第38話 雅美と晶也の共同捜査
捜査会議が終わると、沢渕は一人カラオケ店を出た。
時刻はまだ昼二時を回ったばかりである。夏の日は長い。捜査にかける時間はたっぷりとある。
彼の手には一枚の紙切れが握られていた。それは隣町の植野率いる老人仲間が作成した資料である。彼らは町中を練り歩き、敷地内にマイクロバスが置かれている物件を片っ端から捜し出してくれたのだ。
しかし皮肉なことに、彼らの善意は一人の少女を不幸のどん底に陥れてしまった。最も怪しいと睨んだ物件に、単独で潜入した叶美が犯人の襲撃を受けてしまったのである。彼女は心と身体に深い傷を負うことになった。
沢渕は考える。
叶美が犯人と遭遇したあの出来事は一体何を物語っているのだろうか。その答えに辿りつけぬまま、ここまで来てしまった。せっかくリストアップされた他の物件も、調査は手つかずのまま残っている。
そこで今、沢渕は改めて一軒ずつ当たってみようと考えたのである。果たしてそれに意味があるのかないのか、彼自身にも見当はつかなかった。
こうして捜査を再開させた沢渕だったが、他のメンバーはそれぞれ予定があるようだった。
叶美は生徒会活動のため、直貴と一緒に学校へと引き返していった。
何でも、秋の学園祭の話し合いがあるらしい。ほとんどの生徒が知らぬ間に、生徒会は次の行事の準備を着々と進めているのである。沢渕は驚くと同時に、頭が下がる思いだった。自分にはとても務まる仕事ではない。
クマは大会の練習を午前で終えて、今は叶美の護衛にあたっている筈である。今日は直貴も一緒だから特に問題はないだろう。
一方、多喜子は姉のバイトが終わるのを待って、隣町の医大へ出掛けると張り切っていた。犯人と思われる二名が大学に在籍しているかどうかの調査である。これまで苗字だけだった「市川」に、今回、進藤真矢が加わった。こちらはフルネームがはっきりしているだけに、二人とも鼻息が荒かった。
しかし、ひょっとすると相手は凶悪犯人である可能性がある。くれぐれも慎重な行動をとるようにと、部長は何度も念を押した。
そう言えば、橘雅美はどうしたのだろうか。
彼女は特に何も言ってなかった。しかし彼女も生徒会の一員である。きっと叶美らと一緒に学校へ向かったに違いない。
昼間というのに、商店街には驚くほど人影が少なかった。ずらりと並んだ店舗からは絶えず客を呼び込む音楽が流り響いている。しかしそれはアーケードの天井に聞かせているようなものだった。この暑さでは、誰も冷房の効いた部屋から出ようとはしないのだろう。
沢渕の靴音は先ほどからしっかりと耳に届いていた。しかし、いつしかそれが二重になって聞こえ始めた。その訳を考える暇もなく、
「沢渕クン」
甘えた声が彼の背中を捕らえた。
立ち止まって振り返ると、そこにはポニーテールの小さな顔があった。
「橘先輩!」
「ビックリした?」
「どうして僕の後を?」
「これから捜査に行くんでしょ。私も連れていって」
沢渕の腕に両手を絡めると、束ねた髪が左右に揺れた。
「先輩は生徒会の仕事があるんじゃないですか?」
「そんな地味な仕事は嫌よ。もっと派手なのがいいの」
「いや、僕の方こそ、面白味のない調査ですよ」
沢渕はわざと仏頂面で言った。そうでもしないと、彼女が本気でついて来そうだったからである。これから向かうのは犯人グループの潜伏先かもしれない。彼女の危機意識の低さに軽い苛立ちを覚えた。
しかし雅美の方は、実にあっけらかんとした顔をしている。彼女を説得する効果的な言葉はないものかと、沢渕は思いを巡らせた。
「所詮、私って探偵部ではお荷物なんだよね」
雅美は腕をほどくと、ぽつりと言った。
「えっ、何のことですか?」
雅美には珍しく、いつもの元気はどこかへ行ってしまったようだ。彼女のうなだれた様子を見るのは初めてだった。
「だって、そうじゃない? 沢渕くんは叶美さんとだったら一緒に捜査してたんでしょ? それなのに、私とはできないって言うのなら、やはり信頼してないってことになるじゃない」
「いやいや、そういう訳ではありません」
沢渕は慌てて言った。
「橘先輩は、探偵部の大事な戦力です。僕が推薦したのも、先輩の行動力を買ったからです」
「ホントにそう思う?」
蚊の泣くような声だった。彼女は見た目が派手なだけに、他人から微妙な心のひだを理解してもらえないのかもしれない、沢渕はふとそんなことを考えた。
「僕はただ先輩のことが心配なのです。森崎先輩のように、メンバーを危険な目に遭わせることは避けたい、そう思っているのです」
