第18話 橘雅美との対決

 六月も中旬を迎えた。

 窓から見る空には、鉛色の雲がどこまでも続いている。校内は蛍光灯の薄明かりが見るもの全てをぼんやりと浮かび上がらせていた。

 真っ白な夏服も見た目には爽やかだが、肌にまとわりつく湿気のせいで心は軽くなりそうもなかった。

 あじさいの花が一斉に咲いた緑の中で、沢渕は見覚えのある背中を見かけた。

「堀元先輩」

「おや、君も橘の演説会を聞きにきたのかい?」

「ええ、まあ」

 校舎に挟まれた中庭で、生徒会長立候補者、橘雅美みやびの演説会が予定されていた。今朝校門で運動員からチラシを受け取っていた。

「堀元先輩も?」

「いや、僕は彼女と同じクラスだからね。クラス全員で応援することになっているんだ。いわゆるサクラって奴さ」

 直貴は小声で言った。

 中庭には学生が徐々に集まり始めていた。

 花壇に囲まれた中央部は一段高くなっていて、建学の碑がある。今その横には小型の脚立が設置されていた。周りには手作りの黄色の旗が何本も突き出ている。マイクやスピーカーの準備に奔走する係の姿があった。

 まだ始まるまでに時間があるようだ。

 沢渕は直貴の真横に立った。

「その後、『市川』探しは順調に進んでますか?」

 周りに気を遣って、小さな声で訊いた。

 直貴は正面を見据えたまま、

「電話帳で町内に住む『市川』を洗い出したら、全部で二十数件あった」

「問題は電話帳に登録していない人ですね」

「そうなんだ。最近、特に若い人は載せていないケースが多い。だから実際はもっと対象者が増えると思う。それに中古の外車に興味がある読者ということを考えると、それは若者の可能性が高いんだ」

「なるほど」

「タキネエの車で一度町内を走ってみたんだが、単身者向けのアパートが結構多くてね。大学生もたくさん住んでいるようだ。電話帳に載っている一軒家よりも、むしろそういう集合住宅の方が該当すると思う」

「そうなると、捜索は難航しますね」

「そうなんだよ。おっと、どうやら始まるみたいだよ」

 壇上では推薦者と名乗る女子がマイク片手に話し始めた。

 突然、隣に身体を滑り込ませてきた者がいた。佐々峰多喜子だった。

「ああ、間に合った。ずっと沢渕くんを探していたのよ」

「よく、ここが分かったね」

「だって教室に鞄が置きっぱなしだったから、ピンときたのよ」

 多喜子は少々自慢げに言った。

 花壇の奥からゆっくりと歩いてくる女子の姿があった。上下とも学校のジャージで身を固めている。その堂々たる足の運びは、おそらくこの舞台の主役と思われるのだが、それにしても演説には不似合いな格好である。

「何じゃ、ありゃ?」

 背後からそんな声が降ってきた。

 三人が同時に振り返ると、いつの間にか、そこには久万秋進士が立っていた。柔道着姿で腕を組んでいる。

 沢渕は柔道着姿のクマを初めて見た。制服姿よりも確かに強そうに見える。足下を見ると何と裸足であった。

「クマさん、来てたの?」

 多喜子が顔を前に戻して言った。

「ああ、戦に勝つには、まずは敵を知ることが大事だからな」

「みなさん、こんにちは。この度、生徒会長に立候補しました、橘雅美と申します。本日はお天気の悪い中、私の演説会にお越しくださいまして、誠にありがとうございます」

 ジャージ姿の雅美は淀みなく話した。どうやら人前に立つのも慣れた様子である。聴衆一人ひとりを見回す度にポニーテールが踊った。

 演説の内容はスポーツや文化を通して学校を明るくしていこう、というものである。さすがに体操部のホープらしい発想である。部活動を盛んにして、地域や学校の交流を深めていきたいという夢を披露した。

