第40話 狙われた佐々峰姉妹
佐々峰姉妹は医科大学で二人の容疑者を探していた。
一人は市川という、雑誌のはがきに名前と住所の一部を残した人物。もう一人は進藤真矢という、新野悠季子と取り違えて解放された人物である。
奈帆子は五年前の容疑者が現在何歳になっているか、と考えてみた。五年という月日は長い。仮に医大に入学したばかりで事件を起こしていたとしても、今は六回生になっている計算である。そう考えると、この二人はすでに大学を卒業していてもおかしくなかった。
だが、それについては多喜子が面白い考察をした。
当時事件には関わっていなくても、後に犯人グループと知り合い、合流した可能性だってあるというのだ。なるほど、それなら特に年齢にこだわる必要はないのかもしれない。
それでも奈帆子は、市川も進藤も卒業して、今は研究生として大学に残っているのではないかと睨んでいた。高校を卒業して間もない学生が、犯罪の片棒を担いだとは考えにくいからである。
学生課では個人情報を開示してくれないので、調査は全て自分たちの足で行わなければならなかった。特に院生ともなると、専門の研究室に籠もるため、大学の敷地をうろうろしたところで見つかる筈もない。まずはどのように捜査を進めるかが問題だった。
そこでまず姉妹が考えたのは、学内の掲示物に二人の名前を探すことであった。しかし学生課や教授からの呼び出しは、通常名前ではなく学籍番号が使われる。よってこのやり方はすぐ壁にぶつかった。
次に二人は校舎内に潜入し、研究室の廊下に張り出された掲示物を見て廻った。こちらは学籍番号よりも実名が多用されていた。しかし「市川」と「進藤」の文字にはなかなかぶつからなかった。
それでも多喜子が四回生に一人、市川なる人物を発見した。ゴミ箱から回収した大学祭実行委員の名簿に、名前と連絡先が載っていたのだ。これには二人とも心が躍った。だが、五年前には高校生だったこの市川が、果たして犯人グループの一員なのだろうか。その点には少々疑問が残った。
それでも捜査に行き詰まりを感じていた奈帆子は、思い切ってその番号に掛けてみることにした。念のため、駅の公衆電話から発信した。
「もしもし?」
男の声が出た。
「あの、ちょっとお伺いしますが」
奈帆子は、自分は女子大生だと名乗り、来月学園祭を開催するのだが、伝統ある医大の大学祭をぜひ参考にしたいと伝えた。そして準備の様子を見学させてもらえないか、と話を持ちかけた。
市川は、自分たちのノウハウでそちらの学園祭が成功することは願ってもないことだ、と話に乗ってきた。どうやら奈帆子の餌に食いついたようだった。
彼は詳細は会って話そうと言った。奈帆子は少しも躊躇することなく、日時の約束を取り交わした。
「お姉ちゃん、直接会っても大丈夫かしら?」
電話を切った途端、横から多喜子が言った。
「仕方がないでしょ。このままだといつまで経っても市川は見つからないんだから」
「ねえ、もしこの市川が犯人の一人だとしたら、私たちも誘拐されちゃうんじゃない?」
多喜子は心配を隠せない。
「大丈夫よ。昼間に人の多い場所で会うんだから、そんな危険はないわよ」
「沢渕くんか、クマ先輩に一緒に来て貰おうよ」
「これは私たちに与えられた任務よ。自分たちの力でやり遂げたいじゃない」
奈帆子は強い調子で言った。それでも多喜子はまだ何か言いたそうだった。
その翌日の昼近く、姉妹はファミリーレストランへ出掛けた。約束の時間まではまだ一時間ある。車から降りると、二人は駐車場で別れ、それぞれ別行動をとる作戦に出た。
奈帆子は店員の案内で、窓側の席に腰を下ろした。それから目印の赤いリボンを髪につけた。
多喜子は店員に頼んで、奈帆子の背中が見える、斜めの席についた。
「多喜子、聞こえる?」
