第35話 探偵部、海へ。

 七月下旬。今年も熱波が日本列島に押し寄せていた。もちろん沢渕晶也の暮らす町も例外ではない。

 そんな中、山神高校は夏休みを迎えていた。今日はその記念すべき初日である。

「俺はタキネエの運転だけが心配なんだよ」

 沢渕の隣で久万秋進士が溜息を漏らした。

 今、二人は駅前のロータリーに並んで立っていた。お互い肩には水着の入ったナップサックがぶら下がっている。

 沢渕の少し横では、堀元直貴と森崎叶美が地図を片手に今日の段取りに余念がない。

 その四人の目の前を一台の白いミニバンが通り過ぎていった。その車は突然何かを思い出してブレーキを掛けると、じわじわと後退し始めた。その速度たるや、まるでカタツムリが這っているかのようである。

 それでもようやく沢渕の正面まで来ると動きを止めた。助手席の窓がスルスルと降りて、そこにはハンドルを握り締めた佐々峰奈帆子の緊張した面持ちがあった。

「何してるのよ? 早く乗って」

 その言葉に背中を押されて、クマがスライドドアに手を掛けた。

「随分と大きな車を借りてきたもんだな」

 三列ある中央の座席の一角を佐々峰多喜子が陣取っていた。骨折した足も順調に回復し、今はギプスも外れてリハビリ中である。

 多喜子は叶美の姿を見とめると両手を振った。

「先輩、おはようございます」

 叶美も笑顔で応える。

 男三人は後部座席に行儀よく並んで座った。叶美は多喜子の横に腰を下ろした。

「こりゃ、八人乗りか」

 あとは叶美の横と助手席が空いている。

「先輩、運転の方は大丈夫ですか?」

 叶美が座席の間から身を乗り出して訊いた。

「うん、まっすぐ走る分には問題ないわ。何だか船を操縦しているような感覚で楽しいのよ、これ」

「いつまでもまっすぐ走っている訳にはいかねえだろ。いつかは曲がるんだから、そこが生死の分かれ目だな」

「クマ、縁起でもないこと言わないで頂戴」

 奈帆子はハンドルを固く握ったまま応戦する。

「それにしても、橘のやつ、遅えなあ」

 クマが不満を漏らした。

「待ち合わせは確か八時でしたね」

 直貴はそう言って腕時計に目を落とした。

「あっ、雅美みやびちゃん、来たわよ」

 突然の奈帆子の声に、全員の視線がフロントガラスに集中する。

「あれ、隣にいるのは誰だ?」

 すぐにクマが異変に気づいた。

「連れがいますね」

 直貴も続けざまに言った。

「あれって、橘雅希先輩ですよね?」

 多喜子が弾んだ声で言った。

「何っ!」

 クマの叫び声。と同時に車は小舟のように大きく揺れた。

 沢渕もその顔には見覚えがあった。確か橘雅美の選挙演説に登場した兄である。サッカー部の主将を務める三年生で、全校女子の人気の的である。

 実は沢渕の知識はそれだけではない。

 どうやら彼は叶美に告白したらしいのだ。しかし叶美にはその気がなかった。探偵部の部長として捜査に専念したいという理由は伏せて、丁寧に断ったという話を聞いている。

 二人はまっすぐこちらに向かって歩いてくる。

「おい、まさか兄貴もついてくるんじゃないだろうな?」

 クマが叶美の肩を小突いた。

「まあ、兄妹だからいいじゃないの」

 視線を前に向けたまま、とぼけた調子で答える。

「そうですよ、旅行は人数が多い方が楽しいですし」

 多喜子も加勢する。

「あのなあ、あいつは部外者だろ? こりゃ探偵部の慰安旅行なんだぞ。あいつは関係ないだろうが」

 クマは怒りをぶちまけた。

「おい、晶也。お前も何か言えよ」

 クマの鼻息は荒い。

「連れていっちゃ、いあん、という訳ですか?」

 一瞬で車内の空気が凍り付いた。誰もが言葉を失っている。

「お前ね、さすがの俺でもフォローしきれんぞ。いつからそういうキャラになったんだ?」

 沢渕は一人激しく後悔した。

「あっ、座席が二つ空いているのはそういう訳か。もしや女ども、最初から橘が兄貴を連れてくることを知ってやがったな?」

「昨日、橘さんから連絡があったのよ。お兄さんも一緒に行ってもいいか、って」

「で、森崎はどう答えたんだよ?」

「別に構いませんよ、って」

「何でそういう答えになるんだ? お前は俺たち部員には厳しいくせに、他人には甘過ぎるんだよ。その優しさの一欠片でも俺に寄越したらどうなんだ」

「クマも往生際が悪いわよ。仕方がないでしょ、来ちゃったんだから」

 橘兄妹はこのレンタカーに気づいたようだ。小走りで近寄ってくる。

「探偵部のこと、あいつにバレてもいいのか?」

「そりゃ、ダメよ。絶対内緒」

「ふん、都合のいい話だよ、まったく」

 大きなドアが自動でスライドして、車内と外界とがつながった。内輪話もピタリと止む。

「お待たせしましたぁ」

 雅美が両手を広げて大袈裟に乗り込んできた。

「今日はどうぞよろしく」

 後ろから雅希が頭を下げた。無駄のない俊敏な動きで助手席に収まった。足下にはサッカーボールの入った袋を置いた。

「それじゃあ出発しましょう」

 奈帆子の声が響く。彼女の両肩はすっかり尖って、それは並々ならぬ緊張を物語っていた。しかしそれ以上に気分が高揚しているようでもあった。


 白いミニバンはロータリーを何故か二周した後、駅から伸びる大通りに出た。ここからはしばらく直線が続く。奈帆子の運転には多少ぎこちなさが感じられたが、何度か信号停止、発進を繰り返すうちに、次第に滑らかになってきた。そのうち誰の頭からも不安という二文字は消え去っていた。