「もちろん、危ないことは分かってるわ。でも、探偵部で肩身が狭い思いをするのは嫌よ。早く実績を作って、みんなから認められたいもの」
それは沢渕にとって意外だった。彼女はこれまで多くを語らなかったが、実は探偵部では居心地が悪かったということだろうか。確かに沢渕も入部したての頃、同じような気持ちだったことを思い出した。
「ね、だからいいでしょ?」
雅美は重ねて訊いた。
「分かりました。では一緒に捜査をお願いします。先輩が居てくれると、正直心強いですから」
沢渕はそう言った。
雅美の表情が途端に明るくなった。その変わり様は、ひょっとして全ては彼女得意の演技だったのではないかと思われた。
「さすが沢渕クン、あなたは話の分かる人だわ」
雅美は沢渕の腕を取ると、さっさと先に歩み始めた。
二人は肩を並べて駅まで歩いた。
その際すれ違う人の視線を意識せずにはいられなかった。これは叶美と一緒に歩いた時にも感じたことである。
沢渕は何の変哲もない、平凡な男子高校生である。一方、雅美の方は実に個性的で、輝く存在と言ってもよかった。
細身で背が高く、手足も長い。やや尖ったあごは精悍な顔立ちを演出し、アスリートであることを主張している。実際遠くから見ると、北欧の体操選手を思わせる。
そんな彼女の風貌は若い男性の目に魅力的に映っている筈である。しかし本人は沢渕との会話に夢中で、まるで気にしていない様子だった。
二人は列車に乗った。
ここへ来るまでに、事件の概要とこれまでの探偵部の捜査を今一度雅美に語った。それは同時に、沢渕にとっても情報の整理という意義があった。
話す内容もなくなってしまったので、話題を変えた。
「先輩、一つ訊きたいことがあるんですが」
揺れる車内で、時に身体が接触する。そんな中、沢渕は切り出した。
「どうぞ、何でも訊いて頂戴」
「クマ先輩のことなんですが」
「ああ、クマちゃんね」
「どうしていつも仲が悪いんですか?」
雅美はきょとんとして、
「えっ、別に悪くはないと思うけど」
「でも、いつも会う度に喧嘩ばかりしているじゃないですか」
「そうかしら?」
「何か恨みでもあるんですか?」
以前聞いた話によれば、クマが体操部のマットでぶつかり稽古をしていたのを雅美に咎められたということだった。
「いいえ、恨みなんて全然ないわよ」
「では、どうして?」
「だってクマちゃんをいじると向こうも乗ってくるでしょ。すると話も盛り上がるじゃない」
「いや、僕には喧嘩しているようにしか見えませんが」
沢渕は正直なところを口にした。
「ううん、全然。でも、ここだけの話なんだけど、クマってさ、実は私のこと好きなんじゃないかしら?」
「えっ、まさか」
そんなことは断じてない。賭けてもいい。地球が真二つに割れても、それはない。
「体育系の人って結構恥ずかしがり屋が多いのよ。運動ばかりやっているから、異性にどう接してよいか分からないのね。相手にしっかり言うべきことを回りくどく言ってしまうの。だから、時々それが真逆に伝わったりするのよ。それでますます相手から避けられてしまう」
「そんなもんですかね?」
「少なくとも、私は彼のこと嫌いじゃないわ。運動選手として一目置いているもの」
それは意外な事実だった。
「真面目な話をするのが照れくさいから、辛く当たってしまうのかもね」
雅美はふんわりと腕を組んで、一人納得するように頷いた。
この事実はクマに伝えるべきか、それとも秘密にしておくべきか。沢渕は激しく迷った。
列車を降りて駅舎を出ると、沢渕は目を細めた。
コンビニの入口に群がる柔道着たちが目に入ったからである。この出で立ちなら駅前のどこからでも大いに目立つだろう。
歩道を行き交う人々はわざと大回りをして彼らを避けていく。それだけ近寄りがたい存在なのであろう。しかし沢渕は珍しい昆虫を見つけた子どものように駆け出した。
「ねえ、ちょっと待って。どうするつもり?」
雅美の声には応えず、沢渕は直ちに彼らの中に飛び込んだ。
「おや、沢渕さんじゃないッスか?」
リーダー格の寺田が言った。
「お久しぶりです」
背の低い梶山が小刻みに頭を下げるような仕草をした。
「今日は森崎さんと一緒じゃないんッスね」
そこまで言ってから、寺田は沢渕の陰で小さくなっている雅美に気づいたようだった。自然と全員の視線が彼女に集まる。
「こちらはお連れの方ですか?」
沢渕は雅美をクマの親友だと紹介した。雅美は何か言いたそうだったが、初めて見る連中に遠慮して黙っていた。
それでも紹介が終わると、
「うちのクマがお世話になってます」
ペコリと頭を下げた。
