モノクロ、陰気。
森音藍斗
モノクロ、陰気。
かちりと音が鳴り、短い針と、長い針が、重なる。
その瞬間を、私は見ていた。
日付が変わったら明日になるのか。それとも就寝によって日付を区切るのか。それは意見の分かれるところであって、私はどちらかというと寝て起きるまで日付を越えられない質なのだけれど、じゃあ寝なければ月曜日はやってこないのかというと、現実はそこまで甘くはなく、むしろ、サザエさん症候群なんて慈悲深い初期微動を与えてくれたりもする。
Blue Monday.
わざわざ太陽が起きる前に起きて、行きたいわけでもなければやりたいことがあるわけでも会いたい人がいるわけでもない場所へ、回収日を逃したゴミ箱のように鮨詰めにされて、物理的にも精神的にも肩身の狭い思いをしながら行く意味を考えるも、やはり、そういうものだから、としか私には言うことができない。
強いて言えば、生きていく為には金が必要だから、というひとつの解答を出すこともできるが、実感がない答えを無理矢理体に染み込ませるのは疲れるし、そんなことをしている暇があったらさっさと休日気分をシャワーで洗い流して眠りに就こう。
昨日の分の睡眠薬の空容器と、ベランダから引っ張り込んだまま放置された洗濯物を視界に入れないで、私は冷たい廊下にひたと裸足を踏み入れた。
**
普段は満員の電車に、運良く空席を見つけた。ここぞとばかりに滑り込む。私は気分が悪いんだ。座る権利はある。
折角手に入れた安寧を人に易々と受け渡す気はないので、顔を伏せる。目の前に誰が立とうと気にするものか。活字を追う気力もないので、印刷物も電子機器も取り出すのはやめた。軽く目を閉じて、うとうとできたら上等だ。耳と体内時計だけを頼りに、降車駅を待つ。無益な時間。それでいい。私は今からこの上なく有益な、濃密な、栄養過多な時間を過ごさなければいけないのだから。
アナウンスに反応し、電車の速度が落ち始めたのを感じて目を開ける。今日の車内は幾分かカラフルだ。葬式のような顔をした、汗かきの汚いおっさんがいない。しかし、見てくださいとでも言うかのようにスカートをたくし上げた、人口睫毛の女子高生もいない。じゃあ、まあ、プラスマイナスゼロか。よかろう。許可。許容。許す。赦してやろう、仕方がない。
ホームに降り立つと、そこは別世界だった。当たり前だ。座っていただけとはいえ、電車は私を平均時速百二十キロで運んでいたのだ。私に気付かれぬように。これを慣性の法則という。上手いことできたものだ。
周囲がいつもより陽気に見える。それは私から見た主観的な映像でしかなくて、実際に周囲の人間が陽気なのか、私が陰気なのか、周囲の人間が私を貶めるために陽気な振りをしているだけなのかは、永久に分からないし、分かる必要性もない。問題は負のスパイラルが今まさにここで行われているということだけだ。陽気な顔をしやがって。私はいつも通り、水槽の底を這うような、煙の充満した部屋で、助けを待つような。
誰も助けになど来てくれない。
通常営業か。構わない。
**
何かがおかしい。
何かがおかしいと思いながら、駅構内を歩いている。
何が違う。普段と違う。例えば、
カラフル、陽気。
そんなわけはない。今日は月曜日だ。皆帰りたいに決まっている。皆死にたいに決まっている。もっとモノクロでいい筈だ。もっと陰気でいい筈だ。道中で立ち寄ったチェーン店で、テイクアウトのコーヒーを買う。熱い液体も喉元を過ぎれば問題ない。今日さえ過ぎれば一週間はあっという間だ。今日さえ。今日さえ過ぎれば。そうぶつぶつと呟きながら、カップに下唇をつけ、香りを吸い込む。傍から見たら不審者か。私が気を遣う必要のある人が、そこに歩いているのかどうか。
普段より時間に余裕があるな。どうしてだろう。そうか、さっきの店で、あまり並ぶ必要がなかったからだ。都会の代名詞にもされている全国展開の喫茶店に、今日はいつもより人が少なかったように思われる。こんな朝早くから街に出るような奴は珍しいと考えれば、それも当たり前か。いや違う、普段と比べての話をしているんだ。私から見た主観的な映像。しかし明らかに、私がこれまでの人生で幾度となく経験してきた月曜日より、客の数が少なかった。そろそろあの店もお仕舞か。小気味いい。他人が零落れるのは小気味いい。しかし、コーヒーの店を新たに探さなければならないというのは少々億劫だ。
カラフル、陽気。
駅を出る。憎たらしい程の晴天に、昨夜の雨が洗い流した、すっきりと引き締まった空気が漂っている。そこへまた、次の雨まで少しずつ大気汚染をしていくのは、我々人間だ。無機質な四角いビル群が、こんなに無菌に見えるのは、やはり主観でしかないからだ。
私とそれの間にある空気が完全な清でないのを知っている。私の目が、完璧な鏡でないのを知っている。だから脳内補正をかけて、私の目蓋裏に再生されるのは、どこまでも完璧な世界だ。それは言うなれば、パソコンで描いた絵の、コピー機にもスクリーンにも再現され得ない、データそのもの。その中のひとつに、私は今向かっている。
**
いつもと同じ画像。いつもと同じ映像。しかしそれは見た目だけの問題で、中でデータがバグっていたなんて、我々が感知するのは至難の業で。
画面いっぱいのエラーサインを、繰り広げることもなく静かにフリーズしたままの電子世界、その内部で何が起こっているのかなんて知ったことではない。