 助手席の橘雅希は後席を振り返ると、

「ところで、みなさんはどんな集まりなのですか?」

と訊いた。

 メンバー全員に緊張が走る。

 時が止まってしまったかのような車内の空気に、当の雅希は困惑した顔になった。

「みなさん、どうかしましたか?」

 雅希が重ねて訊くと、

 沈黙を破ったのは、妹である雅美だった。

「みんな、探偵なのよ、ね?」

 彼女は嘘をつくのが余程下手なのか、これではまるで秘匿になっていない。むしろ積極的に事実を暴露していた。

 思わず叶美が隣で雅美の尻をつねった。

「タンテイ?」

「いや、タ、ダンデイ、って言ったんだよ。ほら、俺たちってみんなダンディだろ?」

 クマが一番後ろから慌てて言った。

「確かに女性陣はみんな魅力的だけれど、男性陣はパッとしない感じだけどな」

 雅希は思ったことをそのまま表現するタイプらしい。

「何だって? もう一遍言ってみろ」

 クマは一番後ろの席から一番前まですっ飛んでいきそうだった。沢渕はシートベルトの金具の強度を思わず確認した。

 それからクマの言葉に被せるように、

「僕たち、実は昔からの知り合いなんです」

と説明役を買って出た。

「へえー、そうなの?」

 雅希はあっさりと納得したようである。意外と単純な性格で助かった。

「じゃあ、みんな森崎さんの友達なんですか?」

 これは叶美への質問だった。

「そう、みんな大切なお友達なの」

 叶美は満面の笑みを浮かべてそう言った。


 高速道路を走ること一時間、満員乗車のミニバンは休息場所を探していた。そこへサービスエリアの標識が飛び込んできた。先を行く車が次々に支線へ吸い込まれていく。奈帆子も速度を緩めた。

 大きな駐車場の先には売店などの商業施設、その奥には何と観覧車が大空に突き出していた。

「わあ、あれ見て。凄いわよ」

 多喜子が第一声を上げた。

「ねえねえ、みんなで乗りましょうよ」

 彼女のはしゃいだ声が車内に響く。

「でもね、タキちゃん。今日は海水浴に来たのだから、また今度にしましょ」

 叶美が優しく声を掛けた。

「はーい」

 多喜子はまるで従順な子どものようである。

 雅希はそんなやり取りをじっと見ていたが、

「森崎さんは多喜子さんと仲がいいんですね」

と言った。

 それを聞いて、二人は見つめ合って笑った。

「邪魔者一人だけ観覧車に乗せて、俺たちはズラかるという手もありだな」

 クマが後席で独り言を言った。


 混雑した駐車場で奈帆子は悪戦苦闘の末、ようやく線内に車を停めることができた。ドアが開いて、八名の若者が降り立った。

「僕を誘ってくれたお礼に、女性陣にアイスクリームを奢りますよ」

 雅希の提案に女子から歓声が湧いた。

 クマはそんなやり取りを横目に、

「何がアイスだよ。そもそもお前なんか誘ってないっての」

「それじゃあ、十五分後に出発ね」

 奈帆子の声を合図に、女子連中は売店の方へと歩き出した。もちろんその中心に雅希の姿があった。叶美だけが二度、三度心配そうにこちらを振り返った。

「ふん、そっちがアイスなら、こっちは大盛りカツカレーを二杯食ってやる」

 クマは鼻息を荒くして言った。

「おい、二人とも何ぼさっとしてるんだ。食堂へ行くぞ」

「本当に食べるのかい?」

「十五分しかないんですよ」

 直貴と沢渕の声が重なる。

「じゃあ、お前たちはそこに居ろ。俺だけ食ってくる」

 そう言い残して、クマは姿を消した。

 男二人は売店前のベンチに腰を下ろした。どこまでも並んだ自販機が彼らの背中を見守っている。

 緑の山々が間近に迫っていた。二人はコーヒーを片手に、肩を並べての会話となった。

「君は今、こんな旅行よりも捜査をしたい気分じゃないのかい?」

 直貴が訊いた。

「そうかもしれません」

 沢渕は正直に答えた。

「実は僕も同じ気持ちさ」

 頭上に設置されたスピーカーから流行歌が次々と流れていた。それは自然に囲まれた場所ではどこか場違いな演出のように思われた。

「でも、たまにはこういう息抜きが必要ですね」

 沢渕は言った。

 叶美が犯人と出くわして危険な目に遭ったり、多喜子が足を骨折したりするなど、最近探偵部は災難続きだった。そんな重苦しい雰囲気を一掃できるなら、この旅行には大いに意味がある。

「この事件はもう五年近くこう着状態が続いているだろ。だから一日ぐらい捜査を中断しても、事態が悪化するとは思えないよ」

「同感です。それに監禁されている人々の生命は、差し当たって危険がないような気がするのです」

「その根拠は?」

 二人の話題はやはり事件の考察になる。

「この誘拐事件はそもそも身代金が目的ではなかったからです」

「つまり金目当てではなく、十七人の人間の調達が目的だったと」

「そうです。人質を生かし続けることが目的ならば、そんな簡単に命を奪ったりはしないだろうという考えです」

「確かに君の言う通りだ」

 直貴はコーヒーに口をつけた。

「ただ、気になるのは監禁されている人々の健康状態です。今彼らがどんな状況に置かれているのかは不明ですが、過度のストレスによって精神の異常をきたしてないことを祈るばかりです」

「誘拐された人は幸いにも若者が多い。だからそこは何とか踏ん張ってもらいたいところだね」

「当時高校生だった辺倉祥子は、恐らく今も普通に暮らしているような気がしてなりません。もちろん普通と言っても、自由を奪われた生活には違いないのですが、犯人らと共に、ある意味安全に暮らしていると思うのです」

「犯人が読み捨てた雑誌に、何回もメッセージを書き残しているからだね?」

「はい。犯人にバレることなく大胆な行動をとっていることから、彼女は犯人の行動パターンを熟知しているのだと思います。裏を返せば、それだけ犯人に近い場所で生活を共にしていることになる」

「つまり辺倉祥子は人質の中でも別格ということかい?」

 直貴は眼鏡を指で持ち上げた。

「これは僕の推測ですが、彼女は犯人から仕事を与えられていますね」

「仕事?」

「はい。恐らく他の人質の監視と身の回りの世話です」

「しかし、どうして彼女は、犯人の言いつけを守る必要があるんだい?」

 直貴は素直にその続きが聞きたかった。

「以前、鍵谷先生に雑誌の指紋を調べてもらった時、辺倉祥子の指紋は検出されましたが、片比良七菜の方は検出されませんでした。つまり二人は別々の部屋で暮らしていて、お互いに顔を合わせることがないのだと思います。犯人は我々の指示に従わねば、友達に危害を加えるぞと別々に脅しているのです。二人はそれぞれ相手の身を案じて、仕方なく犯人の言いなりになっているのではないでしょうか。ある意味、犯人は人質の中から二人の助手を手に入れたという訳です」