携帯から姉の声がした。実は市川との面会は電話回線をつなげたまま行うことにしていた。非常事態が発生した場合、妹が直ちに行動を起こせるようにである。
「バッチリよ。お姉ちゃん」
「気づかれないように写真を撮って頂戴。いいわね?」
「了解」
約束の時間少し前に若い男が現れた。奈帆子の赤いリボンを見つけると、早足に近寄ってきた。
「初めまして、市川です」
慣れた手つきで握手を求めてきた。奈帆子も立ち上がってそれに応じる。
「お電話した山本です。お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、どんな方だろうかと楽しみにしてました。綺麗な方で、今日は来てよかったと思います」
さすがに大学祭の実行委員を任されているだけに、市川は社交的な男だった。奈帆子は果たしてこの目の前の人物が犯人かどうかだけを考えていた。
市川はメニューを繰って、やや値の張るランチを奈帆子の分まで注文してくれた。
「山本さん、どちらの大学でしたっけ?」
奈帆子は実在する大学名を言った。
市川は何の疑いもなく、
「ああ、その大学ならよく知っていますよ。フェンシングで有名でしたよね?」
「ええ、そうですね」
奈帆子は適当に相づちを打った。
「ところで、どうやって僕の電話番号を知ったのですか?」
市川はのんびりした口調で訊いた。
「実は、私の友人の彼氏がそちらの医大に通ってまして、学園祭の話をしたら、知り合いがいるからといって教えてくれたらしいです」
「へえ、そうなんですか」
市川は興味深く言った。
(多喜子は写真を撮ってくれただろうか?)
食事が始まってからでは、よい写真が撮れない。そんな心配が頭をかすめた。
同時に、奈帆子はなぜか胸騒ぎを覚えた。やはり長年一緒に暮らした姉妹である。妹に何か異変が起きれば、虫が知らせるのだ。慌てて後ろを振り返った。
そこには、さっきまで居た多喜子の姿がなかった。今は見知らぬ老夫婦が座ろうとしている。
「山本さん、どうかしましたか?」
視線を元に戻すと、そこには市川の不思議そうな顔があった。
「いえ、別に」
奈帆子はそう言ったものの、居ても立ってもいらなかった。妹の身に何が起きたというのか。
「でも、あなたの言っていることは、全て嘘ばかりですね」
市川の声のトーンが突然変わった。奈帆子は必死にその理由を考えた。
「その大学にフェンシング部なんてないし、この番号だって研究室の連絡専用だから、部外者は知らない筈なんだ」
「でも、ちゃんと名簿には出てましたよ。それを見て掛けた訳ですから」
奈帆子は慌てて言った。
「ふん。あの名簿はお前たちをおびき寄せるための罠だったんだよ」
意味が分からなかった。奈帆子の頭は激しく回転した。
「お前たち、一体何を企んでるんだ?」
市川は鬼の形相を浮かべていた。奈帆子は震え上がった。最初からこの男はこちらの動きを察知していたのだ。今やっと思い至った。
突然、携帯電話からかすかな悲鳴が聞こえた。
「お姉ちゃん、早く逃げて」
多喜子の声だった。しかし今、奈帆子にはどうすることもできない。
「妹の命が惜しければ、一緒に大人しく店を出ろ」
それはさっきの市川とはまるで別人の声であった。
奈帆子はゆっくりと店内を見回した。昼のレストランは大勢の客で賑わっている。どのテーブルも笑顔が咲いていた。そんな中、心中穏やかではないのは、奈帆子ただ一人に違いなかった。
妹の多喜子が店内から拉致され、そして今、姉の自分も静かに席を立つように命じられた。この後、二人の身に何が待ち受けているのだろうか。命の保証だってないかもしれない。
何か行動を起こさなくては。これが最後のチャンスだ、奈帆子には焦りだけが募っていた。
「早くしろ」
男の声が、恐怖を増幅させる。駄目だ、考えがまとまらない。
