第22話 新たな証拠、発見

 梶山を先頭に、総勢七人は大通りに出て橋を渡った。

 街のあちこちから好奇の視線を感じる。叶美はというと、意外と平気な顔をしている。

 今、一団は堤防を歩いていた。右手には澱んだ河川、左手には民家が続いている。

 いよいよスクラップ工場が見えてきた。役目を終えた自動車たちが哀れな姿で無造作に積み上げられている。その荒れ果てた様子はまるで無縁墓地を連想させる。

「ここは土日休みで、誰もいないんッスよ」

 梶山は立ち止まって一団を振り返った。そして沢渕の横に並ぶと敷地内を指さした。堤防の上からは工場全体を見渡すことができる。

「あれですよ」

 小型のバスが二台見えた。建物の壁にぴったり寄せて置いてある。不思議なのは、他の自動車と扱いが異なる点である。ひょっとするとまだ動かせるのかもしれない。

「いつから置いてあるんですか?」

「そうですねえ、はっきりとは覚えてないんですが、もう一年ほど前からあるような気がします」

「近くで見たいんですけど、中に入れますか?」

「誰もいないから大丈夫ッスよ。子供の頃はよくここで遊んだものです」

「どこから入るんですか?」

「正々堂々と玄関から行きましょう」

 梶山はにやりと笑った。

 堤防を下りて工場の玄関へ回ると、やはり門扉は閉じていた。しかしそれほど厳重なものではなく、その気になれば乗り越えることは可能であった。

 ここからは住居不法侵入となる。

「森崎先輩と寺田さんはここで待っていてください」

 沢渕は両手で制した。

 何か言いかけた叶美に、

「先輩はスカート穿いてますから無理ですよね。二人して誰か来ないか見張っててください」

「はい、はい。お気遣いどうも」

 彼女は生徒会長である。もしこの違法行為が学校に知れたら大変なことになる。それこそ選挙どころではなくなるだろう。

 梶山が真っ先に金属扉に取り付いた。小柄な身体を効率よく揺さぶって軽々と登っていく。こういうことには慣れた様子である。

 他の四人も後に続いた。

 夕刻で辺りは暗くなりつつあったが、事務所の電気はついていなかった。やはり梶山の言う通り、中には誰もいないようだ。

 勝手を知る梶山は一直線に走っていく。車庫を曲がった途端、マイクロバスが姿を現した。

 二台とも同型のバスである。どちらもナンバープレートは外されている。白い車体には「鏡見谷旅館」という文字が入っていた。

 所々の塗装が剥がれ落ち、錆びてはいるものの、大きな傷や凹みはない。まだ売り物になると考えて、脇にどけてあるのかもしれない。

 沢渕は携帯電話を取り出して叶美に掛けた。

「今、バスの前に来ました。そちら異常ないですか?」

「こちらは大丈夫。バスの中には入れそう?」

「やってみます」

「電話はそのまま切らないで」

「了解」

 堤防の水銀灯が敷地内をぼんやりと浮かび上がらせている。バスの車体の上を四つの影が動いた。

「ドアが開くかどうか調べてください」

 沢渕が指示した。

 二人ずつ分かれて、それぞれバスを調べた。

 手前のバスは扉が半開きになっていた。隙間に手を入れて力を加えると、甲高い悲鳴を上げて全開してくれた。

「今の音は何?」

 叶美の声がした。

「ドアが開きました。これから中に入ってみます」

「お願い」

 沢渕は昇降口を駆け上った。

「犯行に使われたバスなら、何か痕跡が残っている筈よ。人質の目線になって、調べて頂戴」