「沢渕さん、おいしい役ッスよね。いっつも可愛い女の子連れてるじゃないスか?」
梶山が羨ましそうに言う。
「これだけ可愛い子が多いなら、俺も柔道部辞めて探偵部に入りたいッス」
後ろで誰かの声がした。
「アホか。探偵部入る前に、まずは山神高校に入らないとダメだろ」
とリーダーは言ってから、
「今日もまた捜査ですか?」
「はい」
「今、俺たちちょうど部活終わったとこなんッスよ。よかったらお手伝いしますよ」
沢渕と雅美は顔を見合わせた。
「でも、みなさん、お疲れじゃないですか?」
雅美が恐る恐る全員の顔を見回して言った。
「大丈夫ッス」
「橘さんのためなら、何でもやりますよ」
各自が声を上げた。
そんな声が鎮まるのを待って、寺田は、
「久万秋さんに手伝うよう言われてますので」
と言葉を添えた。
沢渕は例のリストを取り出した。
「この廃ボーリング場は、以前みなさんに行ってもらいましたね」
「覚えてますよ、森崎さんが襲われた場所ッスね」
「それ以外の物件もそれとなく見てきてほしいんです」
「お安いご用です」
「くれぐれも気をつけてください。深入りする必要はありません。もし人の気配がしたら、僕に連絡をください」
「了解ッス」
部員以外に危険な調査を任せるのは気が引けるが、この屈強な連中なら安心だろう。
「お二人はどうされるんッスか?」
「僕たちはこれから、ある人に会ってきます」
「分かりました。調査が終わり次第、連絡します」
「では、お願いします。くれぐれも無理はしないでください」
「任せてください」
そこで柔道部の五人とは別れた。彼らは全員、雅美に手を振り続けていた。雅美も何度も振り返ってはそれに応えた。
「人は見かけによらないわね。みんないい人たちみたい」
「クマ先輩を師匠としているそうですよ」
「クマちゃんって、なかなか素敵なところあるじゃない?」
「来週、柔道の大会があるので、僕はクマ先輩の応援に行くつもりです。彼らも出場するようですから、そこでまた会えると思います」
「それじゃ、私も行こうかしら」
雅美は真面目な顔して言った。
その言葉を聞かせたら、クマはどんな風に応えるだろうか、沢渕は一人で想像して可笑しくなった。
「ねえねえ、沢渕クン。聞いてる?」
「はい?」
「だから、これから誰に会うつもりなのって訊いているのよ」
「ああ、それなら、『老人探偵団』です」
沢渕は笑いながら答えた。
沢渕は脇目も振らずに進んでいく。犯行現場となったこの街には何度も足を運んでいる。駅前からの道順は熟知していた。
雅美はそんな彼の後を追う格好になる。
「ねえ、ちょっと待ってよ。『老人探偵団』って何のこと?」
「実は、この街にも探偵団がいましてね」
「ひょっとして、私たちのライバル?」
彼女は勝ち気な性格である。早速、対抗心を燃やし始めた。
しばらく大通りを行くと途中で脇道に入った。繁華街に背を向けた途端、喧騒が遠のく。車や人の往来がぴたりと止んだ。
「あの晩、人質を乗せたマイクロバスがこの辺りを走った筈なんだ」
沢渕は自分に言い聞かせるように言った。
雅美にとっては初めての場所である。左右の建物を確かめるように歩いていった。
「あなたの推理では、人質はこの付近のどこかに監禁されているのよね?」
「はい、今もその考えは変わりません」
「でも、十七人を収容できそうな建物はまるで見当たらないじゃない?」
問題はそこなのだ。
人目につかず大勢が五年間も居住できる場所。もっと言えばマイクロバスを所有している施設。
何度調査を重ねても、そんな都合のよい建物は未だ発見できていない。
本当にこの街にそんな物件が存在するのだろうか。
いつか叶美と来た公園が見えてきた。植野老人らが集う場所である。今日は彼らと会って、調査対象リストを作成した経緯を尋ねるのが第一の目的である。
入口からは公園が一望できた。
砂場で幼稚園児が数人走り回っていた。傍のベンチでは母親らしき女性が二人並んで座っている。
残念ながら、植野らの姿はない。
しかし沢渕はさほど失望しなかった。彼らが普段午前中に集合しているのは承知済みである。今日は他にもするべきことがあった。
沢渕はベンチに向かって歩いていった。
二人の母親は話に夢中で自分たちの世界にいるようだった。二人の高校生が近づいてもまるで気づかない。
「すみません。ちょっとお尋ねします」
沢渕は丁寧に頭を下げた。
彼女らは同時に顔を上げた。
「いつもこちらに来ているお爺さんたちはお見えになりませんね?」
高校生と老人の取り合わせに意表を突かれたのか、二人は黙って顔を見合わせた。
