第37話 突破口

 早いもので、夏休みもすでに一週間が経過していた。果たしてこの夏に事件は解決できるのだろうか。沢渕晶也は少々焦りを感じずにはいられなかった。

 今日は制服を捨てて、Tシャツ一枚という軽装であったが、夏の日差しは容赦してくれない。常に熱気が肌にまとわりついている。午前中からこの調子では、午後からの捜査は困難を極めそうである。

 そんな暑さの中、商店街は人の姿もまばらだった。おかげで遙か遠くのカラオケ店の電飾看板がすんなり目にできた。沢渕の歩幅も自然と広くなる。

 派手な入口をくぐり抜けると、冷気が彼を迎えた。朦朧としていた頭脳が活性化する瞬間である。捜査会議に前にコンディションは上々である。

 カウンターの奥で目まぐるしく動く女性の姿があった。佐々峰奈帆子である。チャイムの音に反応して、小走りで近づいた。

「いらっしゃいませ。暑かったでしょ」

 笑顔とは裏腹に、額に汗が滲んでいた。どうやら店は忙しいようだ。

「今日はいつもの部屋が塞がっているから、七番ね。廊下の右側よ」

 奈帆子はそれだけ言うと、さっさと引き返していった。

 指示された部屋の扉を開くと、奥に向かって細長い空間が待ち構えていた。堀元直貴、佐々峰多喜子、橘雅美がすでに座っていた。たったこれだけの人数でも、かなり窮屈な印象を受ける。

「あら、遅かったじゃない?」

 雅美が甘ったれた声を出した。

 沢渕は確認のため腕時計に目を落としたが、集合時間にはまだ少し余裕があった。憮然とした態度でソファーに掛けると、彼女はすかさず身体を擦り寄せてきた。黄色いおしぼりを広げて差し出す。その動きはまるでクラブのホステスを思わせた。

「今日はビールにする? それとも水割り?」

 反対側の直貴と多喜子が吹き出した。

 沢渕もその趣向に苦笑しながら、

「今日はバスで来たので、ノンアルコールで」

「え? 別にあなたがバスを運転する訳じゃないでしょ?」

 雅美はどこまでも絡んでくる。

「飲んだら乗るな、って言いますから」

「それ、意味違うし」

 雅美は一度腰を浮かせて、ソファーに掛け直した。ようやく沢渕を解放してくれた。

 テーブルの向こうに目を遣ると、多喜子の丸い両膝が並んでいた。どうやらギプスは外れたようだ。

「足はもう大丈夫?」

 沢渕が訊くと、多喜子は嬉しそうに、

「うん、いろいろとありがとう」

と言った。

「それじゃあ、佐々峰さんの全快を祝って乾杯しましょ」

 雅美の提案に従って、四人はグラスを持ち上げた。と同時に、無遠慮なやり方で扉が開いた。

 久万秋進士である。驚いたことに彼は柔道着姿だった。その影に隠れるように森崎叶美が小さく立っていた。

「ちょっと、クマゴロウ。あんた、まさかその格好でここまで来たの?」

 雅美が呆れた調子で言った。

「ああ、そうだ。今日は柔道部の練習があってな。直接学校から来たんだ。それがどうかしたか?」

「そんな薄汚い物を着て、よく街が歩けるわね。信じられない」

「何だと!」

 狭い部屋に不穏な空気が漂った。慌てて叶美が前に出て、二人を制する。

「まあまあ、クマちゃん。立ち話もなんだから、とにかく座りましょ」

 クマの怒りは収まる様子がない。

「おい、もっと奥に詰めろよ」

 メンバー六人がテーブルに向かい合って着席した。ソファーの長さは限られているので、互いの身体が密着する。

「この部屋、二酸化炭素が充満してねぇか?」

 クマの言葉に全員が顔を見合わせた。

「そうか忘れてたぜ。余計なのが一人増えてたんだっけ」

 野太い声が部屋を揺さぶった。

 すかさず雅美も応戦する。突然マイクを掴んだと思うと、すっくと立ち上がった。

 クマを指さしながら、

「無駄に幅を取っているのは、あんたじゃない。沢渕くんがソファーから落ちそうよ」

 途中からリズムが付いて歌へと変化した。

 クマも負けじともう一本のマイクを手に取った。かくして二人のデュエットが幕を開けた。

「二人とも、いい加減にしなさい!」

 部長は二人からマイクを奪った。


「沢渕くんは新野社長と面会できたそうだね」

 静まりかえった部屋の中で、直貴がそう切り出した。

「はい」

「それで、新たな発見はあったかい?」

「睨んだ通り、新野氏は警察抜きで犯人と取引をしていました」

「つまり、裏取引だね?」

「そうです。今度は犯人グループは一億円を手にしました。しかし今のところ、娘の悠季子さんは解放されていません」

「そりゃどういうことだ? 社長はまんまと金だけ奪われたってことか?」

 クマが口を尖らせた。

「いえ、正確に言うと、別の人質が一人返されました」

「何だって?」

「誰なんですか?」

 クマと多喜子の声が重なった。雅美は聞き役に徹している。

「進藤真矢という若い女性です」

「そんな名前、被害者リストにあったかしら?」

 多喜子は慌てて手帳をめくった。

 叶美が後を継ぐ形で、

「どうやら人質リストから一人漏れていたの。誘拐されたのは、十七人ではなく、実際は十八人だった。身代金を受け取った犯人は、新野悠季子さんを進藤真矢さんと取り違えたみたいなの」