 バスが犯行に使われたことを証明するには何が必要だろうか。もちろん被害者の指紋照合ができればそれに越したことはないが、今それは無理な注文である。

 天井、床、シートをじっくりと眺めた。特に変わった点はない。

 自分が人質だったら何をするだろう。

 そうだ、危険を承知の上で、ここに居た証拠を残す筈である。

 日付、名前、住所、犯人の特徴、何でもいい。どこかに書き付けていないだろうか。

 沢渕はもう一度車内を隈無く探した。

 しかし手掛かりは何も見つからなかった。

 突然、梶山が外から窓を叩いた。

「沢渕さん、ちょっと来てください」

「どうかしましたか?」

「こちらは扉に鍵が掛かっていて、どうやっても開きません」

 梶山の仲間三人は手を真っ黒にして、力尽きた顔をしている。

 沢渕は半ば諦めて窓から中を覗き込んだ。

 さっきのバスと車内はまったく同じ作りになっている。同型バスだからそれは当たり前である。

 そんな沢渕に突如衝撃が走った。

 自然に目を見開いていた。思わず窓に近寄って額をぶつけた。

 バスの座面は布製のクッションになっている。二人掛けの席は一人用のクッションを二つ並べて作られている。

 そのクッション同士の隙間から何やら白い物が突き出していた。

 一枚の紙である。

 シートの色を背景に、紙の白さが一段と輝いていた。

「梶山さん!」

 沢渕は鋭い声を上げた。

「あそこに何か見えませんか?」

 のんびり近づいてきた梶山は、

「あっ」

と小さく声を上げた。

「紙が挟まってますねえ」

 他の連中も集まってきた。

「窓を割って入りましょうか?」

 梶山が言う。

「いや、それはマズいです。開きそうな窓はないですか?」

「この窓がぐらぐらです」

 暗がりで誰かが声を上げた。

「ここが開けば、何とか身体を入れられるかもしれない」

 沢渕の声で、全員が一斉に窓に飛びついた。

「せーの」

 急に窓が滑り出した。開口部ができた。

 小柄な梶山が素早く身体を滑り込ませた。その座席に到達する。

 そして目標物を手にすると、ガラス越しに掲げた。

 白い紙には文字が書かれていた。

「××高校三年 片比良七菜」


 沢渕は戦慄した。

 その文字は彼にとって深い意味を持っていたからである。

 あの夏の晩、何者かによって連れ去られた女子高生がいた。

 辺倉祥子と片比良七菜。

 二人はもう何度も、地獄の淵から沢渕に呼び掛けてきている。それに応えてやれないことが歯痒くて仕方がない。

 早く私たちに気づいてくれ、あの日の女子高生がそう叫んでいるようだ。

「沢渕くん、どうしたの?」

 叶美が異変に気づいたのか、そう言った。

「今、バスからメモが出てきました」

「メモ? 何て書いてあるの?」

「片比良七菜の名前があります」

「何ですって?」

 携帯電話の向こうで叶美が驚きの声を上げた。

 叶美はしばらく言葉を失っていた。

 沢渕は考える。

 スクラップ工場に停めてあったバスから、人質の名前を書いた紙が見つかった。これは一体何を意味するのだろうか。

 断定するのはまだ早いが、これは片比良七菜がこのバスに乗っていた証拠である。恐らく彼女は誘拐されてすぐ、いつもとは違う車内の雰囲気を察したのだ。そしてメモに名前を書き、犯人たちに悟られぬようシートの隙間に押し込んだ。彼女はこれから始まる恐るべき事態を予見して、何らかの手掛かりを残そうと考えた。

