第9話

「アンナ、そろそろ仕上げの全身パックにはいらないか? そろそろ満足しただろう」

「う、うむ……もうそんな時間か」

 顔を薔薇色に上気されたまま、アンナは少し残念そうに呟く。

 散々に屈辱だの殺せだのほざいていたのは一体何であったのだろうか?


「しかし、えらくウチのトレーニングメニューが気に入ったようだな」

「うむ……何か、魂の奥が満たされたような気がする」

「……そうか」

 やっぱりこいつが何を考えているかはよく理解できない。


「ほら、行くぞ。 早くしないと、時間切れになる」

「そ、それはまずいな……ただ、ちょっと力が入らないから、肩を貸してくれないか?」

「やれやれ、仕方が無いな」

 俺は汗にまみれた薄い衣装しか身に着けていないアンナから視線をそらしつつも、その体を抱きかかえるようにして更衣室に運んでやった。

 そして近くを通りかかった侍女たちに事情を話し、アンナの着替えを手伝ってもらう。


「ま、待たせたな。 では、全身パックに向かうとしよう」

「おいおい、足元がふらついているぞ? 大丈夫か」

「し、心配ない。 少しはめを外しすぎただけだ」

 俺はなぜか職務放棄に入っている侍女たちに見送られながら、アンナを引きずるようにして全身パックのブースへと足を向ける。


 自由時間に入ってはや三時間。

 だいたいの目的を終えたのか、仕上げである全身パックに挑戦する客がちらほらと増え始めた。

 その誰もがニコニコと満面の笑みを浮かべており、満足度はかなり高いらしい。


 ちなみに我が領地で使うパックは、泥パックというやつだ。

 材料は大まかに分けて三つ……治癒の魔力を秘めた野薔薇から抽出したロスレインオイルと、聖油を作る際に副産物として生まれるフラワーウォーター、そしてこの土地で産出するモンモリロナイトという青い粘土である。


「フラワーウォーターは好きなものを選べるのか。 わたしはこれがいいな」

 アンナが選んだのは、オレンジの花から絞ったネロリという最も高級な香りのフラワーウォーターだった。

 無意識ではあろうが、ごく自然に高いものを選ぶのはさすがである。


「では、バスローブを脱いでベッドの上で横になってください。

 あ、クラエスさんは部屋の外へお願いします」

「そうか、わかった」

 今後の参考のために見学をしたかったのだが、施術担当のミノタロウスの女性からすげなく追い払われた。


 なお、技術者の手によって全身を暗灰色に染めた被験者は、保湿状態を維持するために低温サウナにはいる。

 なお、サウナに使うミストはオークの調香師が水の精霊の診断結果を元にその都度フレーバーを調合するという、かなり贅沢なシステムだ。


 おそらくウチのやり方を真似しようと思うところはあるだろうが、まぁ採算は取れないだろうな。

 そもそも、野卑と蔑まれているオークを調香師として育てること自体が予算的に不可能だろうし、精霊という医術的な指導を行う人材も必要なのだ。


 なお、水の精霊の診断によると今日のアンナの体調は、運動のし過ぎで疲労状態。

 ラベンダーの香りで少し落ち着かせたほうが良いとの判断である。


「さてと、アンナはしばらくこのまま動かないから放置するとして……

 他のブースの見回りにでも回るか」

 暇になった俺があと一時間何をしてすごそうかと考えていたのだが、そのとき遠くからすさまじい悲鳴が響き渡った。


「やめるでしゅ! 何をするでしか!?

 我輩を誰だと思っているでしょ! 離せ、無礼もにょー!?」

 この滑舌の悪い妙な口調はブタ伯爵ハンヌか?