「取り違えた?」

 直貴の怪訝そうな声。

「悠季子さんが自分のジャケットを進藤さんに着せていたことが原因で、犯人はてっきり勘違いしたらしいのね」

「でも、そんなことってあり得るのかしら?」

 ここで雅美が口を開いた。

「服装の違いで返すべき人質を間違えるなんて、何か変じゃない?」

 沢渕が続ける。

「僕も橘先輩と同じ意見です。犯人は最初の取引では、人質の家族から身代金を奪う気などなかったように思います。その理由は、取引に失敗したように見せることで、被害者家族に警察への不信感を持たせるためです。そうしておいて、二度目の取引を警察抜きで持ち掛けて、より確実なものとした。もちろん全員の身代金を要求する必要はない。人質の中でも最も金持ちの家族だけにコンタクトを取ればよい。新野工業の一人娘の誘拐は意図的なものか、偶然なのかは不明ですが、いずれにせよ、犯人たちは彼女のことを調べ上げた筈です。それなのに他の人質とあっさり間違えている。僕にはこの点がどうも腑に落ちないのです」

「なるほど。確かにそうだね」

 直貴は眼鏡の奥の目を光らせて、

「その進藤真矢のことを詳しく知りたいね」

「はい、念のため、鍵谷先生に連絡を取ってみましたが、先生は警察からその名前は聞かされていないということでした」

「しっかし、どうして警察は被害者の数を訂正して、人質の一人が無事保護されたことを発表しなかったんだろう?」

 柔道着が言った。

 それには叶美が答える。

「新野工業社長が警察に裏取引のことを公表しないでほしいと頼んだのよ。それに下手にマスコミに騒がれると、犯人を刺激することになる。その結果、人質が危険に晒されては警察の失態になりかねない。だから新たな発表をしなかったのだと思うわ」

「でも、警察は進藤さんから犯人に関する情報を聞き出している筈ですよね?」

 多喜子が言う。

「その通り。社長によると、彼女の証言では、夜道を歩いていたところ、突然後ろから羽交い締めにされて、車で山奥の別荘に連れて行かれたらしい。そこで犯人は若い娘は人身売買されるという話をしていたんだって」

 叶美が言うと、クマが覆い被せるように、

「その証言が正しいとすると、これまで俺たちが推理してきたことが三百六十度違ってくるじゃねえか」

 全員が一瞬固まった。

「いや、クマ。三百六十度は一周して、ぴったり同じことになってしまうよ」

 直貴が落ち着いて説明した。

「あっ、本当だ。私、まったく気づかなかった」

と多喜子。

「でも、沢渕くんはその進藤さんの証言に懐疑的なのよね?」

 叶美が確認した。

「はい、そうなんです。どうも彼女の証言は、この事件が常識的でありふれた誘拐事件であることを強調している気がするのです」

「それ、どういう意味?」

 雅美が肩をすくめた。

「車で別荘に連れて行かれたとか、娘を海外に売り飛ばすという話は、これまで僕らが組み立ててきた推理からは大きく外れています。つまり警察をミスリードするためにそういった証言をしていると考えられる訳です」

「同感ね。私は犯人グループと出くわしたけれど、相手は若くて、とても犯罪に手慣れている風じゃない。つまり海外で人身売買をするようなルートを持っているとはとても思えないのよ」

「じゃあ、進藤真矢っていうのは一体何なんだ?」

 クマの疑問に沢渕は、

「ずばり、僕は犯人グループの一味ではないか、そう考えています」

 それには誰も二の句が継げなかった。

「さらに言えば、事件当夜、車椅子に乗って路線バスを遅らせた女でもあります」

「ま、マジかよ」

 クマがようやくそんな声を出した。

「でも、どうして犯人の一人がノコノコと表に出てきたのかしら?」

 多喜子は顎に手を当てて考えている。

「おそらくスパイのような役割じゃないかな。警察に接触して、どこまで掴んでいるかを探ろうとした。そして捜査を攪乱するような証言をしたのさ」

 沢渕は断言した。

「その推理が正しければ、進藤真矢って女は重要参考人だね」

 直貴が眼鏡を持ち上げて言った。

「でも、どうやってその女を捜し当てるのよ?」

 雅美が疑問を投げ掛けた。

「そうよね、警察は教えてはくれないだろうし」

 叶美もため息をついた。

「そこでヤマを張りたいと思うんですよ」

 沢渕はそう言うと、

「佐々峰さん」

と呼び掛けた。

「はい」

 二人の返事が重なった。一つは目の前の多喜子、そしてもう一つは天井のスピーカーを通して姉の奈帆子だった。忙しい中でも、彼女はモニターすることは忘れてなかったようだ。

「それじゃ、お姉さん」

 沢渕はカメラを見上げた。

「外車情報誌のはがきに名前を残した、例の市川っていう人物。お二人の調査によれば、どうやら隣町の医大に在籍しているのではないかということでしたよね?」

「ええ、たぶん間違いないわ」

 奈帆子の声が弾む。

「では、この進藤真矢も追加して調べてみてください。僕の勘が正しければ、二人ともきっと見つかります」

「分かったわ」

「私も頑張る」

 姉と妹が同時に声を上げた。

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