 もしそうであるなら、このバスこそが犯行に使われたことになる。同時にそれは犯人の遺留品と見なすこともできる。

 梶山は窓から這い出すと、沢渕にメモを手渡した。

 沢渕は手にとってじっくりとメモを観察した。真四角な紙片は何かを丁寧に破ったものと考えられた。文字はしっかりした調子で真っ直ぐに書かれている。

 沢渕は一目で違和感を覚えた。

 薄暗いバスの車内で犯人の目を盗んで慌てて書いた割には、文字が綺麗過ぎる。彼女の置かれた状況から考えると、もっと粗雑でなければならない気がする。

 これは明らかに平常な心理状態から生み出された文字である。とすれば、彼女はこれをいつ書いたというのだろうか。

 雑誌に書かれた文字のような、切羽詰まった雰囲気がまるで感じられないのだ。

「沢渕くん、聞こえる? 誰か来たみたい」

 突然叶美の声が響いた。

 四人の動きが一瞬にして止まった。全員が耳をそばだてる。

 叶美は一時沈黙する。

「一旦電話を切るわね。状況を確認するから、そこで待機して頂戴」

 一方的に通話が切れた。

 何があったのだろうか。

「沢渕さん、どうしましょうか?」

 梶山の不安げな声が響く。

 沢渕は一瞬躊躇した。

 しかし叶美を放っておく訳にはいかないのだ。そんなことは考えるまでもない。

「音を立てずに玄関まで戻りましょう」

「分かりました」

 四人の男たちは身を屈めて、慎重に足を運んだ。

 玄関まで辿り着いた。

 門の外は静まりかえっている。人の気配はない。この付近には外灯がないため、全ては暗闇に支配されていた。

 それでもしばらくすると目が慣れてくる。鉄柵の隙間から目を凝らすと、本来二人の居るべき場所にその姿はなかった。

「変だな、二人ともどこへ行ったんッスかね?」

 梶山は鉄扉をよじ登った。

 その時である。上空からドアの閉まる音が聞こえたかと思うと、一台の車が急発進していった。辺りには車の排気音だけが残された。

 沢渕は血の気が引いた。

 まさか叶美が連れ去られたのではないだろうか。

 沢渕は門から飛び降りて道路に転げ落ちた。足をくじいたが痛みを感じている暇はない。

 周りを見回した。道路にも堤防の斜面にも、どこにも叶美の姿はない。言い知れぬ不安が身体を突き上げる。

 いや屈強な寺田も一緒にいたのだ。きっと叶美は無事である。そう言い聞かせた。

 しかし時間だけが過ぎていく。暗闇で心臓の鼓動だけが一際大きく聞こえていた。

 やはり叶美を残したのは間違いだったのか。後悔の念ばかりが募った。

 すると携帯電話が鳴り出した。それは神からの知らせのように感じられた。

「沢渕くん、そっちは何ともない?」

 瞬く間に緊張が解けていく。

「先輩、今どこですか?」

「堤防を上がったところ。寺田さんも一緒よ」

 叶美は人の心配をよそに、のんびりした口調で答えた。

「何かあったのですか?」

「今そっちへ行くから、ちょっと待ってて」

 すると草むらをかき分けて、二つの影が斜面に現れた。

「よいしょ」

 叶美は地面に降り立つと、一つ大きくため息をついた。

「説明は後。とりあえずここを離れましょ」

 その声で全員が一斉に駆け出した。


 住宅街に出ると、外灯が等間隔にどこまでも続いていた。さらには各家庭の四角く切り取られた明かりが道路を照らしている。一度は凍りついた心が、今は暖められるような気がした。