仕方なく奈帆子は席を立った。妹が人質に取られているのだ。従わない訳にはいかなかった。
ちょうどその時だった。注文した食事を盆に載せて、ウェイトレスがやって来た。
「お待たせしました」
この状況をまるで知らない彼女は悠長に言った。
せっかく注文の品を持ってきたというのに、席を立とうとする二人を見て、不思議そうな表情を浮かべた。
果たして多喜子は無事だろうか。このまま外へ出てしまったら、二人とも自由を奪われるだろう。それでは一巻の終わりである。ついに結論に至った。
奈帆子はウェイトレスのお盆にわざと身体をぶつけた。その衝撃で茶碗が宙を舞った。
次の瞬間、床に落ちた茶碗は、不快な音を立てて見事に砕け散った。賑やかな店内は一瞬で凍りついた。どのテーブルの客も、この一大事に目が釘付けになっていた。誰もが奈帆子の次なる行動を興味深く見守ることになった。
「ごめんなさい」
奈帆子は大袈裟な声を上げると、床に膝を落として散らばった茶碗の破片を一つひとつ拾い上げた。
ウェイトレスは慌てて、
「お客様、気にしなくても大丈夫です。私が片付けますので」
と、奈帆子の身体を床から剥がそうとした。
奈帆子はそれには応じず、男の方へ憎悪の目を向けた。彼はポカンと口を開いたままだった。
「何やってるの。あなたがしっかりしないから、こういうことになるのよ。とっとと拾うのを手伝いなさい」
奈帆子は物凄い剣幕で、一気にまくし立てた。
店内は不穏な空気に包まれた。さっきのまでの賑わしさが嘘のようだった。奈帆子の気迫に圧倒されて、誰もが口を利けずにいた。
ウェイトレスだけが困惑しながらも、
「お客様、あとは私がやりますので」
「いいえ、私に任せてください。いや、この男にやらせますから」
奈帆子は市川を睨むと、
「早く手伝いなさい」
と声を張り上げた。
市川も周りの視線に耐えられなくなったのか、傍に寄って腰を落した。
「お前、相棒がどうなってもいいのか?」
耳元で囁いた。
「何を言っているの? 全然聞こえないわ。男ならはっきりと大きな声で言ったらどうなの」
奈帆子は怒りを露わにした。
それからウェイトレスの方を向いて、
「お姉さん、代わりのスープを持ってきてくださらない。その分のお代は支払いますので」
「はい、今すぐにお持ちします」
彼女は駆け足で厨房に消えていった。
床が片付くと、奈帆子はテーブルについた。まだ大勢の目が彼女に向けられている。市川も渋々席についた。
これで多少時間を稼ぐことができた。次にどうすればいいのか、奈帆子は呼吸を整えて考えた。
「仕方ない。少しだけ食べて、それから店を出るぞ。今度小細工したら承知しないぞ」
市川は周りの目を意識してか、普通に食事をしながら言った。
代わりのスープがやって来た。
「ご迷惑をお掛けしました」
奈帆子は丁寧に頭を下げた。
そして自分もランチを口に運んだ。それは何とか心を落ち着かせようとしての行動だった。
しばらくすると、正常な判断ができるようになってきた。そう言えば、最初から少々気になることがあったのだ。それをすっかり忘れていた。本当にこの男は探偵部の追い求めている誘拐犯なのだろうか。年齢も自分とさほど変わらなければ、屈強というほどでもない。あんな大きな事件に関係する人物にはとても見えないのだ。
「あの、一つ訊いてもいいかしら?」
奈帆子は切り出した。
「何だ?」
市川は面倒臭そうに答えた。
「人質はみんな無事なの?」
それには彼の手が止まった。そして奈帆子の顔を下から覗き込むようにした。
「何のことだ?」
「とぼけないで、十七人の安否よ」
市川は持っていた箸を下に置いた。
「お前、何か勘違いしてないか?」
二人は食事の手を止め、見つめ合った。
「お前たちが脅迫状を出すから、こういうことになったんだぞ」