「僕たちは植野さんの知り合いです。以前ご一緒させてもらいましてね。今日も会いに来たのです」
「そう言えば、みなさん最近見掛けないわね」
「どうしたのかしら?」
沢渕は少し離れた病院を指さして、
「みなさん、あの病院に通っているそうですね。今行けば会えるでしょうか?」
と訊いてみた。
「いえ、病院といっても身体が悪いのではなくて、待合室で世間話をしているだけなんですって」
「なるほど」
「病院はそれを黙認しているのですね?」
「そうね。他の患者さんに迷惑を掛けるわけでもないし、その辺はお咎めなしなんでしょう」
すると黙っていたもう一人の母親が、
「みなさん、院長先生のお知り合いですからね」
と付け足した。
「あの病院の名前は何でしたっけ?」
そう訊いてから、愚問だったことに気がついた。住宅地図のコピーを持参していたのだ。それを見れば済むことだ。
「佐伯医院よ」
地図を出すよりも早く、母親の一人が答えた。
確かに地図にもそう出ている。
「佐伯?」
沢渕は思わず口にした。
叶美によれば、植野の仲間に無愛想な老人がいて、確かその名前が佐伯だった気がする。これは偶然だろうか。
「あの病院は昔からやっているのですか?」
「随分古くからあるんじゃない? 建物も結構古いから」
もし佐伯老人の病院だとしたら、今は息子が跡を継いでいるということか。
「病院にマイクロバスは置いてありますか?」
「バス?」
一人が宙に視線を浮かべるようにしてから、
「そう言えば、送迎用のバスがあったわね」
と言った。それから怪訝そうな表情を浮かべた。沢渕の質問の意図が理解できないからであろう。
元院長の佐伯は植野たちの仲間であるとすれば、待合室通いを容認しているのも納得がいく。
問題は植野たちである。
マイクロバス探しの話をした際に、どうして佐伯医院を挙げなかったのだろうか。もちろん仲間の病院が犯罪に関与しているとは口が裂けても言えないだろう。いや、もっと積極的な意味で佐伯をかばったとは考えられないか。
「当然、病院は今もやっていますよね?」
「ええ、もちろん」
母親らは何をいまさら、という顔をした。
沢渕は考える。
現在開業している病院で十七人もの人質を果たして監禁できるだろうか。看護師や患者の目もある。
いや、ここは発想を変える必要があるかもしれない。
これまで監禁場所は人の寄りつかない廃墟のような施設をイメージしていたが、別段人が激しく出入りする場所でも構わないのではないか。
病院は監禁に相応しい施設とは言えないだろうか。人質は病室という空間によって外界から隔離することができる。以前直貴と議論したように、人質は一カ所に集めるのではなく、連帯意識を起こさせないようむしろ一人ひとり個室に閉じ込めておくのが理想的かもしれないのだ。
大病院ならば、当然独自の厨房設備も併設されているだろう。
これは盲点かもしれない。直ちに確かめる必要性が出てきた。
「どうもありがとうございました」
沢渕は雅美を促して、ベンチを離れた。
「これから佐伯医院へ行こうと思います」
「いいわよ」
雅美が力強く答えた。
「あの病院に人質が監禁されているのね?」
「さあ、どうでしょう。だけど、調べる価値は十分ありそうです」
沢渕は力強く地面を蹴った。人質が解放される瞬間が近づいているのかもしれない。彼の心は踊っていた。
佐伯医院には公園から十分の距離だった。
沢渕は五階建てのビルを見上げた。壁のモルタルは最近塗り替えたのか、妙に新しい雰囲気である。しかしずらりと整列したサッシ窓はすっかり光沢を失っていて、築何十年も経過しているように思われた。
それとなく駐車場を覗いてみたが、来訪者用のスペースなのか、マイクロバスらしきものは見当たらなかった。
二人は玄関が見通せる道路の反対側に立った。しばらく観察していると患者が出入りするのが確認できた。確かにこの病院は今も開業中である。
「橘先輩、二手に分かれましょう」
沢渕は患者が視界から消えるのを待って言った。
「えっ、一緒に行くんじゃないの?」
不満そうな彼女の声に、
「学生が二人で病院内を徘徊するのは目立ち過ぎます」
「そうかもしれないわね」
「建物の中と外を交代で調べてみましょう」
雅美は黙って聞いている。試合前の緊張感を楽しむアスリートのようであった。
「長居は無用です。十五分と時間を決めましょう。まず先輩が病院内へ入ってください。僕は外を調べます」
「分かったわ。それで私は何を調べればいいの?」
「まず待合室へ行って、雑誌を調べてほしいのです。女性週刊誌や中古外車の雑誌を探してください。見つかったら書名を控えてください」