「さっきはびっくりしましたよ。二人ともいなくなったから」

 沢渕はすっかり落ち着きを取り戻して言った。

「堤防の上から誰かがこちらを窺っていたような気がしたのよ」

「それで?」

「寺田さんと密かに堤防を上っていたの」

「誰か居ましたか?」

「ううん。だけど少し先に車が停まっていたわ」

「俺たちの姿を見ると、急に立ち去っていきましたがね」

 寺田が付け足した。

「ただの思い過ごしじゃないですか?」

「いや、近くで草をかき分けるような音がしましたからね」

「そうですか」

 沢渕はそれ以上は逆らわずに言った。

「ところで、ちゃんとメモは持ってきた?」

「はい、ここに」

 叶美はメモを外灯にかざして見た。

「なるほどね」

 沢渕はバスの特徴や内部の様子など、自分の見たことをありのままに伝えた。

 叶美は黙って聞いてから、携帯を取り出して耳に当てた。

「もしもし、直貴。今いいかしら?」

 男たちは皆、紅一点叶美の行動をじっと見守っている。

「ちょっと調べてほしいことがあるの。メモ取れる?」

 叶美は「鏡見谷旅館」の所在地、規模、送迎バスの有無を調べるように指示した。

「一番知りたいのは、その旅館が今も営業しているかどうかってこと。お願いね」

 携帯を切ると、寺田の方を向いた。

「今日はどうもありがとうございました。そのお礼といってはなんですが、ご一緒にお食事でもいかがですか? もちろん、奢りますよ」

 それには全員がどよめいた。

「いいんですか?」

 寺田は嬉しそうに言った。

「できればこの近くのお店がいいんですけど」

「それなら、この先のラーメン屋はどうですか。安くて旨いッスよ」

 梶山が割って入った。

「それじゃあ、そこへ行きましょ」

 沢渕はすぐに叶美の別の意図をくみ取った。飲食店でスクラップ工場のことを聞き込むつもりなのだろう。

 彼女の手際のよさと行動力には、いつも感心させられる。


 すぐ目の前に一軒家を改造したラーメン屋があった。竹格子の引き戸には暖簾が下がっている。

「ここなんッスよ」

 梶山は足取りも軽く中に入った。一同も後に続く。

「いらっしゃい」

 店内では夫婦らしき二人が椅子に掛けてテレビを見ていた。店主の方は慌てて立ち上がると奥へと消えた。奥さんの方は次々と入ってくる客に笑顔をふりまいている。

 店は途端に賑やかになった。

 沢渕と叶美はカウンターに腰掛けた。寺田たちは気を遣ってか、背後のテーブル二つに分散した。

 エプロン姿のよく似合う奥さんがお冷を出し終わると、

「みなさん、お友達ですか?」

と叶美に訊いた。

「はい、そうです」

 その答えに、奥さんは不思議そうな表情を浮かべた。

 みんなが注文を済ませてしばらくすると、叶美はカウンターの奥へ話し掛けた。

「この先に自動車屋さんがありますね?」

「ああ、武鼻さんの店ね。武鼻自動車サービス」

 奥さんが応じる。

「中古車は販売してるのですか?」

「いいえ、あそこは解体専門ですよ」

「そうですか。それじゃあ解体前の中古を安く売ってもらうことはできませんかね?」

「車、買うんですか?」

「実は今度、高校の文化祭がありまして、小型のバスが必要なんです」

「バス、ですか?」

 奥さんは怪訝そうに聞き返した。

「会場に飾るだけですから、別に走行できなくてもいいんです」

「でもね、武鼻さんの店では販売してないと思いますよ。そうよねえ、あんた?」

 店主は炒め物をする手を休めて、

「特殊な車両なら販売してくれるかもしれませんよ」

「そうなんですか」 

 叶美の顔がパッと輝いた。

 店主は天井を見上げるようにして、

「バスねえ、そういやあ、そんなのが停まっていたなあ」

「本当ですか?」

「ええ。出前に行った時にね、確かに置いてありましたよ。あれはマイクロバスだと思うんだけどな」

「今でもあるのかしら。それっていつ頃のお話ですか?」

 叶美は身を乗り出して訊いた。

「もう随分前になりますけどね」

「去年の夏頃じゃないの?」

「うん、確かにその頃だ」

 奥さんの記憶力はよかった。

 これは梶山の証言とも一致する。問題は、犯行に使われたマイクロバスがどうして武鼻の店に置いてあったかである。

 彼は犯人の一人なのか、それとも偶然手に入れただけなのか。

「お店は武鼻さんって方が経営されているんですか?」

「そうですよ、お一人でやってます」

 奥さんが答える。

「マイクロバスを安値で売って下さいって頼んだら、高校生相手にちゃんと売ってくれますかね?」

「さあ、どうなんでしょう」

 奥さんにとって、これは難しい質問のようだった。

「武鼻さんってどんな方なんですか?」

「そうですね、もう五十は超えてるんじゃないですか。奥さんに先立たれて、今は一人暮らしをしてるみたいですよ」

「怖い人ですか?」

 奥さんは笑って、

「いいえ、別に怖くはないですけど、ちょっと若い人は取っつきにくいかもしれませんね」

 沢渕は考える。

 武鼻自動車サービスの敷地は確かに広いが、雨風をしのげる場所は事務所と車庫ぐらいのものである。そんな場所に十七人もの人質を監禁することは不可能である。

「他に従業員さんはいらっしゃらないのですか?」

「いや、見たことないですね。昔は若い人を雇ってたこともあったのですよ。でもね、武鼻さんは少し頑固な所があるから、みんな続かないんでしょうね。最近では一人で仕事をするのが性に合ってるって言ってましたよ」