「脅迫状?」
思わずオウム返しになった。
「ああ、そうだ。うちの大学の学園祭実行委員会に宛てた手紙だよ」
まったく訳が分からなかった。
「そんなの、出してないわよ」
その言葉に市川は黙ってしまった。初めて困惑した顔を見せた。
「今、その脅迫状とやらを持ってる?」
奈帆子は畳みかけるように訊いた。
市川はジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「これだよ」
「ちょっと見せて」
奈帆子のただならぬ雰囲気に圧倒されたのか、市川は従順になっていた。
折り畳まれた紙を広げると、そこにはワープロの文字が整然と並んでいた。内容は、大学に恨みがあるらしく、今度の学園祭の中止を要求するものだった。もし強行すれば、学園祭で人が死ぬことになる、という脅し文句が並べられていた。
「何よ、これ?」
「ちょっと待ってくれよ。これは君たちが出したものじゃないのかい?」
「ええ、まったく知らないわ」
「じゃあ訊くが、どうして大学内を調べ廻っていたんだ?」
「それは詳しくは言えないけど、ある事件の調査よ」
「調査?」
「そう」
「さっき言ってた、十七人の人質とやらか?」
「そうね」
市川は腕を組んで天井を仰いだ。
「ねえ、どうやらお互い勘違いしているみたいね。とりあえず、うちの妹を解放してよ」
奈帆子は、これだけは譲れないという調子で言った。
「分かったよ」
市川は携帯電話で仲間に連絡を取った。
「安心してくれ。今、こちらに戻ってくるよ」
しばらくして、玄関から駆けてくる足音が聞こえた。振り返ると妹の無事な姿があった。
「お姉ちゃん!」
多喜子がすがるようにして言った。後ろから二人の男がついてきた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「うん、ワゴン車に押し込まれただけ」
奈帆子は男たちを等分に睨んだ。二人はばつの悪そうな顔して立っている。どちらからともなく、
「すみませんでした」
と頭を下げた。
次に市川に鋭い視線を向けた。
「な、何だよ?」
「謂われの無い罪で、可愛い妹に恐怖を与えたんだから、謝罪しなさいよ」
「乱暴して済まなかった」
「それだけ?」
市川は固まった。
「妹にもランチぐらい奢ったらどうなの? 一番高いやつね」
「お姉ちゃんったら」
多喜子はそう言ったが、奈帆子は毅然とした態度を崩さなかった。
追加注文を済ませてから、
「脅迫状のこと、もう少し詳しく聞かせてほしいわね」
と市川に言った。
「その手紙はどうやって届いたの?」
「茶封筒の中に入れられて、実行委員会の会議室のドアの隙間から差し込んであった」
「その封筒はどうした?」
「捨てちまったよ」
「もう、ちゃんと取っておいてくれればよかったのに」
「どうして?」
市川が訊くと、
多喜子が横から、
「指紋を採取するんです」
と口を挟んだ。
驚いた顔をしている市川に、
「私たちが大学内を調べているって、どうやって知ったの?」
その質問には多喜子を連れ去った男の一人が答える。
「実はどこからともなく噂が流れていたんですよ」
「どんな噂?」
「学園祭を妨害するという目的で、女二人が車でやって来て、委員会のメンバーについて調べてるって」
「それで偽の名簿で私たちを罠に掛けた、って訳?」
「そうなんです」
「でも私たちはその脅迫状を出した覚えはないし、学園祭の中止も望んでなんかいないわ」
「どうやら、そのようですね」
市川も理解してくれたらしい。
「そういう訳で、あなたたちも捜査に協力してもらうわ」
奈帆子はそう言い出した。
「大学に他にも市川って人がいる筈なの。恐らくあなたよりも年上の男性」
市川は少し考えていたが、