「なるほど、監禁場所から見つかった例の雑誌のことね?」
「そうです。まずは待合室で閲覧された後、新しい雑誌と入れ替えに監禁場所へ運ばれた可能性があります」
鍵谷先生の鑑定では、雑誌からは百を超える指紋が検出された。つまり人質の辺倉祥子がメッセージを書き付ける前に不特定多数が触れたと考えられるのだ。病院の待合室はまさにその場所に相応しい。
「それだけでいいの?」
雅美はもっと刺激が欲しいと言わんばかりである。
「時間があれば、下の階から順に病室数を調べてみてください。お見舞いに来た振りをして自然に歩いてください」
「了解」
「それでは十五分後にこの場所で」
時計を確認して二人は別れた。
雅美が病院へ入っていくのを見届けてから、沢渕は駐車場の方へ歩き出した。
来訪者用の駐車場は端から端まで見通しが利く。だが建物はさらに奥へと伸びている。敷地の形からすると、駐車場の先にも何かがあることになる。
沢渕は周りを見て、誰も居ないことを確認すると生け垣を乗り越えた。背を低く保ちながら、芝生の上を進んだ。
こちら側には職員用の駐車場が広がっていた。車でびっしりと埋められている。どうやら職員専用の通用門からしか出入りできないようだ。その門も今はぴたりと閉じられている。
視線を移動していくと、その途中で身体に衝撃が走った。思わず声を上げそうになった。
とうとう発見した。マイクロバスである。
駐車場の隅にひっそりと置かれていた。それは長い旅の末、ようやく辿り着いた最終目的地のように思われた。
この昼の時間、職員の出入りはなく、駐車場はひっそりと静まり返っている。そのおかげで大胆にマイクロバスに近づくことができた。
窓から座席を数えた。十人乗りである。今も患者の送迎に使っているのだろうか。
もちろん運転席には誰もいない。ドアを開けようとしたがビクともしなかった。鍵が掛かっているのだ。
反対側に回ってスライド式の大型ドアにも手を掛けてみた。やはりこちらも動かない。
何としても証拠が欲しかった。
しかしすでに五年の歳月が経っている。それでもこのバスが犯行に使われたことを証明する痕跡はないものだろうか。
突然、建物の一角でスチールのドアがきしみ音を立てた。
誰か人が出てくる気配。慌てて腰を屈め、近くの植木の陰に身を投げた。
この位置からは人物の顔は確認できなかった。車のドアが開閉されてエンジンが掛かった。通用門が自動で開くと、車は排気音を残して立ち去った。しばらくすると、モーターの回転音とともに通用門は閉められた。
この職員用の駐車場は四方をフェンスで覆われているため、外から中を窺い知ることはできない。以前叶美と調査した時、バスに気づかなかったのはそのせいだろう。
沢渕は人の気配が完全に消えてから、身を低くしたままゆっくりと移動し始めた。
さっきから気になるプレハブ小屋があった。
壁には高さを競うように空箱が積み上げられている。表面には「無農薬野菜」などの文字が見える。その脇には空の一升瓶が数本立ててあった。
沢渕の目を引いたのは、そのプレハブからコンクリート舗装された小道がまっすぐ病院の中へと引き込まれていることだった。恐らくこのプレハブ小屋は病院の調理施設だろう。ここで作られた食事がカートに載せられて病室まで運ばれているのだ。
近づくと食器類が激しく重なり合う音、勢いよく流れる水の音が聞こえる。中で仕事をしているようだ。
この病院には調理場が併設されていた。そしてそれは今も稼働している。これでまた、ここに人質が監禁されている可能性が高まった。
こっそり小屋の窓を覗いてみた。
今はとっくに昼を過ぎているが、夕飯の仕込みだろうか、白いエプロンをした数人の男女が無駄のない動きをしている。
その時である。突然手前のドアが開かれた。沢渕は意表を突かれて隠れる暇もなかった。覚悟を決めて瞬時に直立した姿勢をとった。
「おい、お前。ここで何をしている?」
威圧的な声だった。
沢渕は肝を冷やしたが、努めて冷静な態度を保った。
「調理場はこちらですか?」
「ああ、そうだ」
「責任者の方はいらっしゃいますか?」
「私だが、何か用か?」
大柄な男は腕を組んで沢渕の前に立ちはだかった。
「実はアルバイトの件で来ました。看護師さんにこちらの責任者と会うように言われまして」
咄嗟に口から出任せを言った。
「アルバイトだって?」
「はい。こう見えても料理は得意でして」
沢渕は愛想良く言った。
しかし男は警戒心を解こうとはせず、
「誰の紹介で来たんだ?」