「なるほど」

 そう言うと、直貴は黙り込んでしまった。沢渕もすっかり冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干した。

「実はさっき観覧車を見た時、ふと考えたことなんだが」

 直貴は口を開いたが、すぐに言葉を飲み込んでしまった。そして一人思い出し笑いをした。

「先輩、教えてくださいよ」

 沢渕は促した。

「いや、口にするのも馬鹿馬鹿しいことなんだ」

「意外にそんな話から突破口が開けるものです。お願いします」

 直貴は咳払いをしてから、

「あの観覧車のゴンドラ一つひとつに人質を分けて監禁したらどうだろう、って考えただけさ」

 沢渕は真面目に聞いている。

「ゴンドラは全面ガラス張りで中が丸見えだ。つまり人質の動きは常に監視できる。それに観覧車は普段停止させておいて、食事やトイレの時だけ動かせばよい」

「なるほど、確かに犯人にとって効率のよい監禁場所かもしれませんね」

 沢渕はそんな風に言った。

 だが観覧車を人質の監禁に使うことなど、実際にはあり得ない。廃業した遊園地に当然電気は通っていないため動かすことはできないし、たとえ動かせたとしても偶然見掛けた人が不審に思うからである。

 もちろん直貴だってそんなことは百も承知の筈である。だからこの場で話題にするのを躊躇したのだ。

 しかし沢渕には、案外この発想はどこか的を射ているように思われた。もちろん犯人は観覧車を使っているとは思わないが、この考えから何かヒントを得た気がする。

 犯人は少ない人数だと思われる。だから十七人もの人質を集中管理するためには、大きな部屋が必要だと最初は考えた。だが、実はそうではないのかもしれない。

 犯人は逆に、人質を小分けにして小さな部屋に閉じ込めているとは考えられないか。刑務所のように廊下から部屋が覗ける小窓があればよい。このように人質同士を引き離しておくのは大いに意味があるのだ。連帯感を生まれにくくし、団結力を奪い去ることになるからだ。

 人質は女性が多いとはいえ、例えば全員が結託して同時に飛びかかってきたら、犯人も瞬時には対応できない筈である。


「おまたせ」

 突然背後から声がした。

 男二人が同時に振り返ると、そこには叶美が立っていた。背中に回した両手をパッと目の前に出すと、そこには三つのアイスが現れた。

「あれ、クマは?」

「大盛りカツカレーを二杯食べに行きました」

 沢渕が極めて正確に説明した。

「えっ、じゃあこれ、どうすればいいのよ?」

 叶美は二人にアイスを渡した後、残り一つの処置に困ってしまった。

「森崎が食べたらどうだい?」

 直貴の提案に、

「さっき一つ食べたから、もう十分よ」

「これも橘先輩の奢りですか?」

 沢渕が訊くと、

「ううん、これは私が買ってきたの」

と叶美は笑った。

「もうすぐクマ先輩も戻ってくるでしょうから、ちょっと待ってみてはどうですか?」

「そうね」

 叶美はそう言うと無理矢理に二人の間に割って入った。

「よいしょ」

 ベンチに腰を下ろすと、揺れる髪からリンスの香りがした。

「事件の話をしてたんでしょ?」

「ああ、そうさ」

 直貴が答えた。

「だって遠くから見ても、二人は真剣な顔してるんだもの」

「今日一日は事件のことを語らない方がいいですか?」

 沢渕が訊いた。

「ううん、別に構わないわ。そもそも部長に言論統制をする権限はないでしょ?」

「いや、独裁者なら分かりません」

「沢渕くん、何か言った?」

「いえ、何も」

 沢渕はうつむいてアイスを食べるのに専念した。

「ところで、お二人さん。この夏休みにケリはつきそう?」

「事件の解決が、かい?」

「もちろん。みんなで力を合わせれば、きっと解決できるわよね?」

 叶美は沢渕の顔を覗き込んだ。

「はい、解決してみせます。探偵部は少しずつ犯人に近づきつつあります。実際彼らは森崎先輩の前に姿を現しました。もっと決定的な一撃を食らわせれば、きっと尻尾を出すでしょう」

「そこなのよね、犯人有利なこの現状を何とか打開する方法はないかしら?」

「突破口が一つだけあります。新野工業の社長との面会です」

 沢渕が力強く言った。

「新野さんって、娘が人質になっている人ね?」

「はい」

「以前君に頼まれて、僕もあらゆる方面を当たってみたんだが、どうしても関係者が見当たらないんだ。まさか紹介状もなしに『こちら山神高校探偵部です』って会いに行く訳にもいかんだろう」

「いや、沢渕くんなら、それでも会いに行きそうね」

 叶美は口元に笑みを浮かべた。

「どうしてそんなに新野氏と会いたいんだい?」

「新野氏は事件の被害者の中では唯一の資産家と言えるでしょう。確かにこの誘拐事件は身代金目的ではないにせよ、人質を何年も監禁しておくにはそれなりに資金が必要となります。それに犯人グループの中には金目当てで加担した者がいてもおかしくない。そこで犯人は欲を出して身代金が欲しくなる筈です。確実に身代金をせしめる相手がいるとすれば、それは新野社長しかいません」

「だが、その新野氏だって現金の受け渡しには失敗したんだよ」

 直貴はそこまで言うと、

「まさか!?」

と声を荒げた。

 叶美はきょとんとして二人の会話を聞いている。

「そのまさか、です。犯人グループと新野氏の間には裏取引があったのではないかと僕は考えています」

「裏取引ですって?」

 叶美に構わず、沢渕は続ける。

「新野氏は最初の取引で警察に失望したと思うのです。それで犯人から第二の要求が来た時、彼は警察に相談せず、直接裏取引した可能性があります」

「では、新野氏の娘、悠季子さんだっけ。彼女はどうなったの? 無事解放されたの?」

 叶美が勢い込んで訊いた。

「いや、残念ながらそんな報道はありません。犯人は金だけせしめて、娘は返さなかったのです」

「その後、警察には全てを話したのだろうね?」

「はい、娘が帰らないと分かってから、事後報告をしたと思います」

「でも、どうして二回目の取引は報道されてないのかしら?」

「それは文字通り、裏取引だからですよ。新野氏は地元では有名な会社社長です。自分の娘だけ特別に解放してもらえるよう、犯人と取引したことが世間に公表されれば、マスコミに叩かれるのは避けられない。会社の信用もガタ落ちになります。ですから、警察には発表しないように頼んだのだと思います」

