙間から星が見えた。
走ること、動くことをやめると、少年の目に焼きついて離れない先ほどまでの光景がフラッシュバックする。
父の敵を目の前にしていながらも、自分は剣の柄にも触りすらしなかった。
目尻から流れ続ける涙に気付き、再びにじんでくる視界の中、こちらを見返してくる星々の輪郭が崩れていく。
自身や少年の父に何が起きたのか、少年には検討もつかない。
だが少年のこれまでの短い人生、先ほどの事が起こったその一瞬で、その全てが崩れ去ったことだけは分かった。
ここまで胸の中に納められていた感情が徐々に顔を出してくる。
走りに走ってあがりきった息を嗚咽と共に吐きながら、そんなことを胸中で反芻していると、急に爆発するかのように今まで抑えていた色々な思いが少年に襲いかかり、ついには大声を上げて泣き叫んだ。
森の中にこだまする少年の怒りとも悲しみとも分からない声。
少年自身、父親が死んだ現実を悲しんでいるのか、何もせずに逃げた自分が悔しいのか、湧き上がってくる感情が何であるのか分からない。
少年の悲痛な叫びを聞くものは誰もいない。
その光景は酷く無様なものだっただろうが、少年にできることはただ泣き叫ぶことだけだった。
――どれくらい泣き続けただろう。
声を上げることをやめ、涙も枯れたところで我に返ったように少年はゆっくりと起き上がった。
ふらふらと立ち上がり自らの
死の間際の父親から渡された、月の明かりで静かに光る石。
自身に残されたものは恐らくこれだけだろうと、少年は再認識する。
先ほどまで自分がいた場所に背を向け、恐らく魔物がいるであろう森の中――闇の奥へよろよろと歩き出す。
その夜、一つの国では戦いの劇的な勝利で歓喜に包まれ、名誉の戦死をとげた国軍の隊長を偲びながらも喜びの声で国中が満たされた。
しかしその戦いの中で、英雄の息子である一人の少年が消えたことに気付く者は、そういなかった。
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