「特に紹介はないのですが、夏休みの間アルバイトできないかと思い、受付で訊いたらこちらへと行けと言われたものですから」
「誰に言われたんだ?」
「ええっと、お名前は何でしたかね」
沢渕は空を見上げるようして、
「ほら、眼鏡を掛けている小柄な方ですよ。確か名前は…」
「まあ、誰だってどうでもいい。とにかく今はアルバイトの募集なんてしてないんだ」
男は面倒臭そうに言うと、タバコに火を付けた。
一度大きく煙を吐き出すと、
「さあ、帰ってくれ」
と言った。
「でも、これほどの大病院なら人手不足じゃないのですか?」
大病院という言葉が男の自尊心をくすぐったのか、
「まあ、そりゃいつも忙しいさ」
と満更でもない顔になった。
「一日何人分の食事を作るのですか?」
「朝、昼、晩、それぞれ五十食ほどだな」
「それを何人で?」
「俺を入れて五人だよ」
「食事は入院患者用ですよね? つまり医師や看護師の分は含みませんよね?」
「当たり前だ、病人に合わせたレシピがあるんだ。結構大変な仕事なんだぞ」
「だけど、そのうち半分ぐらいは同じメニューで済みますよね?」
「そりゃ、同じ物も作っているがな」
沢渕は目を光らせた。人質は十七名。彼らは病人ではないので、メニューは全員が同じ筈である。
「食事はどのように病室まで運ぶのですか?」
「どうしてそんな細かいことまで訊くんだ?」
さすがに男は不審に思い始めたようだ。しかし沢渕は食い下がった。
「この仕事にとても興味があるからですよ。患者さんのために食事を作るのは、とても誇りのある仕事だと思います」
「ふん、そんなものかね」
男はまた大きく煙を吐いた。
「教えてくださいよ。調理場の仕事がどのようなものか、とても知りたいんです」
「俺たちは発注された分、食事を作るだけだ。配膳は看護師が行う」
「できれば、発注票を見せて頂けませんか?」
「何でそんなものが見たいんだ?」
男はタバコを捨てて、足でもみ消した。
「どんな行程で仕事が行われるのか、ぜひ知りたいのです」
「ダメだ、もう帰れ」
さすがにこれ以上は無理だろうか、沢渕は考える。
発注票には患者の名前や病室番号が書いてある筈である。暗号で書かれていても構わない。そんなものでも大いにヒントになる。
「どうしてもダメですか?」
「ダメだったらダメだ。こっちは忙しいんだ」
男はそれ以上取り合わず、乱暴にドアを開けると中に消えた。
沢渕は考える。
この病院は監禁場所としての条件を数多く満たしている。
しかしこれ以上深入りするのは危険だった。高校生が調理場に現れたことは、遅かれ早かれ犯人らの耳に入るだろう。そうすれば人質がどこか他の場所へ移されたり、証拠隠滅が図られたりすることは十分に考えられる。
ここから先は探偵部とこの病院とのスピード勝負になることを予感させた。
「沢渕クン、遅いわよ」
雅美はすでに合流地点で待っていた。
「すみません、ちょっと調理係と話していたので」
「へえ、あなたもなかなかやるわね」
そう言いつつ、彼女の表情からは何かを掴んだことが明らかだった。
「こっちも成果ありよ」
雅美はやや興奮気味なのか早口だった。
「沢渕クンが言った雑誌はどちらも待合室に置いてあったわ」
「それは大収穫です。病室の数は分かりましたか?」
「それなんだけど、この病院、増築してあるのよ。途中壁の色が変わっているから分かるんだけど」
彼女はいつになく真面目な顔で言った。
「一階は診察だけに使っていて、二階以上は全て病室になってるわ」
「忘れないうちに簡単な見取り図を描いてください」
「いいわよ」
雅美はペンを取り出すと生徒手帳を一枚破いた。
「このように左右に病室が並んでいて、各階に六部屋ずつあるわ」
「五階建てで一階部分を除くと、病室は全部で二十四室ですね」
沢渕は裏庭からの外観を思い浮かべ、内部構造を把握しようとした。
「一部屋は何人用ですか?」
「廊下の左側が個室、右側が三人部屋みたい」
「病室の使用率はどんな具合でしたか?」
「そこまでは分からないわよ」
雅美は不満げに言い返した。
「それは僕が確かめましょう。病室のドアの所に貼ってある名札を数えてみます」
「なるほど、その手があったわね」
「あと、立ち入り禁止区域はなかったですか?」
「いいえ、階段を使ってどの階も普通に行けたわよ」
「分かりました。では交代しましょう」
「いいわよ。今度私は何をすればいいの?」
「建物を外から観察してください。内部の造りと照らし合わせて、隠し部屋がないかどうかを検証してほしいのです」
「分かったわ。でも、どうやってやればいいの?」