「警察としても、裏取引を暴露された犯人側が激高して、見せしめに娘を殺してしまったとなれば元も子もない。だから公表しないことにしたのか」

 直貴は腕を組んで頷いた。

「それじゃあ、新野氏は身代金を取られただけで、事件は何も進展しなかったという訳?」

 叶美は不服そうである。

「はい。ですが彼は新聞発表されてない、犯人に関する特別な情報を持っている可能性があります。彼に会ってその点を質したいのです」

「そっか。よく分かったわ」

 叶美は沢渕の話に納得した様子である。

「あっ、クマ先輩が戻ってきましたよ」

 沢渕は突然声を上げた。

「おーい、こっちこっち」

 直貴がベンチから立ち上がって手を振った。

 女性陣も雅希と一緒に戻ってきた。中でも雅美は身体をくるくると回転させて心底楽しんでいた。時計を見ると、まもなく出発時刻であった。

「しかし、さっきは驚いたわ。雅美さんが探偵部のことをバラし始めるんだもの」

 叶美はすっと立ち上がると、二人の肩を叩いて駆け出した。それから女子連中と合流した。

「おい、どうした?」

 頭上から太い声が降りかかってきた。

 沢渕は叶美から預かったアイスを差し出した。

「森崎先輩からです」

「おー、気が利くな。って、半分溶けてんじゃねえか」


 白いミニバンはいつしか海岸線に差し掛かった。

「海が見えるわ」

 奈帆子の声に車内は沸き立った。

 車は小さな漁村を縫うように走った。質素な家々が身を寄せるようにして建っている。その隙間からは青い海が見え隠れした。

「海水浴場まではもう一息よ」

 徐々に道路が混み始めた。どうやら皆目的地は同じようである。

 しばらく走ってみたが、無料の駐車場は見当たらなかった。仕方なく麦わら帽子の若者の誘導に従って車を停めた。

 海の家の駐車場である。料金はかかるが、海岸はすぐ目の前なので移動は楽である。

 車のドアが開いた途端、磯の香りが飛び込んできた。かすかに波の音が聞こえる。

「では、男性諸君。場所取りをお願い。荷物も忘れずにね」

 叶美が胸の前で両手を合わせた。

「お前たちはどうするんだ?」

 クマの問い掛けに、

「着替えに決まってるじゃない」

 雅美が外国人のジェスチャーのように両手を広げた。

 女子の姿が見えなくなると、

「何が着替えだよ。もったい付けずに車の中で済ませばいいんだよ」

 車外には、レジャーテーブル、クーラーボックス、パラソルなどが山積みになった。男四人はそれらを手分けして運んだ。

 まだ昼前だからか、砂浜は思ったほど混雑していなかった。ただ容赦なく太陽がじりじりと照りつけている。

 一仕事終えると、雅希は早速サッカーボールを取り出してドリブルの練習を始めた。砂を巻き上げてボールは彼の意のままに転がる。

「ちょっと走ってくるよ」

 そう言い残して雅希は波打ち際を走っていった。

「そのまま、海外遠征にでも行ってくれ」

 クマが見送った。

 男三人はパラソルの下、並んで海を眺める格好になった。

「あ、そうだ。クマ先輩にお願いがあるんですよ」

 沢渕が思い出したように言った。

「金ならねーぞ」

「違います」

 沢渕はきっぱりと言った。

「今日一日、ずっと森崎先輩から目を離さないでほしいのです」

「何だ、そんなことか。お前に言われなくても、あいつの水着姿をじっくり堪能するつもりだ」

「いや、敢えて離れたところから見守ってもらいたいのです」

「そりゃ、どういう意味だ?」

「これから森崎先輩とは常に行動を共にしてもらいます。今日はその練習をしてください」

「クマは森崎のボディーガードだからな。頑張ってくれよ」

 直貴はそう言うと、クーラーボックスから缶ジュースを三つ取り出した。

「校内ではクラスが同じなので特に問題はないですが、校外ではしっかり守ってください」

「そりゃお安いご用だが、どうして離れている必要があるんだ? 一緒に居た方が安全じゃないのか?」

 それには直貴が答える。

「二人がいつも一緒に居たら、クマも仲間だとバレて狙われることになってしまうよ」

「それは望むところだ。俺に襲いかかってきたら返り討ちにしてやるぜ」

「いや、他のメンバーは捜査を継続して、犯人との距離を詰めていかねばなりません。ですからこちらの手の内を明かすのは得策ではないのです」

「なるほど、こちらから奇襲をかける訳だな」

 クマは飲み干したジュースの缶を一握りで潰した。

「まさか今、森崎は狙われてないだろうな?」

 クマは周囲を見回した。

「いえ、その心配はないでしょう。ここは生活の場から随分と離れていますから。とにかく今日は彼女の身を守る訓練と思って行動してください」

「分かったぜ。任せておけ」

 クマは胸をドンと叩いた。

「おまたせ」

 突然視界にすらりと長い脚が現れた。パラソルから顔を出すと、橘雅美が立っていた。上半身は白いパーカーですっぽりと覆われている。

 後から続々と女子連中が集まってきた。

 奈帆子はビキニ姿を披露した。さすがは女子大生、身体からすっかり大人の雰囲気を感じさせる。一方、多喜子はさっきと変わらぬ服装だった。足をかばって今日は水に入るつもりはないらしい。

