第三章 盤上遊戯へのお誘い

第1話

 俺の毎朝は、日課のトレーニングから始まる。

 小説家たるもの、いつどんな過酷な場所へと取材に行く必要があるかわからない。

 ゆえに、場所へも取材に赴くことも可能であるように、普段から鍛えておくことが大切なのだ。


 そして夜が明けてすぐの軽いランニングをこなして帰ってくると、玄関でレッドオーガ……じゃなくて、俺の私物であるレッドオーガの標本に取り付いた精霊が、ボクシンググローブを持って俺を待ち構えていた。


「ボクシングって事は……今日の相手はアーロンさんか」

 俺の言葉に、レッドオーガの頭が楽しそうな様子で上下に動く。

 残念なことに、標本なったレッドオーガの喉はつぶれているため、声を出すことは出来ないらしい。

 なお、精霊たちにも色々と個性があり、ボクシングで勝負を挑んでくるのはいつもこの喧嘩好きな火の精霊だ。


「あ、帰ってきたんだぁ。 報告書いくつかきているよぉ?」

 俺がレッドオーガの手にバンテージを巻いていると、エディスが間延びした声とともに何枚かの書類を抱えて二階の窓から顔を出す。


「あぁ、アーロンさんの相手しながら聞くから、そのまま読み上げてくれ」

 自分の拳にグローブをはめ込むと、俺は裏庭に作った簡素なリングに上がりながらエディスに報告を促した。

 ……なにせこの領地に住んでいる人間は俺一人であるし、外へと続く唯一の道はほかの精霊たちが昼も夜も監視している。

 情報の機密性を考える必要はまったく無い。


「えーっと、まずはカカオの栽培に関する報告だよ。

 やっぱり、全滅したみたい」

「やっぱり……そう、か!」

 アーロンさんの左ショートフックをかいくぐりながら、俺はマウスピースをはめたままのくぐもった声で返事を返す。

 くっ、さすがにこの巨体から繰り出される一撃はしゃれにならんな。

 ガードなんてとんでもない。

 下手に一発受け止めたら、そのまま腕がへし折れるぞ。


「えーっとね、カカオは精霊の力に満ちたこの土地で無いと発芽しないと思われるが、同時に精霊の力のバランスも問題らしく、ほかの聖地に植えた種にも発芽の兆候は見られないそうだよ」

 エディスが報告書を読み上げる中、俺はアーロンさんの巧みなジャブの連打でコーナーに追いこまれていた。

 くそっ、あいかわらず強い!

 なお、今までの戦績は2勝8敗。 圧倒的に俺が負け越している。


「それとねぇー まだ何人かこの地に移住希望の学者がきているみたいだけど、全員背後の関係者に問題ありだってさ」

 なるほど、連中はまだあきらめていないようだな。


 カカオのお披露目以降、あらゆるルートをたどって植物学者がこの地へと押し寄せようとしているが、背後の軍閥が恐ろしいのですべて断っている。

 ましてや他国の学者などもってのほかだ。


「最後の報告だけど、王女様がまたこっちに向かっているって。

 名目はチョコレートの開発の進捗確認って話だけどねぇ……んふふふふふ」

 チョコレートとは、軍で使う携帯の食品である。

 意味は知らないが、名付けの親はハンネーレ姫だから、またロマンチックな名前をマイナーな言語から拾ってきたんだろう……って、ま、まずい。

 やられる!?


 さばき損ねたアーロンさんの右ストレートをくらい、俺はフラフラとロープに背中を預けた。

 さらにすかさず距離をつめてたアローンさんの左フックが俺の横っ面を殴り飛ばし、俺は思わず膝をついてしまう。

 この戦いを見ていた風の精霊が、カラスの体を借りてカウントを取り始めた。


 なんとか十カウント前に立ちあがったものの、状況はかなり悪い。

 再びアーロンさんの拳がうなりを上げ、右ボディ、左ストレート、右アッパーと、力任せの大降りの攻撃を次々にくらい、俺は再びリングの上で大の字にひっくり返った。


 なんとかロープにすがり付いてカウント8で立ち上がったものの、すでに勝敗はつきかけている。

 く、クリンチで逃げないと……ふたたび襲い掛かってきたアーロンさんの攻撃の手なんとかかいくぐって抱きつこうと腕を伸ばすが、それを見越してアーロンさんの巨体がひょいと後ろに下がり、逆にすばやいジャブが俺の顔面を叩く。


 だ、駄目だ、またダウンする……。

 三回目のダウンはTKO負けというのが俺たちのルールだ。

 もう、後が無い。


 膝から崩れおちそうになる俺を見て、アーロンさんが容赦なくトドメの一撃を加えようと好きの無いショートフックを放つ。

 恐ろしく隙の無い、アーロンさんのフィニッシュブローだ。

 だが、その展開を読んでいた俺はとっさに身をかがめてその一撃を薄皮一枚のところでかわすと、アーロンさんの後ろに足を引きずりながら回りこむ。


 くそっ、膝が笑って言うことを聞かない。

 だが、次の瞬間である。

 俺の姿を見失って振り返ったアーロンさんの顔ががら空きになっていた。


 おまえ、勝ちが見えたせいで油断したな!?

 ――その、デカい顎、ぶっ壊してやる!!

 後の事を考えない、渾身の右フック。

 ここで決められなければ次は無い。


 俺の拳がアーロンさんの顎の先端を捉え、悲痛な表情とともにレッドオーガの巨体が崩れ落ちる。

 ……たのむ、立たないでくれ。

 これでしとめられなければ、もう俺に闘う力は残っていない。


 だが、俺の祈りもむなしくアーロンさんは3カウントで体を起こし、にやりと笑いながら立ち上がる。

 ――俺の負けか。 悔しくはあるが、後悔は無い。

 つよいな、アーロンさん。


 しかし、アーロンさんが拳を構えて前に出ようとした瞬間だった。

 ……ズルっとパナナの皮でも踏んづけたようにアーロンさんの体が再び崩れ落ちる。


「……アーロンさん?」

 何度か起き上がろうとするのだが、足に力が入らないのかアーロンさんはダウンを繰り返した。

 気がつくと、リングの上にひっくり返ったアーロンさんの目から涙が零れ落ち、互いの脳裏に試合終了のゴングが鳴り響いた。


「ごめんな、アーロンさん。 でも、俺も負けるのは嫌なんだ」

 俺はよろける足で冷えたココアの入った水筒を手に取りにゆき、声も無く泣き崩れるアーロンさんの隣に腰を下ろす。

 体力回復剤であるココアを二人で回し飲みすると、殴りあいで傷ついた体はみるみる癒されていった。

 ほんと、便利な薬だ。


「ん? なんだアローンさん」

 気がつくと、アーロンさんが笑いながら俺に向かって拳を突き出していた。

 いい試合だったなということだろうか?

 それとも、またやろうという意味だろうか?

 俺もまた笑顔でその拳に拳を打ち合わせる。


 うん、こういうのも悪くない。

 あの小説の次のシーンに、このシチュエーション使えないかな?

 俺が傷を癒しつつ、闘う男の友情について考えていた……そのときだった。


「あ、そうそう。 言い忘れてましたぁ。 なんか、こっちに怒り狂ったブタが近づいてきているそうですよぉ?」

 エディス! お前、このタイミングでそれを言うか!?


 あぁ、たぶんハンヌ伯爵だ。

 おそらく先日のアンナの誕生会でのことで文句を言いにきたのだろう。


 俺は空気の読めないエディスの顔面を粉砕することを決意しながら、ブタ伯爵を迎える準備を始めるのであった。

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