第12話 叶美の店番

 月曜の朝を迎えた。

 沢渕は鉛のように重い足に鞭を入れ、やっとのことで学校に到着した。校門をくぐり抜けると、突如前方に巨大な物体が現れた。まるで亀の甲羅のような背中、それはまさしく久万秋進士だった。

 沢渕は痛みをおして駆け寄った。

「先輩、おはようございます」

 クマは器用に首だけを後ろに向けた。

「何だ、晶也か。久しぶりだな」

「土日はお仕事大変でしたね」

 そんな言葉を掛けた途端、

「お前ね、そんな安っぽい台詞では、俺の疲労は取れないんだよ。分かるか? 肉体労働ってのは辛いんだ。武闘家のこの俺でさえ、全身が筋肉痛なんだよ。この痛みをメンバー全員に均等に分けてやりたいよ、まったく」

 クマは一気にまくし立てた。

「それで、何か収穫は?」

 その問い掛けに、クマの顔つきががらりと変わった。

「それなんだが、一軒怪しい場所を見つけたぜ」

 今の時間、次から次へと制服が押し寄せてくる。その流れは途切れることを知らない。二人は自然と校舎の脇に身を寄せる格好となった。

「怪しい、というと?」

「山の上にある別荘なんだ。人が暮らしている気配はまるでないのに、玄関先に新しい雑誌が束ねて出してあった」

「なるほど」

 沢渕は鋭い視線をクマに送った。

「どんな雑誌でした?」

「釣りとかキャンプとか、アウトドア系の雑誌が多かったな。森崎から貰ったリストにはないものばかりだ」

「その別荘って、大きいんですか?」

「ああ、人質を収容するには十分な広さだ」

「一応調べてみる価値はありそうですね」

 それほど確かな根拠があるとは思えないが、沢渕はねぎらいとしてそう言った。

 クマも満足げに頷く。

 すると突然、予鈴が鳴り始めた。

「おう、もうこんな時間か。それじゃあ、またな」

 クマが一歩踏み出したのを沢渕は慌てて制止した。

「クマ先輩」

「何だよ、まだ何か用があるのか?」

「あの、森崎先輩は元気ですか?」

 二人は確か同じクラスの筈である。

 クマは怪訝そうな表情を浮かべた。

「森崎がどうかしたのか?」

「いえ、先週体調が悪くて学校を休んだって聞いたものですから」

「あいつならピンピンしてるよ。週末も張り切ってみんなを仕切ってたぞ」

「それならいいんですが」

 沢渕の心に立ち籠めていた暗雲が一気に消え去った。ひょっとして叶美は悩んだ末、部長を辞めてしまうのではないか、そんな不安がどこかにあった。それはどうやら取り越し苦労だったようだ。叶美はいつもの自分を取り戻したらしい。

「おい、何でお前が森崎の身体の心配してるんだよ」

 大きな手が沢渕の肩にのし掛かる。

「先輩、そんなことより予鈴が鳴り終わりましたよ。急ぎましょう」

 すっかり誰もいなくなった通路を、今度は沢渕が先に駆け出した。さっきまで重かった足が今は軽く感じられた。


 ホームルームぎりぎりに教室へ駆け込むと、誰かの強い視線を感じた。

 佐々峰多喜子である。

 彼女の顔からは、いつになく高揚した気分が見て取れた。何かを伝えたくて仕方がないといった雰囲気だった。

 昼になって、沢渕は食事そっちのけで数学の宿題に取り掛かった。今日の日付は自分の出席番号と大いに関連性がある。数学教師の日頃の行動パターンからして、授業中当てられるのは必至だった。

 そんな中、背中を遠慮がちに叩く者があった。顔を上げると、案の定多喜子だった。

「沢渕くん、ちょっといい?」

 彼女の目は輝いていた。事件について何か掴んだことがあるのだと直感した。

「別にいいけど」

 実のところ、数学の宿題が気掛かりだったが、真剣な眼差しをした多喜子の誘いをはねつける訳にはいかなかった。

 多喜子の後をついて行くと、階段をどんどん上がり、ついには屋上の出入口まで辿り着いた。扉には日頃から鍵が掛かっていて、開けることはできない。周りの空気は行き場を失って、頭がぼうっとするぐらいに熱せられていた。