 そして一番後ろには叶美が立っていた。肩に掛けたバスタオルが水着の大部分を隠している。

「じゃーん」

 背後から雅美がそのバスタオルを奪い取った。ピンクのワンピースが露わになった。全身が織りなす柔らかな曲線は実に女性的な魅力に溢れていた。

「おお」

 思わずクマが声を上げた。

「ちょっと!」

 叶美は慌ててしゃがんで、身体を丸めた。それでも顔は笑っていた。

「あら、雅希くんは?」

 奈帆子が訊いた。

「海へと帰っていきました」

 そんなクマの返事に、

「せっかくの水着を見てもらおうと思ったのにな」

と残念そうに言った。

 突然沢渕の目の前に、雅美が仁王立ちになった。

「聞いたわよ。あなた、推理が得意なんですってね」

 沢渕は何も言わず苦笑した。

「それじゃあ、ちょっと推理してみてよ」

「何をですか?」

「私がこのパーカーの下にどんな水着を着てるかを」

 そう言って彼女は胸元を撫でた。

「絶対に当たらないと思うけど」

 雅美は身体を斜めにして沢渕を覗き込んだ。ポニーテールが大きく左右に揺れた。

「そういうのは推理とは言いませんよ」

「いいから、早く当ててみて」

「僕は霊能者じゃありませんから」

 他のメンバーもこのゲームに関心を持ったようである。その証拠に、誰もが黙って事の成り行きを見守っている。

 そんな雰囲気に耐え切れず、

「分かりました。答えは学校の水着、じゃないですか?」

「えっ?」

 雅美は一瞬放心したように見えた。

「ワ、ワンピースかビキニか、どっちよ?」

 どうやら意外な返答に動揺を隠せない様子である。

「ですから、学校のプールで着ている水着、という意味です」

 沢渕は面倒臭そうに言った。

「ねえ、どうして? どうして分かったの?」

 パーカーを脱ぎ捨てた途端、飾り気のない紺色の水着が現れた。

 しかし白い砂浜を味方につけて、彼女のしなやかな身体は一段と魅力を増したようであった。

「おお」

 再びクマが声を上げた。

「悔しいわ。絶対に当たらないと思ってたのに」

 雅美は砂の上に膝を落とした。

「どんなクイズにも正解はある筈です。しかし先輩は絶対に当たらないと言った。ということは、その答えは常識からひどくかけ離れたものだと考えられます。つまり予想を裏切る水着を着ているか、あるいは何も着ていないかのどちらかです」

「もしくは男性用の水着をつけているか、だな」

 クマが付け足した。

「何よ、それ?」

 雅美はキッと顔を上げた。

「ふんどしだよ。ふんどし」

「何ですか、それ?」

 横から多喜子が不思議そうな顔をして訊いた。

「説明が面倒だが、要するに特殊な男性用下着のことだ」

「ふん、馬鹿みたい」

 雅美はプイと横を向く。

「でも、橘らしくないな。君なら派手なのを着そうなものだけど」

 直貴が言った。

「もちろんお気に入りのビキニがあったのよ。だけど、昨日着てみたらお尻がきついのよ。仕方がないから今年新調したスクール水着にしたって訳」

「身体ばかりが成長して、精神がまるで成長してないんだよ、お前は」

「何ですって!?」

 かくしてクマと雅美の喧嘩が始まった。


「私、荷物番してますから、どうぞ泳いできてください」

 多喜子がメンバー全員を見回して言った。

「それじゃあ、焼きイカでも食ってくるか」

 クマが立ち上がった。周りに気づかれないよう沢渕だけに目配せをした。

「私も付き合うわ。車の運転でお腹ぺこぺこ」

 奈帆子も続いた。

 しばらくして直貴と雅美も海岸へ出ていった。

 今、パラソルに残されたのは、叶美と多喜子と沢渕の三人だった。

「沢渕くんは泳ぎにいかないの?」

 多喜子が訊く。

「後でね」

 そう言ったものの、実は沢渕にはここでやる仕事があった。クマの動きが適切かどうか、叶美の目線で確認することである。

「叶美先輩は?」

「うん、私はタキちゃんの傍に居るわ」

「私のことは気にしなくてもいいですよ」

 三人の間に沈黙が生まれた。

 叶美は、多喜子と沢渕を交互に見て、

「ひょっとして、私、お邪魔かな?」

と言った。

「先輩が邪魔だなんて、そんなことはありません」

 多喜子は即座に否定した。

「ね、沢渕くん?」

「はい、先輩にはずっと居てもらいたいです」

「ありがと」

 叶美は安心したのか、そのまま寝転がった。

 三人はシートの上で川の字を作っていた。会話は何も生まれなかった。パラソルの下では静かに時が流れていった。

 波の打ち寄せる音がかすかに聞こえる。すぐ傍を家族連れの笑い声が通過していった。

 沢渕はふと上体を起こして、隣の女子に目を遣った。二人とも目を閉じている。

 叶美の向こうで多喜子は軽い寝息を立てていた。

「起こしちゃダメよ」

 突然叶美が目を開けた。

 沢渕は音を立てないようにゆっくりとシートに背中を戻した。

「タキちゃんったら、ぐっすり眠っているわ。可愛いわね」

 それには何も答えず、

「先輩、ちょっと事件のことを話してもいいですか?」

「いいわよ」

 二人は白いパラソルを裏から見上げながら話し始めた。

「この事件で、犯人と接触を果たしたのは先輩だけです。ですから、その時の様子をもう一度詳しく聞かせてほしいのです」

 この件については、事件の翌日叶美から聞いていた。しかし当時は興奮冷めやらぬ状態で、犯人像を正確に描写できない可能性があった。今なら冷静に向き合えるのではないか、沢渕はそう考えたのだ。

「あの日の出来事は今でも鮮明に覚えているわ」

 叶美はそう切り出した。

「現場には二人居たけど、姿を見たのはそのうちの一人。能面をつけていたから顔までは分からないのだけど」

「その能面男とは会話をしたのですよね?」

 沢渕は確認した。

「そうよ」

「話し方に特徴はありましたか?」

「訛りのない、若い声だった。私たちと同世代のように感じたわ。だからこちらも相手の脅しに屈することなく、強気に出たのよ。そうしたら明らかに動揺してた」

 沢渕は黙って聞いていた。

「脅し文句も口にしていたけれど、それは役者の台詞みたいで、まるで現実感が伴わないのよ。経験が少ないというか、精神年齢が低いというか、社会人ではないと思うわ。未成年か学生のような気がする」

「もう一人の年格好は不明でしたね?」

「ええ、一言も喋らず、突然襲ってきた。今にして思えば、あいつは能面よりも年上で、多少社会経験がある人間かもしれないわ」

「落ち着いていたから、ですか?」

「うん、それもあるけど、もしあいつも学生なら能面と私の言い争いに加勢したような気がするのよ。私が挑発的な言葉を投げかけ時、黙ってはいられずに脅し文句の一つでも言ったと思うの。でも背後から無言で近づき、私を殴っただけだった」