「まずは窓の数に注意してみてください。内と外とで数が一致するかどうか。さらに建物に妙な出っ張りや引っ込みがないかを見てください」
「それだけ?」
「あと、先輩は背が高いから一階の窓をこっそり覗いて、病室がないかどうかを調べてもらえれば結構です」
「オッケー」
「くれぐれも無茶はしないでください。もし誰かに見つかったら、遊んでいてボールが敷地に入ったので探していると言ってください」
不思議な顔をしている雅美の手に、赤いスポンジを握らせた。
叶美から貰った小道具である。切り込みに手を入れて引き出すとテニスボールほどの大きさに膨らんだ。
「予めこれをどこか草陰に転がしておいてください」
「へえー、さすがは探偵部。便利な物を持ってるじゃない」
雅美は感心した様子である。
「怪しまれたらこのボールのところへ行って、『あ、ここにありました』と、直ちにその場から逃げてください」
「了解」
「先輩、決して危険な真似はしないでくださいよ」
「あなたも心配性ね。大丈夫、ヘマはしないから」
雅美は軽くウィンクをして駆け出した。沢渕は彼女の左右に揺れるポニーテールを見守っていた。
沢渕は重いガラスの扉を押して病院の中へ入った。
確かに外観はモルタル仕上げで近代的に見えるのだが、中へ入ると印象ががらりと変わった。
玄関周りは設計も古く、ドアも自動ではない。さらに天井は現代の常識からすれば低く、真正面に構える受付にはスライド式の小窓がついていた。内装は茶色を基調としていて、今の病院には珍しく暗いトーンである。昔の基準で言えば、これは重厚で威厳を感じさせるものだったのだろう。
待合室は人もまばらで、ベンチシートに腰掛ける患者は数えるほどしかいなかった。午前中に来ているという、植野老人たちの姿もこの時間には見当たらない。
待合室の片隅に車椅子がひっそりと置かれていた。事件当夜に現れた女のことを思い出した。
受付の中には数人の看護師が詰めていた。その一人が沢渕に強い視線を投げかけていた。やはり若い高校生が入れ替わり立ち替わり出入りするのは違和感があるようだ。
それでも沢渕は真っ直ぐに受付を目指した。こんな場合、こそこそするのが一番よくない。堂々と胸を張っている方がむしろ怪しまれずに済むものだ。
「すみません」
沢渕は小窓から声を掛けた。
中年のやや太り気味のナースが応対してくれた。
「市川先生にお会いしたいのですが」
市川とは雑誌のはがきに名前の一部を残した人物である。事件に関係があるかどうかは不明だが、佐々峰姉妹の調査では医大生である可能性が出てきた。医療つながりでこの病院に出入りしているとも考えられる。
「市川先生、ですか?」
恰幅のよいその女性は怪訝そうな声を上げた。
そして仲間の方を振り返り、
「ねえ、うちに市川先生なんていたかしら?」
と訊いた。
受付の中では誰もが首をかしげているようだった。
沢渕はその自然な様子から、市川という人物はこの病院に無関係であることを悟った。ただしそれはあくまで表向きには、という意味である。現場に出ている看護師らに面識がないだけのことかもしれない。
「いえ、居なければ結構です。以前祖父がお世話になったと聞いておりましたので、ちょっとお礼が言いたかったのです。どうやら僕が名前を聞き違えたみたいですね」
「それでは、進藤真矢先生はいらっしゃいますか?」
続けて沢渕は切り出した。
進藤真矢というのは、犯人が二度目の取引の際、新野社長の娘と取り違えて返してきた人質の一人である。警察は訳あってこの件を発表していないが、沢渕はこの女性は実は犯人グループの一味だと考えている。事件当夜、車椅子に乗ってバスを遅延させた実行犯の一人である。
「そういった方もいませんが」
応対した看護師は少々怒ったように言った。
「ありがとうございました」
一礼すると、さりげなく受付を離れた。
受付の先は診察室になっているようだが、今は看護師の目もあり、入っていくことはできなかった。
沢渕は受付の視線を背中に感じながら、二階へと向かった。
この病院にはエレベーターは設置されていない。そのため階段を使うことになる。
もし誰かに咎められたら、親族の見舞いに来たことにするつもりだった。その時の台詞は何度か心の中で反復してある。
階段を上がると、二階は静まりかえっていた。廊下には誰の姿もなく、病室のドアだけが奥へと並んでいた。
窓からの強い日差しのせいで、廊下は暑かった。病室の前で立ち止まっては患者の名札を確認し、その人数をメモしていった。