「さあ、いるかもしれませんが、ちょっと分かりませんね」
他の二人も首をかしげている。
「それじゃあ、進藤真矢って人はどう?」
「ああ、進藤さんなら知ってますよ。薬学部の先輩ですから」
市川は事も無げに答えた。
「お姉ちゃん!」
その瞬間、多喜子が声を上げた。
「何回生?」
奈帆子は落ち着いて訊いた。
「もう卒業してますが、院生として大学に通ってますよ」
「その人に今すぐ会えるかしら?」
「どうでしょうか。でも、会えるかもしれません」
「じゃ、すぐ行きましょう」
奈帆子が立ち上がると、先程のウェイトレスが多喜子のランチを持って来た。
「お姉ちゃん、これどうしょう?」
「そうね、さっさと食べて頂戴。それから出掛けましょう」
(いよいよ、犯人と顔を合わせることができるわ)
奈帆子は今すぐにでも飛んでいきたい気分だった。
この市川という男は事件とは関係がなかった。しかし佐々峰姉妹は、薬学部を卒業し、今も院生として大学に残っている進藤真矢の存在を突き止めた。市川が彼女に引き合わせてくれるという。
市川を始めとする実行委員たちは、佐々峰姉妹が学園祭を妨害する目的で大学内をうろついていると思い込んでいた。実は大学内の誰かが、姉妹の捜査を妨害するために流した噂だったのである。その人物はさらに脅迫状を送りつけることで、その話に現実味を持たせようとした。これら一連の策略は進藤真矢の手によるものだろうか。
いずれにせよ、これから事件の容疑者と思われる人物に会うことができる。奈帆子は、はやる気持ちを抑えつつ、医大へ車を走らせていた。
市川の案内で薬学部の実習棟へ入ることができた。彼はしばらく進藤真矢の姿を探していたが、見つけることができないと言った。これ以上広い構内を無闇に歩き回っても仕方がない。
そこで三人は薬学部の事務局へ行き、館内放送で呼び出せないかと尋ねた。
事務員は、本来緊急の用件でなければ放送は使えないとの一点張りだった。しかし奈帆子が死人が出る可能性があると食い下がると、渋々応じてくれた。
静かな館内に女性のアナウンスが流れた。
「薬学部の進藤真矢さん、いらっしゃいましたら、至急事務局までお越しください」
放送は二度繰り返された。
果たして彼女は現れるだろうか。
奈帆子は市川にそのまま残ってもらうことにした。そして多喜子には階段の踊り場付近から彼女を隠し撮りするように指示した。
いざ進藤真矢を目の前にしたら、どう攻めるべきだろうか。これまで漠然と考えたことはあったが、実際どうするかを決めてなかった。時間が経つにつれて緊張は高まってきた。
何しろ、彼女が犯人である証拠はどこにもないのである。全ては探偵部の推理に過ぎない。これまでの状況証拠だけでは犯行を立証するのは不可能である。しかしどんな手掛かりも今は大切にしたい。これは探偵部員である自分に課せられた仕事なのだ。何とかしてやる、奈帆子はそう心に誓った。
時間が空しく経過していく。
市川は腕時計に目を落としてから、
「来ないみたいですね。今日は居ないのかもしれませんよ」
「もう少し待ってみましょう」
奈帆子は表情を変えずに言った。
その時である。
少し離れた場所で、女性の言い争う声が聞こえた。階段の方向である。その声の一つは紛れもなく妹のものだった。
反射的に駆け出した。
「多喜子!」
彼女が向き合っているのは、眼鏡を掛けた女性だった。奈帆子よりも年上だが、小柄な体つきであった。もし取っ組み合いの喧嘩となれば互角に戦えるのではないか、とすばやく計算した。
「あなたが、進藤真矢さん?」
本来、隠れて撮影をする筈の多喜子が、先に彼女と出くわしてしまったのだろう。奈帆子はとっさに状況を飲み込んだ。
「一体、あんたたちは何なの?」
神経質そうな目で奈帆子と多喜子を交互に睨んだ。