「これはクマ先輩に聞いたのですが、人を一撃で倒すのは難しいことらしい。つまり相手は武術に長けている人間かもしれません」

 多喜子が突然寝返りをうったので、二人は互いに言葉を飲み込んだ。


 二人はしばし無言になった。

 寄せては返す波が遠くで一定のリズムを刻んでいる。すぐ近くでは子供たちの歓声が起こった。見ると多喜子は軽い寝息を立てていた。

 叶美はゆっくりと背中を向けた。

 沢渕の視界には今、叶美の水着姿だけがあった。心臓の鼓動が速くなったことを悟られないよう平静を装う。

「犯人のうち、私が遭遇したのは軟弱そうな学生と場慣れした武闘家。連中は一体どんな組織なのかしら?」

 叶美は両腕を枕に仰向けになった。肘が沢渕の肩に触れて、少し身体を引っ込めた。

「あともう一人、車椅子の女がいます」

「そうだったわね。その女の年格好は不明だけど、ひょっとすると武闘家の妻かもしれないわ。そうなると、学生はその夫婦の実の息子ってことにならない?」

「家族全員がこの事件の犯人ということですね?」

 それは、これまでにない着眼点だった。

 四年以上尻尾を出さなかった組織である。メンバー同士には強い結束力が見て取れる。家族という血縁ならばそれも頷ける。

「あなたの推理では、犯人の数はせいぜい五人。だったら一家族が丸々犯人ってこともあり得るんじゃないかしら」

 どうやら叶美には自信があるようだが、沢渕は素直に賛同できなかった。なぜならいくつかの疑問が生じるからである。

 家族全員が犯罪に手を染める動機とは一体何であろうか。親が我が子に犯罪を強要するのである。それだけの強力な動機がそこになければならない。

 もう一つ、家族として日常生活をどう送るかという問題がある。もしあの街のどこかに自宅を構えているのなら、近隣の目は絶えず意識しておかなければならないだろう。そんな状況下で、果たして長期に渡ってしかも大勢の人を監禁することができるだろうか。

 それを説明するのが面倒に思われて、沢渕は敢えて反論はしなかった。

「犯人は家族経営の店を持ち、送迎バスを所有している。私にはそんな犯人像が浮かぶのだけれど、どうかしら?」

 話していくうちに、彼女の自信は徐々に深まっていくようであった。

「その店は今も営業しているのでしょうか?」

 沢渕はそんな質問を投げかけた。

「十七人を監禁しつつ、通常営業するのは困難じゃないかしら。客の目もある。だから今は廃業していると思うな。いやむしろ廃業したことで、この犯行を思いついたのかもしれない」

 それなら、なおさら家族が犯人とするのには無理がある。廃業した店が突然送迎バスを動かしたり、敷地内で人の動きを活発にしたりすれば、近隣住民の目には異様に映る筈だからである。

 沢渕が何気なく砂浜に目を遣ると、こちらへ一直線に駆けてくる人物がいた。少し先をサッカーボールが慌ただしく回転している。

 橘雅希だった。

 あっという間に目の前に到着した。

「ただいま」

 短髪で上半身裸の青年が声を掛けた。小麦色に焼けた顔に白い歯が浮かび上がった。

「お帰りなさい」

 突然のことで少し驚いた叶美の声が、多喜子を目覚めさせた。

「あっ、橘先輩」

 多喜子は上体を起こすと、慌てて髪の毛を整えた。

「森崎さん、一緒に砂浜を歩きませんか?」

 爽やかな笑顔がそう言った。

「そうね、タキちゃんも一緒に行きましょうよ」

 雅希の表情が一瞬曇った。沢渕はそれを見逃さなかった。

「わあ、いいんですか?」

 多喜子の黄色い声に雅希も頷かずにはいられない。

 女子二人は同時に立ち上がった。

「それじゃあ、沢渕くん。ちょっと失礼するわね」

「荷物の番、お願いします」

 叶美は敢えて多喜子を雅希の隣に立たせると、自分は少し距離を置いて並んだ。三人はゆっくりと小さくなっていった。沢渕の足下には砂まみれのサッカーボールだけが残された。

 果たしてクマは叶美の姿をしっかり捕捉できているだろうか、そんなことを一人考えた。

 しばらくぼんやりしていると、背後から素早くパラソルに潜り込んできた人物がいた。振り返るより先に冷たい手が頬を襲った。

「びっくりしたでしょ?」

 半身を向けると、奈帆子の笑顔があった。今まで泳いでいたのか、髪は濡れ、自慢のビキニからは水が滴り落ちている。

「気持ちよさそうですね」

「うん、沢渕くんも泳いで来たら?」

「はい、後で行ってきます」

 奈帆子は手を伸ばしてクーラーボックスからジュースを取り出した。

「沢渕くんも飲む?」

「いいえ、結構です」

「そう言えば、私たちこうやって二人っきりで話したことなかったわね」

 奈帆子は沢渕の顔をまじまじと見つめた。

「そうですね」

「みんながいつも羨ましく思えるのよ。探偵部のメンバーは私を除いて、いつでも学校で会えるでしょ?」

「いや、僕はむしろお姉さんの方が羨ましいですよ。テストや補習に悩まされる心配がない」

「あら、そんなことないわよ。大学だって試験はあるし、単位も取らないといけないんだから」

 奈帆子は口を尖らせた。

 突然、強風が通り抜けた。

 パラソルが変形するほどの勢いである。青いバケツが大袈裟に転がっていった。

 奈帆子はその様子をじっと見ていたが、

「あなたには凄く感謝してる」

 沢渕が不思議そうな顔をすると、

「多喜子のことよ」

と言った。

「あの子ってね、早くに母親を亡くしたでしょ。それが原因で性格が変わってしまったのよ。何と言うか、孤独な境遇にすっかり慣れてしまったの。でも、その原因は実は私にあるの。料理とか洗濯とか掃除とか、あの子が進んでやるものだから、それをいいことに全部押しつけちゃったのよね。これじゃあ姉失格ね」