「彼女、勉強の方はどうなんですか?」

 沢渕が訊いた。

「そうだねえ、来週にはこの前のテスト結果が公表されるけど、そりゃ森崎と比べたら、圧倒的な差がつくと思うよ」

「あっ、橘雅希先輩だわ」

 多喜子が黄色い声を上げた。取り巻きの女子からも声援が飛んだ。

 今、壇上に背の高い短髪の男子が飛び乗った。こちらはサッカーのユニフォームを着ている。今ボールが投げ込まれて、それを颯爽と両手で受け取った。

 同時に女子の大声援が生まれた。

「みなさん、今日は橘雅美の演説会にお集まり頂き、ありがとうございます。私は雅美の兄、雅希と申します」

 中庭はこれまでで最大の拍手に包まれた。

「私は身内ですから、自分の妹のことを褒めることはいたしません。ですが彼女の日常生活についてお話しすることで、彼女の芯の強さ、また人に対する思いやりを感じ取って頂けることと思います」

「何で兄貴が出てくるんだよ。あいつは関係ないだろが」

 クマが声を荒らげた。

「いいえ、関係あるわよ。兄妹関係」

 多喜子は視線を動かさずに言う。

「兄を担ぎ出して、女子の票を獲得する作戦かよ。やり方が実にセコい」

 マイクを通して、雅希の声が校舎に響き渡っている。いつの間にか、校舎の窓という窓は女子の顔が鈴なりになっていた。

「それなら、こっちにだって考えがある。おい、直貴。森崎の演説会には鍵谷先生を要請しようぜ」

 それには直貴が後ろを向いた。

「だが、どんな関係者として呼ぶんだい? まさか部のことは出せないんだよ」

「表面上は特別な繋がりがないから、まるで無関係ですよ」

 多喜子も付け足した。

「お前たち、どっちの味方なんだよ。万が一、橘が会長になったら、暗黒の学園生活になっちまうぞ」

 雅希の話がどうやら終わったようである。司会者にマイクを戻す間に、花壇の隅で雅美がジャージを脱ぎ出した。

「ん、一体何が始まるんだ?」

 クマは高い背を武器に彼女の動きを注視した。

 雅美はジャージを捨て去ると、白のレオタード姿に変身を遂げた。長い手足が彼女の動きに優雅さを与えている。

 いつの間にか通路にはマットが敷いてあった。一度深呼吸をすると、いきなり聴衆の前で駆け出した。

 細身のレオタードは勢いよく大地を蹴ると空中に身を投げ出した。まるで駒のように花壇の上を回転すると、見事なバランスで着地した。

 生徒からはどよめきが起こった

 そして両足をぴたりと床に着けると、今度はゆっくりと倒立姿勢をとった。そしてしなやかに上体を起こした。

 会場全体は惜しみない拍手に包まれた。

「くそ、観衆を前にして演技をやるとは」

 クマもこれには驚いたようである。

「よし、それじゃあ森崎の演説会では、俺が一肌脱いで柔道の形を披露するってのはどうだ?」

「そんなの、どこに需要があるんですか? むしろ先輩の評判を落とします」

 多喜子は珍しく強い調子で言った。

「あいつ、レオタードなんか見せびらかしやがって。それで男の票を集めようって魂胆だな」

「でも女子から見ても、とっても綺麗」

 多喜子がうっとりとした声で言う。

「あのなあ、タキ。お前まで洗脳されてどうすんだ」

 後ろから多喜子の背中を押して抗議した。

「そうだ。森崎も対抗して、メイド服でも着せたらどうかな?」

「いや、そういう方向には持っていかなくてもいいんじゃないか」

 直貴が慌てて遮った。

「それじゃ、タキ。お前の料理の腕で、『森崎まんじゅう』なんて作ったらどうだ?」

「私、おまんじゅうなんて作ったことないですよ」

「そんなの作ってどうするんだい?」

 直貴が勢いよく後ろを向いた。

「演説会でみんなに蒔くんだよ」

「いや、物品の供与は選挙違反だ。失格になってしまうよ」

 直貴は額に手を当ててうなだれた。

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