拒絶された、締め出された、閉ざされた、冷たいガラスの扉は、いつもは私が前に立つだけで、否が応でも私を呑み込もうとするのに、今日は、押しても引いてもびくともしない。
だから何かおかしいと思ったんだ。さっきからずっとそう言っているではないか。
自分の直感が正しかったことに若干の満足を感じつつ、私は社員用の、時代に取り残された二つ折り携帯電話で、同僚に電話を掛ける。出ない。先輩に電話を掛ける。出ない。上司に電話を掛ける。出ない。事務に電話を掛ける。出ない。この世に存在するのは私だけか。まさか。そんなわけはない。それではまるでファンタジーだ。
カラフル、陽気。
どうすればいい。何が起こっている。何かがおかしい。違和感。開かない扉。カラフル。陽気。
無機質。汚染。コーヒーの香り。朝の空気。緩和された混雑。電車の空席。睡眠薬の空容器。サザエさん症候群。長針と短針が重なったときからきっと何かがずれていた。ずれる筈などないのだ。世界との乖離。バグ。そんなわけはない。慣性の法則。そう、世界に回された私が、世界から離脱することなどできるはずがないのに。
大体、狂っているのは世界の方だ。私は至って正常だ。どうして正常に誠実な無実の私が、狂った世界の気紛れに振り回されなければいけないのだ。馬鹿馬鹿しい。帰って寝よう。それで私の月曜日は終わる。次に私が目覚めるのは火曜日だ。もうBlue Mondayではない。カラフルにいこう。陽気にいこう。帰りがけに酒でも買って、家で独りで布団に入ろう。
今日世界がバグっているのは私のせいではない。となると、私がここで骨を折り、働きたくもない職場に何とかして侵入する手立てを考える必要性はないわけだ。むしろ積極的に手を抜いていこう。ドアが開かなかったんで。私悪くないです。いろいろと試行錯誤したんですけど。残念、仕事したかったんだけどなー。
そこまで考えて、ふと思い出した。今日のお昼、あいつと約束していなかったっけ。
そうだった。すっかり忘れていた。危ないところだった。幸いにして、待ち合わせているランチの店は、ここからそう遠くない。じゃあ、適当にここらで時間を潰そう。空になったコーヒーの紙コップを近くにあったゴミ箱に捨てる。中身がなければ存在意義すら存在しない、お前はもう用無しだ。
暫く会っていないあいつと、どうして会う約束など立てたのだっけ。私から言い出したのか、あいつから言い出したのか。わざわざ月曜日。おかしいな。何故月曜日なんかに。もしかして、世界の誤作動はこれが原因か。思考回路だけ動かしながら、ポケットに手を突っ込んで、歩き出す。
たまたま時間があいてよかった。普通の平日の昼なんか、忙しくて誰かと食事をする暇などない。コンビニで買ってきた冷たいおにぎりを不浄の左手に、パソコンから離れられないのが常だ。社外までコーヒーを買いに行けたなら万々歳。
そうか、バグか。狂った時計、動かない画面。どこまでバグか。私は今の自分の格好を確認する。いつもと同じ。代り映えのないスーツ姿。ハンカチもある。ピアスもある。ボタンも掛け違えていない。財布、鍵、定期券、手帳、パソコン、会議の資料、鞄の中身も全部ある。おかしいところはない。
職場は開かない。街は、そう、カラフル、陽気。そうだった。
じゃあ、あいつは来るのだろうか。バグがそこまで及んでいたとしたら、今日の昼飯は独りでオムライスになるかもしれない。それは構わないが、あいつが正常な方の世界で私のことをいつまでも待っていたら、それは申し訳ないな。あいつはあれで律儀だから、連絡ぐらいしてくるだろう。向こうから電話を掛けたら繋がるのだろうか。さあ。どうだろう。
いや、私が試したのはまだ社員用携帯だけだったか。すると、プライベート用のスマートフォンなら作動するかもしれない。駄目元で電話帳を開き、あいつの電話番号を選択、発信。
コール数回で繋がった。
もしもし。
――もしもし、朝早いね。まだ約束まで三時間ぐらいあるじゃない、どうしたの。
いや、どうというか。
――俺の声が早く聞きたくなった?
そうではないが、否定するのも間違っている気がして、私は口を閉ざした。
――おい、何か言えよ。
電話口であいつがそう言う。
――調子狂うな。
狂っているのは私じゃない。
――え? 何だって?
……何でもない。
――お前、今どこにいる?
正直に言うのは憚られた。まるで、ランチが楽しみすぎて、朝から家を出てきてしまった人みたいじゃないか。
まだ家にいる。
――嘘吐け。外だろ。電車の音がする。
ああ、もう、こいつは。
――もしかして、今日が休みなの忘れて出勤してないだろうな。
私は返事をしなかった。電話越しに溜息が聞こえ、続いて押し殺した笑い声が聞こえ、それが長引くのと比例してカフェインに毒された私の心は凪いでいった。彼は私の名前を呼んだ。優しい声だった。
何。
――ランチはやめよう。
――今からうちに来い。
――迎えに行くからそこにいろ。
……わかった。
――そこにいろよ。着いたら連絡する。
わかったって。大丈夫。
信頼されてない。当然か。今まで散々迷惑掛けてきたから。
切れた通話の機械音を聞いていたら、思わず笑いが転がり出てくる。
たった一本の電話で、地球がまた軌道に復帰した。
Happy Monday, red letter.
カラフル、陽気。
素敵な祝い日にしようじゃないか。
モノクロ、陰気。 森音藍斗 @shiori2B
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