 沢渕は黙って聞いていた。

「だから、もっと人と付き合ってもらいたくて、無理矢理探偵部に引き込んだのよ。あんまり戦力にはならないけどね」

「そんなことありませんよ」

 沢渕は頭を振った。

「今回の捜査だって、多喜子さんの雑誌がなければ始まらなかったでしょう。人質のメッセージが書かれた雑誌をもう一冊見つけてくれたじゃないですか」

「そう言ってもらえると助かるわ。あの子、人から頼られるのが凄く嬉しいのね。最近は休日に車を出せってうるさいのよ」

「捜査ですか?」

「ええ。ほら、例の市川探し」

 市川とは、外車情報誌のはがきに残されていた名前である。事件と関係があるかどうかは不明だが、雑誌に関わった人物には違いない。ずばり犯人の名前である可能性もある。

「進行状況はどうですか?」

「あまり芳しいとは言えないわね。そこで私、あることを思いついたのよ」

「と言いますと?」

「あの辺りは学生向けのマンションが多く建ち並んでいるのよ。だから市川は大学生だと決めつけて捜査しようって考えたの」

 沢渕はその続きが気になった。

「あの街には二つ大学があるの。一つは医科大学、もう一つは短期大学。何食わぬ顔して構内の駐車場を調べてみたら、医大の方には結構外車が停めてあるじゃない。だから市川は医大生じゃないかと仮定してみたの」