 多喜子は階下に誰もいないことを確認すると、突然身体を弾ませた。

「沢渕くん、また出てきたのよ」

「何が?」

「例の古本屋から別の雑誌が見つかったの」

「またメッセージかい?」

「そうなのよ、もうびっくりしちゃって」

 多喜子は興奮を抑えきれない様子である。全身を大袈裟に動かして語り掛ける。

「詳しく聞かせてよ」

「昨日は朝からずっとお姉ちゃんと一緒に、あの本屋でリストに載っている雑誌を片っ端から探してたのよ。でももう売れてしまったのか、ほとんど見当たらないの。見つけても何も書いてないし。

 夕方、諦めてもう帰ろうとして、最後の最後に新刊の棚に目を向けたのね。そうしたらリストの雑誌が置いてあるじゃない。誰かが読んだ後に、どうやら間違えて戻したらしいの。期待せずに中を調べたら、例の暗号が出てきたのよ」

「それはどんな本だった?」

「外国の車ばかりが載ってる本。中古車の情報誌みたい」

「中には何て書いてあった?」

 沢渕は勢い込んで訊いた。

「カタカナで『ユウカイ』って」

「イニシャルは?」

「前と同じ。二つともあったわ」

 これは重要な発見である。前回は一般的な女性雑誌。今回は外車専門の中古車雑誌。こちらは随分と特徴のある本である。犯人像を絞り込むのに役立つかもしれない。

「よくやったね」

 沢渕は心から多喜子を褒めた。

 彼女は少し照れた様子だったが、それでも誇らしく胸を張った。

 そこで休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 数学の授業で、沢渕が見事砕け散ったことは言うまでもない。


 放課後、沢渕は運動部の掛け声に押し出されるように学校を後にした。自然と商店街の方へ足が向いた。この頃になると足の痛みは大分治まっていた。

 カラオケボックスの前までやって来た。店番をしている奈帆子と話をしようと一時は考えていたのだが、結局店の前は通過した。ふと森崎叶美の祖父がやっている喫茶店を思い出し、細い路地へと分け入った。

 多少道に迷いながらも、沢渕は見覚えのある古びた喫茶店の前に出た。

「いらっしゃいませ」

 木製の扉を開けると、出迎えてくれたのは明るい女性の声だった。それは予期せぬものであった。

 店内には客は誰もいなかった。カウンターの奥に目を遣ると、黄色のエプロンを着けた女性が立っていた。毛先がやや上に跳ねた短い髪の少女。彼女が森崎叶美だと気づくのに少々時間を要した。