 声の発生源は、どうやら痩身エステのブースからのようである。

 ちなみにうちの痩身エステは、ミノタウロスの女たちと精霊たちによるマッサージだ。

 ミノタウロスの施術者が丁寧に体をほぐしている間に火の精霊が余分な脂肪を溶かし、水の精霊がそれをすべて排出させる……というと簡単に聞こえるかも知れないが、それを人体に負荷をかけずに行うとなると恐ろしく高度な医療技術が求められるらしい。


 なお、俺も一度受けてみようとしたのだが、筋肉ばっかりで体脂肪が少なすぎるから危険だとマルックさんにドクターストップを掛けられた覚えがある。

 なんでも、体に筋肉しかなくなると、全身のエネルギーが不足して餓死する恐れがあるらしい。


 さて、大騒ぎをしているブタ伯爵であるが……見れば、奴の両横をアーロンさんとマルックさんという我が領地における二大精霊ががっちりとホールドしていた。


「た、たしゅけるでしゅ! クラウス・レフティネン! ち、ちぬ! ちぬぅぅぅぅぅぅぅ!?」

 俺の姿を見つけると、ハンヌは目から涙を流して助けを求めた来た。

 たしかに、身長三メートル近いマッチョな巨人二人に捕獲されればそうなるよな。


 ちなみに、アーロンさんとマルックさんだと、実はマルックさんのほうが強面である。

 なんというか……目つきがものすごく冷たいんだよな。

 俺には優しいけど。


「何を言ってらっしゃるのかは存じ上げませんが、その二人はこの領地で一番の施術者です。

 せっかくですので、閣下には彼らの妙技をじっくりとご堪能いただければと思います」

「いーーーーやーーーーー!?」

 ブタ伯爵は、精霊二人に横から腕をつかまれたまま、問答無用で施術用の部屋に引きずられていった。

 実に暑苦しい絵面である。


 そして、自由時間である四時間が過ぎた。


「みなさん、当領地の施設はご満足いただけましたで……はて、そちらの方はどなたでしょう?」

 気がつくと、スパを堪能しすぎて顔がフニャフニャになっている一行の中に見覚えの無い儚げな美少年がいる。

 男であるにもかかわらず抱きしめれば折れそうなほど細い体、眉にかかるほどの長さで切りそろえられたマッシュルームカットは月の光のようなプラチナブロンド。

 長いまつげに彩られた目は、ブルートパーズのように鮮やかな青である。

 彼が白薔薇の精だと言われたら、誰もが笑いながらも『ひょっとして?』と心の中で思ってしまうほど、その少年は幻想的な姿をしていた。


 だが、彼が口を開いた瞬間……我々は本日最大の衝撃を味わうことになる。


「ふふっ、何をいっているのですかクラエス・レフティネン。

 主の顔を忘れるとは、無礼にもほどがあるのですよ」


 誰もが押し黙り、遠くからサウナの蒸気の吹き上がる音がしゅわしゅわと響いた。

 まさか……こいつは……だが……しかし……いや、たしかに特徴は一致しているのだが……奴は俺と同じ歳だし、口調が明瞭……いや、それは余計な肉がなくなったからで……。

 ダメだ、現実があまりにも衝撃的過ぎて受け入れがたい!?


「ハンヌ……伯爵……閣下?」

 だが、俺が勇気を持って恐る恐る尋ねた言葉に、その美少年はやけに色っぽく微笑んだ。


「あたりまえです。 他に誰がいるというのですか?」

 奴の後ろでドヤ顔のアーロンさんと腕を組んで微笑んでいたマルックさんが、俺の視線に気付いたのかそろって親指を立てる。

 やりすぎだ、あんたら!!


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「あひゃあぁぁぁ!? こ、これは……夢だ! 夢でござる!!」

 ほら、会場の皆様もパニックになっているじゃないか!!

 この責任、どうとるつもりなんだよ! あっ、二人とも逃げやがった。


「クラエス、このスパ本当に一般公開していいのか? 私はなんだか恐ろしくなってきたぞ」

「奇遇だな、アンナ。 俺も今、同じことを考えていたところだ」


 なお、伯爵が元の体系に戻るまで一ヶ月しかかからなかったという。

 ただ、それまでの間に美少年化した彼の存在がこの領地のスパに関する最大の広告となったのは言うまでもない。

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