 その考えには興味があった。

「事務局へ出向いて、市川さんっていう学生を探しているって訊いてみたけど、教えられないの一点張り。だからキャンパスや校舎を歩いて『市川』の名前を探したのよ」

「それで、結果はどうでした?」

「四回生に一人見つけたわ。フルネームはまだ分からないけれど、もう少しこの線を追ってみることにするわ」

「佐々峰姉妹もなかなかやりますね」

 沢渕は感心した。

「そうでしょう。何か分かったら真っ先にあなたに報告するわ」

「無茶はしないでくださいね」

「大丈夫よ、任せておいて」

 奈帆子はビキニの胸辺りを手のひらで叩いた。


 正午前に全員が海の家に集合した。混雑を避けて、早めに昼食を取ることになっていたのである。

 八人は奥のテーブル一つを占拠した。

「あら、クマ先輩。随分と日焼けしたみたい」

 多喜子がすぐに気がついた。

 確かにクマは朝来た時より、顔が赤黒くなっていた。

「本当だ。何だか、いやらしいわね」

 雅美が言う。

「おい、ちょっと待て。どうして日焼けするといやらしいんだよ?」

 沢渕にもそれは論理の飛躍に思えた。

「だって、この浜辺に居る女性の水着をずっと観察していた、ってことじゃない?」

 雅美は腰に手を当てて指摘した。

「あのなあ、俺は森崎をだな」

 そこまで言ったところで直貴が一つ咳払いをした。

「えっ、森崎さんがどうかしたのかい?」

 すかさず雅希の突っ込みが入る。

 自然とみんなの視線は叶美に集まった。

 叶美は恨めしそうにクマを見上げた。言葉の続きを待っている様子である。

「いや、だからその、俺も本物の熊みたいに真っ黒になったら、森崎に気に入ってもらえるかと思ってさ」

 随分と苦しい言い訳である。何とかクマをフォローできないだろうか、沢渕は一生懸命言葉を探した。

「凄いわ、クマゴロウって結構いいヤツだったのね」

 雅美が目を輝かせて言った。

「そ、そうだろ」

 クマは頭を掻きむしった。

 雅美が単純な性格で助かった。

 海の家ならではの飾り気のない平凡な食事がテーブルに並んだ。それでも大人数の食事は楽しいものである。話も途切れることを知らない。

「ねえねえ、叶美先輩って凄いの。浜辺を歩いていたら、知らない人から何度も声を掛けられたのよ」

 急に多喜子が思い出して言った。

「何だって!」

「えっ」

 クマが大きな声を張り上げると、沢渕と直貴も顔を見合わせた。もしや犯人が彼女に接触してきたのではないだろうか。緊張が走る。

「森崎さんのことになると、どうしてそこの三人は極度に反応するの?」

 雅美は不満を漏らした。

「タキちゃん、そんな報告しなくていいから」

 当の叶美は慌てて話を逸らそうとする。

「それって、もしかしてナンパ?」

 奈帆子が訊く。

「たぶん、そうよ」

 多喜子が答える。

 男三人に安堵が広がった。

「森崎さんは、そんな簡単にフラフラついていく人じゃありませんよね?」

 なぜか雅希が締めくくった。


 食事後、沢渕はパラソルの下で横になっていた。

「ねえねえ、沢渕くんってば」

 雅美の呼び声がした。

 どうやら少しうとうとしたようだ。周りを見ると、みんなはいつの間にか出払っていた。

 すぐ横で、地味なスクール水着姿の雅美が寝そべっていた。

「ちょっと訊きたいんだけど、あなた、探偵部の中に好きな子いるの?」

「いきなり何の話ですか?」

 沢渕は目を擦りながら言うと、

「仕方ない。私が推理してあげるわ」

と言い出した。

「いや、別にいいですよ」

「ダメよ、今度は私が推理する番」

 雅美は勝手に盛り上がっている。

「そうねえ、部長の森崎叶美さん」

 一瞬、ドキッとした。

「この線はないわね」

 雅美は断言した。

「どうしてそう思うのですか?」

 沢渕は理由を訊いた。

「だって、あなたは物静かなタイプだから、やんちゃ姫は好みじゃないと思うのよね」

「やんちゃ姫、ですか?」

「叶美さんは一人突っ走っていくタイプでしょ。あなたとは性格が逆なのよね」

 沢渕は苦笑した。

「では、奈帆子さんはどうか。この線もないのよね。歳上だし、女子大生から構ってもらえそうにないから、あなたは最初から諦めている筈よ」

 随分とひどい言われようである。

「次の候補は、多喜子ちゃん。この線は濃厚ね。クラスも同じだし、物静かな彼女はあなたにピッタリ」

 雅美は悪戯っ子のような目で、沢渕の顔を覗き込んだ。

「と、思わせておいて、実は彼女も違うのよね。毎日教室で一緒に居られるのにまるで進展がないんだもの。だから脈なし」

 沢渕は思わず吹き出した。

「そして最後に残ったのは、この私、橘雅美」

 彼女は顔を近づけてきた。

「実は大穴。もしかして大本命じゃない?」

「ど、どうしてですか?」

「ほら、今だってドキドキしてるじゃない。それに部員の猛反対を押し切って、私を探偵部に招き入れた。つまり他の誰より私を大事にしている証拠でしょう」

 沢渕は反論しようにも、すぐに言葉が出てこなかった。

「ほら、白状しなさい」

「一体、何を白状するんだい?」

 知らぬ間に直貴がパラソルに入ってきた。

「別に、何でもないわよ」

 雅美はそう言うと、身体を翻して海の方へ駆けていった。

「橘って、本当に明るい性格だよね。おかげで探偵部も面白くなったよ」

 そう言って冷えたジュースを寄越した。

「沢渕くん、今日は夏休み初日だよ。時間の心配はいらない。さあ、大いに事件のことを語ろうではないか」

 直貴はまるで雅美の真似をするように、両手を大袈裟に広げて言った。

「そうしましょう」

 沢渕も応じる。

「僕は、森崎から犯人と遭遇した時のことを聞いて以来、ずっと引っかかっている事があるんだ」

 沢渕は黙って耳を傾けた。

「能面のことさ」

 先輩はジュースを飲み干した。

「森崎は自警団とも言うべき老人たちから調査リストを貰って、偶然、あのボーリング場に一人乗り込んだ」

「はい」

「つまり犯人は森崎が来ることを知らなかった筈なんだ。それなのに顔を隠すために能面を付けて現れた」

「随分と準備がいいですね」

「そうなんだ。まるで森崎を待ち伏せしていたような節がある」

「僕も気になって先輩に訊いたのですが、貰ったリストには全部で五件の怪しい物件が記されていた。その中で先輩自身がボーリング場を選んだらしいのです」

「植野がそこへ行くように指示した訳ではないんだね?」

「はい、そうです」

「それならいいんだ。僕は一瞬、植野老人らを疑ったんだ」

 沢渕は老人たちの顔を思い出していた。到底犯罪に関与するようには見えないし、あの年齢では誘拐、監禁といった荒い仕事ができる筈もない。

「なぜ犯人たちは森崎が来ることを知っていたのか、その点がどうも腑に落ちないのさ」

「先輩はずっと尾行されていたのかもしれませんね」

 沢渕はそう言った。

「なるほど、それで一応の説明はつく。彼女はどうやらボーリング場へ向かっているので、俺たちは先回りしよう、それから能面も忘れずに持っていこう、と犯人は考えた訳だ」

 どうやら直貴は納得がいかないようだった。

 二人はしばらく黙りこくった。互いがそれぞれ考えることがあった。

 パラソルにビーチボールが転がってきた。転がる度に中の鈴が乾いた音を出した。

「どうもすみません」

 父親らしき男性が拾いに来た。

 その姿が消えるのを待って、直貴が口を開いた。

「武鼻自動車で見つかったあのバス二台は、結局何だったんだろうね?」

「犯人の仕組んだ罠かもしれません」

「武鼻社長によれば、賊が侵入したのはひと月前のことだそうです。その時元々停めてあった無関係のバスに、犯人が小細工をしたのかもしれません」

「我々探偵部の動きを察知して、証拠をねつ造し始めたという訳だ」

「はい」

「どうして僕らの動きが奴らにバレたのだろう?」

「やはり捜査活動が目に留まったということでしょう。目撃されたのは、探偵部員ではなく、クマ先輩の柔道仲間や植野老人たちかもしれません」

「逆に言えば、探偵部員あるいは仲間の誰かが、監禁場所に肉迫したということにならないかい?」

「確かにそうですね。僕らは知らない間に犯人らとすれ違っているのかもしれません」

「それなら、これ以上探索エリアは広げずに、これまで捜査したエリアを再度徹底的に調べてみてはどうだろう。そこに犯人は潜んでいるのだから」

「賛成です。ある程度ヤマを張ってみることも時には必要です」

 二人はそうやって今後の捜査方法を話し合った。


「そろそろ帰る準備をしましょうか?」

 奈帆子が提案した。

 時刻は四時を回っている。今、メンバー全員はパラソルに勢揃いしていた。みんなすっかり疲れていて、てきぱき動こうとはしなかった。

「今日はとても楽しかったです」

 雅希が言った。

 ここに居る誰もが同じ感想を持っているに違いない。沢渕は明日からの捜査へ向けて、充電が完了したような気がしていた。

「ところで、森崎さん。今度二人っきりでデートしてくれませんか?」

 雅希は叶美の前にひざまずいた。

「あのヤロー、みんなの前で堂々と誘いやがって」

 クマの小声はよく通る。沢渕と折り畳んでいたシートが平行四辺形になった。

「ごめんなさい。私、色々と忙しくて」

 叶美は申し訳なさそうに答えた。

 部長はあくまでも捜査を優先しているのだった。事件の解決のため、今はうつつを抜かしている場合ではない。

「そうか、それは残念ですね」

 雅希は立ち上がった。

 その時持っていたポーチから小物がぱらぱらと落下した。どうやら蓋がきちんと閉まってなかったようだ。

 財布、サングラス、ボールペンなどが砂の上に散乱した。

 叶美は腰を落とすと、それらを拾い始めた。両手で一つひとつ砂を払ってから雅希に手渡す格好になった。。

 その途中で叶美の動きがぴたりと止まった。拾い上げたボールペンを凝視している。

 そこには不思議な刻印があったからである。

「新野工業株式会社」

 彼女はしばらくその文字と睨み合った。

 ピンクの水着が飛び上がると、

「先輩、このボールペン、どうしたのですか?」

「ああ、それかい? サッカーのコーチから貰ったんだ。何でもそこの社長がコーチの知り合いなんだって」

 叶美は神に感謝していた。何と答えは簡単なところにあったのだ。思わず笑みがこぼれた。

「よかった。今日はあなたが来てくれて本当によかった。デートでも何でも喜んで行きます」

 叶美は雅希の手を握った。

 遠巻きに見ていたメンバーたちは一体何が起こったのか、理解できなかった。

 いよいよ、探偵部に追い風が吹いてきた、そう叶美は感じた。犯人と裏取引をしたと思われる新野工業社長、新野慎一とこれで会うことができる。それは沢渕のかねてからの願いだった。

 夏の砂浜で潮風を肌に感じながら、叶美の胸は踊っていた。

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