「沢渕くん!」

「森崎先輩?」

 店には叶美一人きりだった。祖父の姿はない。

「驚いたでしょ。今日は私、留守番なの」

 叶美は照れくさそうに言った。

「いつまでも立ってないで、座ったら?」

「はい」

 沢渕は彼女と向き合うように腰を下ろした。

「おじいちゃん、町内会の会合に出掛けてるの。それで私が代わりに店番してるって訳」

「先輩に代理が務まるんですか?」

 制服の上にエプロンを羽織った臨時店長に向かって、意地悪な一声を投げかけた。

「随分と失礼なお客さんですね。ご注文をどうぞ」

「それじゃあ、チャーハン」

 沢渕は壁に貼られた数々の短冊の中から、一番左端のを声に出してみた。

「ごめんなさい。今、ご飯を切らしていまして、別の物にしてくださいな」

「そうですか。じゃあ、サンドイッチで」

「あら、残念ですわ。ちょうど食パンを使い切ってしまったところなんです」

「それなら、お好み焼き」

「申し訳ございません。あいにく小麦粉がどこにあるか分からなくて」

「先輩、まったく何にもできないじゃないですか」

 沢渕は指摘した。

「いいえ、そんなことないですよ。コーヒーだけはお任せください。それになさいますか?」

「仕方がないですね。それにします」

「毎度」

 叶美は笑いをこらえて、用意を始めた。

「先輩、本当に客がやって来たらどうするつもりなんです?」

 彼女の背中に声を掛けた。

「それが問題なのよね。でも、おじいちゃんが言うには、どうせ近所の人しか来ないし、今は町内会の会合で誰も来ないから大丈夫だろう、って」

「なるほど」

「でも、本当のお客さんが来たら、もちろんお断りするつもりよ。だってコーヒーしか出せないんだもの」

「それじゃあ、僕はどうなるんですか。本当のお客じゃないんですか、僕は?」

 沢渕はやや怒ってみせた。

「あら、あなたはお客さんじゃないわ。沢渕くんだもの」

 叶美は笑って言った。

 沢渕の心には安堵感が広がっていた。目の前にいるのは、いつもの森崎叶美である。一時はどうなることか心配したが、心の迷いを断ち切ることができたようだ。

 カウンターの奥でひたむきに仕事をする叶美に、沢渕は何度も目を奪われた。短くまとめた髪は活発な彼女によく似合っている。彼女は美しさと、今新たに意志を貫く強さも手に入れたように思えた。

「そんなにじろじろと女の子を見るものじゃないわよ」

 叶美が横を向いたままそう言った。沢渕は慌てて目を逸らした。

「はい、お待たせしました」

 カウンターの上にコーヒーが置かれた。

「さすがにお料理はタキちゃんみたいにはいかないわ。でもね、コーヒーだけはちゃんとおじいちゃんに教わったのよ」

 彼女の淹れたコーヒーは普通に美味しかった。

「ね、イケるでしょ?」

「はい」

 叶美はカウンターの外へと出てきた。エプロンを外し、髪を両手で整えた。それから沢渕の隣に腰掛けた。顔はまっすぐカウンターの奥に向けられている。

「何だか久しぶりね」

 彼女は頬杖をついて言った。

「そうでしたか?」

 とぼけて返す。

「実は一週間ぐらいのことだけど、随分と長く感じたわ」

 沢渕は黙ったまま、コーヒーを一口飲んだ。

「あの日、あなたから色々と言われたでしょ。悲しいというより、正直悔しかった。何故なんだろう。後輩に痛いところを突かれて、立つ瀬がなかったのね」

「あの時はすみませんでした。出しゃばったことを言って」

 沢渕はすかさず謝った。

「ううん、いいのよ。それでね、何と言うか、うまく言えないけど、あなたに負けたくないっていうか、対等な立場でいたい、そんな気持ちだったの」

 沢渕は叶美の横顔を見つめた。ショートヘアーが新鮮に目に映る。

「タキちゃんには、事件が全て片付いてから打ち明けようと思う。それまでは封印しておくわ。その時どんなことになろうとも、全てを受け入れるつもり。だって、事実はどうやっても変えることができないもの。それが私の出した結論」

「先輩が翌日学校を休んだって聞いた時は不安になりました。もしかしたら僕のせいで、悩んでいるのかな、って」

「あら、心配してくれたの?」

 叶美は椅子を回転させて、沢渕の方を向いた。

「ええ、まあ一応」

「でもね、実はその日は学校をサボって、髪を切りに行っただけなの。予約なしで行った初めての美容院で、ばっさりやって下さい、ってお願いしたら、店の人は驚いて何度も確認してた」

 叶美はその時のやり取りを思い出したのか、くすくすと笑い始めた。

 沢渕もつられて笑った。

 心底嬉しくなった。叶美は強い女である。探偵部の部長として最後までこの仕事をやり遂げるだろう。

「それで、この髪型について、何かご感想は?」

 叶美は両手で短い髪を持ち上げるようにして訊いた。

「いい、と思います」

「それだけ?」

「実は多喜子さんから、おかっぱ頭と聞いていたので、実際見るまで怖かったのです。コケシみたいな、とんでもない髪型だったらどうしよう、と」

「何よ、それ?」

「でも実物を見たら、自然な感じで安心しました」

「そんなお世辞言っても、コーヒー代はちゃんと頂きますからね」

 叶美は照れを隠すように、わざと口を尖らせた。

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