 やはり武鼻はシロのような気がする。

 誘拐犯たちは相当強い結束の下、与えられた役割を黙々とこなしていると考えられる。これまで警察の捜査に一度も尻尾を出さないのは、それだけ組織がしっかりしているからに他ならない。恐らく目的や利害が完全に一致するメンバーで構成された組織に違いない。

 そこへいくと、武鼻はどこか一匹狼的で集団に身を置くような性格ではなさそうだ。

「お待ちどおさま」

 後ろのテーブルにはラーメン、餃子、チャーハンなどが所狭しと並べられた。

 沢渕の目の前には今、ラーメンが出された。よく煮込んだスープの香りが空腹にしみわたった。早速箸をつけた。

 隣の叶美はしばらく何かを考えているようだった。


 食堂を出ると外はすっかり暗くなっていた。時刻は八時を過ぎている。

「どうもお世話になりました」

 叶美と沢渕は頭を下げた。

「どういたしまして。俺たちでよければ、いつでも力になりますよ。それから、久万秋さんによろしく」

 寺田が丁寧に言った。

 五人の男たちはいつまでも二人を見送った。


 駅へ向かって歩いていると、直貴から連絡が入った。

 沢渕も叶美の身体に寄り添うようにして、彼の声に耳をすませた。

「ネットで調べてみたんだが、その『鏡見谷旅館』というのはすでに廃業しているね。閉館してもう七年が経つ。場所はここから二百キロほど離れた山中にある。今でも建物が残っているかどうかは不明。全盛期には本館と別館を持つほどの大旅館だったみたいだ。写真やパンフレットの一部を入手したから、これから送るよ」

「ありがとう。助かるわ」

 写真が数枚送られてきた。

 五階建ての立派な旅館である。本館と別館が紅葉した山を背景に写っていた。パンフレットには、温泉や娯楽施設そして送迎バスの記載があった。

 バスの写真は小さいが、形状から判断すると武鼻自動車に置いてあったマイクロバスと見ていいだろう。

「沢渕くん、どう思う?」

「そうですね、この旅館は一度調べる必要がありますね」


 二人はようやく駅に辿り着いた。

 今日は長い一日だった。この駅を出たのがひどく昔のことのように感じられる。

 大時計の針は九時を指していた。

 この時間になると、地方の駅には人影が少ない。靴音が天井まで響き渡っていた。

 構内の照明が叶美の全身を映し出した。その姿に沢渕はびっくりした。

 白のブラウスが所々、黒く染まっていたからである。

「先輩、その格好」

「えっ?」

 叶美は胸の辺りに目を落とした。

「あら、あら、凄いことになってるわね。今まで全然気がつかなかったわ」

 そしてすぐさま、

「沢渕くん、あなただって私以上に汚れてるわよ」

 確かにその通りだった。まるで火災現場から帰還した消防士のようであった。

 近くを通る人が物珍しそうな視線を浴びせていく。

「何だか、二人とも泥んこ遊びをした子供みたい」

「そうですね」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 トイレに立ち寄ろうと考えたが、ちょうど列車が来る時刻と重なってしまった。これを逃すともう一時間待たなければならない。

 仕方なく二人はそのまま列車に飛び乗った。

 車内は空いていた。

「今日はとっても疲れちゃったわ」

 叶美は目の前のベンチシートに腰掛けた。沢渕も横に座った。

「でも色々と収穫はありましたよね」

「そうねえ」

 考えることがたくさんあった。しかし今は疲労感が思考を鈍らせる。

 二人は黙り込んだ。

 左右に揺れるシートの上で、叶美は何度も肩を寄せてきた。沢渕が慌てて覗き込むと、彼女は目を閉じて眠ってしまっていた。

 柔らかい頬が沢渕の肩に触れた。

 まもなく列車は駅に到着する。

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