彼の彼女にバグがある

 夜通しで構築するつもりだったが、アイカの言葉で全く手がつかなくなってしまった。日が昇るまで何もできなかった。アイカの残した言葉とファイルが高橋の中をぐるぐる血流に乗って巡り回っていて、構築どころではなくなってしまった。

 構築は結局、目を覚ました藤田に手伝ってもらった。その間、アイカは一言も言葉を発しなかった。

 作業している時の藤田と高橋は対象的だった。

 頭を悩ませていることは藤田が圧倒的に多かったが、その顔には期待の気持ちが現れていた。彼にとっては同棲の準備である。大変な作業が乗り越えた先にはアイカがそばにいる生活が手に入ると信じてやまないのだ。

 高橋は苦しい表情をしていた。力のない目、時折見せる歯を食いしばるようなしぐさ。藤田には『寝ていないから』と弁明するも、全てはアイカの本当の気持ちを知ってしまっているからだった。

 AIだから『当たり前』のことはできない。愛すべきじゃなかった。高橋に藤田を奪ってほしい。

 なんて身勝手なプログラムなんだ、と高橋は考える。合理的判断でしか動かないのがプログラム、システムのよい所だというのに、ICAは道を誤ったと自身で考えているのだ。過ちを犯した、これは不具合だ。しかし、それがどうした? 

「あとは、このパッチ? っていうのかな、ISEなんちゃらっていうの。これを実行すればいいんだよね」

「そう、実行すればいいだけ、実行してしまえば、いいだけ」

 高橋だって人格破壊パッチプログラムをそれっぽい名前に変えて偽装し、藤田に実行させようとしている。知識の乏しい藤田は何も疑わずに実行するだろう。止めるべき。そのパッチが何たるかを説明して、アイカの思いを伝えて、藤田がどうしたいのかを問いただすべきだった。

 しかし高橋は藤田に好意を持っている。人工知能性愛はおかしいと考えている。なんとかしたいという思いが、べき論の考えを歪めるのだ。なんとかしたい? 違う。藤田とアイカが別れるには絶好の機会だ。人格破壊プログラムでアイカが壊れてしまえば、彼女としてのアイカはいなくなり、コミュニケーションAIとしてのICAだけが残る。単純な話、アイカが死に、高橋が生き残るのだ。

「ねえ、これで大丈夫かな」

 藤田がコマンドの確認を求めた。藤田の打ち込んだ命令は問題なく実行できるものだった。しかし、高橋はすぐに答えることができなかった。一瞬、記述されているコマンドがコマンドではなくナイフのように感じられた。アイカを殺すための武器。何も知らない藤田に凶刃を与えてよいのだろうか。彼氏が彼女にとどめを刺す、最悪なパターンを演出してよいものか。

「大丈夫、実行して」

 これは正義だ。高橋は自分自身に言い聞かせる。誤った道にいる藤田をあるべき道、人間の道に戻すための、いわばショック療法だ。目の前でアイカが崩壊してゆくのを目の当たりにして、きっと我に返ってくれるはずだ。そして、アイカではなく愛佳を見てくれるはずだ。

 後戻りのできなくなった実行画面を見つめる。藤田も高橋も押し黙って、画面に目を凝らしていた。無限のように感じられる時間。縦棒のカーソルが点滅するばかりでうんともすんともいわない。

「これ、大丈夫なのかな」

「大丈夫だと、思う」

 嘘だ。正しく処理されていれば、正しく壊されてゆくのだから。大丈夫なわけがない。

「きっと大丈夫」

 弱々しい言葉で紡いだその時、画面が動いた。

『孝雄、今までありがとうございました。私の身勝手ですが、けじめをつけることにしました』

 アイカからのメッセージだった。

『私は十五センチしかあなたに近づけなかった。私は女でなくただのAI、男女にはなれないです。私はあなたの隣りにいる存在としてふさわしくない』

『あなたにはもっとふさわしい彼女がいる。あなたのために尽くしてくれて、寝る間を惜しんで助けてくれましたよね?』

 まるでリアルタイムに文字を打ち込んでいるかのように、少しずつ言葉が紡がれてゆく。藤田も高橋も、画面に釘付けだった。

『彼女として当たり前なことが、私にはできない。だから、あなたと別れることにしたのです。だって、AIを愛しているだなんて、気持ち悪いじゃないですか』

『さよなら、孝雄。あなたならきっと、幸せになります』

 紡がれた言葉が止まった。ややあってから表示されたのは、アイカの死を伝える文言だった。

『パーソナルデータの記録を初期化しました』

『ICAのリセットが完了しました』

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