「初めまして、佐々峰と申します」
奈帆子は努めて冷静に頭を下げた。
「あなたたちね。最近大学内をうろちょろしている輩は。事務局、いや、警察に突き出してやるわ」
静かな館内に彼女の声だけが響いた。
「進藤さん、まあ、落ち着いてください」
「私は医学の研究で忙しいのよ。あなたたちと遊んでいる暇はないの」
「医学は人の命を救うためのものでしょう。私たちがこうして会いに来たのも人を救うため。お互い目指すところは同じじゃないですか?」
真矢は少し落ち着いたようだった。それから階段の下に立っていた市川に気づいて、恨めしそうな視線を投げ掛けた。
「それで用件は?」
「単刀直入にお伺いします。十七人の人質は、今どこにいるのですか?」
真矢は突然の質問に狼狽したようだった。奈帆子はそれを見逃さなかった。
「一体、何の話?」
「あなたは五年前の連続誘拐事件の人質の一人だった。しかし何故かあなただけ無事に解放された」
「その件について、話すことは何もないわ。全ては警察に証言しましたので」
「あなたはそうやって被害者面しているけれど、本当は犯人グループの一人なんでしょ?」
「馬鹿馬鹿しい。いい加減なことを言わないで!」
真矢は感情に任せて声を張り上げた。しかし事務局のドアから職員が窺っているのに気づいて声を落とした。
「証拠はあるの?」
一瞬躊躇した奈帆子を押しのけるようにして、多喜子が前に出た。
「もちろん、ありますよ」
それは堂々たる姿だった。
「あなたたちは気づいてないでしょうけど、実は私たちは人質から連絡をもらっていたのです」
真矢は一笑に付した。
「どうやって外部に連絡できるのよ? 私も一時は監禁されていたから分かるけど、あの密室から連絡を取る方法なんてある訳ないわ」
「その方法については内緒です。これからもまた連絡をもらうために、今は手の内を明かす訳にはいきませんからね」
多喜子が自信を持って言うと、真矢は口元を歪めた。
「まあ、いいわ。でも、その連絡が私とどう関係するのよ?」
真矢は強気な姿勢を崩さなかったが、それでも心に動揺が広がり始めているようだった。
「あなたを名差しで、犯人だと言ってました」
「それは何かの間違いじゃないかしら? 私は誘拐された被害者なのよ」
「いいえ、あなたは事件当夜、車椅子で路線バスに乗り込んでバスを遅らせた。そして十七人の誘拐の手助けをしたんです」
「黙って聞いていれば、全てが憶測ばかりじゃないの。私の名前を指摘したという証拠の品を見せなさい。そんなのある筈ないわ。外部へ連絡するなんて絶対不可能よ。全部あなたたちのでっち上げじゃない!」
多喜子は不敵な笑みを浮かべて、
「いいわ、そう思っていなさい。いつかあなたの前に証拠を突きつけます」
「そう、この子の言う通りよ。私たちはあなたの尻尾を必ず捕まえて見せるわ」
奈帆子も援護した。
「ふん、勝手になさい」
進藤真矢は肩で風を切るようにして、その場を立ち去った。佐々峰姉妹はそんな彼女をずっと目で追った。
立川が心配そうに近づいてきた。
「おいおい、あんなの怒らせて大丈夫かい?」
「いいのよ。これも作戦だから」
夕焼け空の下、姉妹は車に乗り込んだ。
「お姉ちゃん、やっぱりあの進藤真矢って怪しいよね」
多喜子が開口一番、そう言った。
「そうね」
奈帆子は思い出して、
「そうそう、どうしてあなたたち喧嘩してたの?」
「進藤真矢が私の前に現れたから、市川さんに送られてきた脅迫状を手渡したの。『はい、これどうぞ』って」
「受け取った後、文面も禄に読まないうちにいきなり怒り出しのよ」
「どうしてそんなことをしたの?」
多喜子は得意げになって、
「そりゃ、もちろん指紋を取るために決まっているじゃない」
「あんたもなかなかやるわね」
奈帆子は笑った。