名札がない部屋があったので、辺りを見回してから静かにノブを回した。ドアが開くと、雅美の言った通り、空のベッドが六台並んでいた。
この大部屋を使えば、人質十七名は三部屋に分けて収容することになる。外には少なくとも見張りを一人配置せねばならないだろう。
本当にこの病院内に人質が監禁されているのだろうか。
沢渕は、次こそは次こそはと階段を上がっていった。しかしどの階の廊下にも人影はなく、怪しい部屋は一つもなかった。
ひょっとすると、見込み違いではなかったか、嫌な予感が走る。
しかしこの病院をシロと断定するのはまだ早い。なぜなら表向きの病室とは別に、隠し部屋があるかもしれないからである。
すなわち一般患者が立ち入ることのできない領域が存在するのではないか。もしそこに人質が監禁されているなら、問題は病院の職員のうちどれほどが犯罪に関わっているかである。
調べたところ、部屋の使用率は三割程度である。病室の名札を信用するなら、入院患者の数は三十ほどだった。先の調理師が用意している食事の数が五十。やはりそこには二十のずれがある。
やはりこの病院は怪しいと思う。
雅美が言っていたように、廊下の途中に増築の跡が見られた。その辺りを念入りに調べてみたが、特に隠し部屋がある様子もなかった。
五階の窓から庭が見下ろせた。職員の車の屋根がきちんと並んでいた。問題のマイクロバスも見える。しかし雅美の姿は確認できなかった。果たして彼女はうまくやっているだろうか、沢渕は少々心配になった。
突如、館内のスピーカーが鳴り響いた。
「山神高校の沢渕様、至急受付までお越し下さい」
それは女性の声で二度繰り返された。
自分の名前が呼ばれたことに、沢渕はさほど驚かなかった。このような事態が起こることは、ある程度予測していたからである。雅美が職員に見つかって拘束されたのだろう。
ここは病院である。それに今のところ佐伯が窮地に追い込まれている訳でもない。よって直ぐさま雅美に危害が及ぶとは思えなかった。病院側はあくまで紳士的な対応をするであろう。そう考えると、佐伯と面会できることはむしろ意義のあることと言ってもよかった。
沢渕は階段を駆け足で降りると、受付に舞い戻った。
そこには白衣を身にまとった男が立っていた。背は小柄だが眼光は鋭い。野心家のような印象だった。
「君が沢渕君かね? 私はこの病院の院長、佐伯佳克だ」
その声は思いの外、明るかった。
「初めまして、沢渕晶也と申します」
沢渕は丁寧に頭を下げた。
「どうぞこちらに来てくれたまえ」
沢渕は受付奥の院長室へと案内された。看護師らは仕事の手を止めて、二人の行方を目で追った。
ドアが開かれると、橘雅美の姿が飛び込んできた。
二人の白衣に挟まれて、行き場のない様子だった。いつもの元気はどこかに消えてしまっていた。
それでも沢渕の姿を認めると、一瞬顔が明るくなった。そして声には出さず、口びるを「ゴメンナサイ」と動かした。
佐伯はドアを開けたまま、
「ここはもういいから、君たちは持ち場に戻ってくれ」
と職員に声を掛けた。
雅美は解放されると、すかさず沢渕の元へと駆け寄った。勢い余って制服がぶつかった。
「君たちは山神高校の生徒さんだってね?」
佐伯が二人の方を向いて言った。
「はい」
「どうしてこの病院を調べ廻っているのかね?」
果たして雅美はどこまで喋ったのだろうか、沢渕は瞬時に思いを巡らせた。まだシラを切ることはできるだろうか。
「実は僕の父親が心臓を患っておりまして、今通っている病院は面倒見が悪いものですから、こちらの病院にお世話になろうと思っていたのです。それでお任せできる病院かどうか確かめたかったのです」
佐伯は不敵に笑い出した。
「なるほど。しかしその割りには、こそこそと泥棒のようなことをしていたようだね」
それには答えなかった。雅美は怖くなったのか、横から沢渕の腕をギュッと抱きしめた。
「それで、何かお宝は見つかったかね?」
「いえ、残念ながら何もありませんでした。しかしこの病院にきっと秘密が隠されていると思います」
「その根拠は?」
「それはまだ言えませんね」
佐伯は笑みを浮かべた。
「沢渕君、実のところ根拠なんて何もないんだろう? 君たちが何を調べているかは知らんが、憶測で物を言うのは止めたまえ。仮にもここは人の命を預かる病院だ。場合によっては業務妨害として君たちを訴えることだってできるんだぞ」
「そうですね。申し訳ございませんでした」
素直に頭を下げると、隣の雅美もつられて頭を下げた。
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