確固たる証拠はないものの、多喜子が鎌を掛けた時、進藤には明らかな動揺が見られた。あの女は事件に無関係を装いながら、こちらがどこまで掴んでいるかを気にしていた。
進藤真矢の存在はこれではっきりした。次は彼女を尾行したいと思う。仲間のアジトや人質の監禁場所に出向く可能性があるからだ。それは顔のバレていない男子部員の方が適任かもしれない。
「しっかし、あんたも凄い迫力だったわね」
「私も探偵部の一員として、やる時はやるんだから」
多喜子は胸を張って言った。
「あ、そうだ。今日は親戚のおばさんの家に寄っていくからね」
奈帆子はエンジンを掛けた。
「はーい」
「すっかり遅くなっちゃったわね」
奈帆子はハンドルを握りながら言った。
時刻は十一時半を回っていた。田舎道にはほとんど車は走っていない。すぐ目の前の踏切で赤の点滅が始まった。遮断機が下りてくる。
白い軽自動車は、踏切手前で停車した。
普段通らない道で、こんな時間に踏切に捕まるとは何という偶然なのだろう。家路を急ぐ奈帆子は少々苛立ちを覚えた。
「お姉ちゃん、今日の捜査は手応えがあったよね」
助手席で多喜子が嬉しそうに言った。
「そうね」
姉も頷いた。今日、捜査の駒を一つ前に進めることができたのには大いに意味がある。多喜子もメンバーに自慢できるからか、その余韻に浸っているようだった。
踏切で待つ間、奈帆子は何気なくバックミラーに目を遣った。四角い影がこちらに向かってやって来る。ヘッドライトを点け忘れた車だった。かなりスピードが出ているようだ。見る見るうちに迫ってきた。
どこか変な具合である。奈帆子はバックミラーから目を離せなかった。悪い予感がする。心臓の鼓動が速くなった。
迫ってくる黒い影は普通車ではない。高さと幅からすると、マイクロバスである。
奈帆子は、ようやく全てに思いが至った。
次の瞬間、隣に居る多喜子の手を握った。
「危ない!」
激突音と同時に車体の後方が持ち上がった。この世のものとは思えない衝撃。軽自動車は遮断機をへし折ると踏切の中へ突入した。
「お姉ちゃん!」
奈帆子はありったけの強さでブレーキを踏み込んだ。もう車体の半分ほどはレール内に侵入している。さらに車は意志に反して前へ出ようとする。単調な警告音が、今は甲高い悲鳴に変わっていた。
バスは後ろから全体重をかけて押してくる。間もなく列車が来てしまう。どうすればいい?
奈帆子はパニックに陥った。
一方、多喜子は恐怖の中、ドアミラーに映るバスを見た。黒い影が肩で息をする猛獣のように上下に揺れた。こちらに容赦なく牙を剥いている。
恐らくもの凄いエンジン音を轟かしている筈だった。しかし今の二人には間近に聞こえる警報音がそれをかき消していた。
(そうだ、バックだ)
奈帆子は咄嗟に思いついて、ギアを入れ直すと、ブレーキからアクセルに踏みかえた。一瞬車は大きく前へ出たが、今度はそれ以上に後ずさりを開始した。
ボディの激しくきしむ音。四輪全てが一斉に悲鳴を上げた。
左から列車のヘッドライトが迫っていた。もう間に合わない。多喜子の凍りついた顔が白い光に浮かび上がった。列車の警笛が闇夜を切り裂いた。
「多喜子、逃げて!」
彼女はシートベルトを外すのももどかしく、ドアに取りついた。しかし追突されたボディはどこか歪んでいるのか、ビクともしない。
(もうダメだ)
奈帆子は死を覚悟した。ハンドルを強く握りしめ、次に来る衝撃に備えた。
鼓膜を破るほどの轟音が二人を襲った。目の前が真っ白になった。軽自動車は衝突と同時に宙に浮き上がると、まるで飴のようにねじ曲がった。
列車のブレーキ音だけがいつまでも響き渡った。しかしどこまでも空走し続けた。
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