なつ

 好き。


 という言葉は嫌い。

 嘘。

 嫌い、嫌い。


 天井が歪んで見える。汚れた黄色の天井。掃除をしたのはいつだったかな。揺らぐ視線に、思考も揺れ動く。息が切れるまで、こうしてお湯に全身を浸かっていたい。穏やか鼓動に合わせるようにお湯が揺らぐ。揺らいで、天井が歪む。ポッと音を立てて、息を吐きだした。その息はすぐ水面にぶつかり、消えてしまう。

 やがて苦しくなってお湯から顔を出した。お湯の跳ねる音、少し乱れた呼吸、速くなっている鼓動……どうしてこんなに耳障りなんだろう。窓の外から焼き芋を売る声が聞こえる。もう一度潜ろうかと思ったが、一日に一度だけと決めている。

 立ち上がるとそのまま浴室を出て、鏡に映った自分を見つめた。濡れた髪が肌にくっついていて、まるで幽霊のようだ。

「瑞樹って幽霊みたい」

 誰に言われたのか、もう覚えていない。遠い学生の頃の記憶が不意に頭をかすめた。髪の毛の間から濡れた瞳が自分を見つめている。

「幽霊みたーい」

 心の中で大きく怒鳴った。

 バスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かし、その後でパジャマを着た。実家から持ってきたパジャマで、高校の頃から愛用しているものだ。袖が傷んで伸びてしまっているけど、ずっと捨てられないでいる。薄れた赤色に白のストライプがいくつも横に走っている。胸の部分に描かれているのは、豚のような猫だ。下に英語でキャットと書いてある。そう書かれているから、多分これは猫なのだろう、という程度だ。好きなのかもしれない。嘘。もし聞かれても、嫌いと答えるだろう。

 洗面所から出て、まず冷蔵庫を開けた。伸びた手に握られたのはビールだ。最近この一杯が止められない。缶を頬に当てると火照った体に気持ちが良かった。場所を移動して、フローリングの床に直に座った。傍らに置かれたままのリモコンを取りテレビをつけるとニュース番組がやっていた。名前は知らない。

 今朝未明、火事があったらしい。チャンネルを変えずにリモコンを持った手が止まったのは、知っている地名が出てきたからだ。知っていると言っても知らない。となり町の話だ。同じ時刻頃に同じ道路沿いでボヤ騒ぎが二件続いた、警察は放火の疑いもあると見て捜査している、重傷者一名を含む……。

 ビールの喉越しは筆舌に尽くしがたい。何も見えなくなる、何も聞こえなくなる。この感覚が好きでたまらない。大学に入った頃ビールなんて飲めなかったことをふと思い出したが、考えてみればまだ成人していない。そんな思考もすぐに記憶の底に沈んでいった。

 すでにビールは空いていた。十四インチのテレビからは明日の天気が流れている。天気予報は信じないことにしている。別に理由はない。リモコンを適当に押していると聞き慣れたポップスが流れてきた。女性三人のユニットで最近よくメディアに映されている。まだ高校生くらいだろうか。時々アップに鳴る顔には似合わない化粧がされている。どうでもいいことだ、考えるのも億劫だ。目を瞑り曲に意識を合わせる。

 ……なぜと言われて、走りだして、

 君の胸に飛び込んだ時の

 笑顔きっと忘れない、だって

 夢はきっと叶うから、そして

 ぼくたちは進んでいけるの。

 Baby, it’s show time for you

 ぼくのすべてを、受け止めて

 離れていくときを、受け止めて

 ぼくたち、進んでいるから……


  ・


 翌日……といっても、いつの翌日なのか分からない。毎日が同じ日常で、昨日と今日の間に何の違いもない。変わらない日々の、少しだけスパイスが効いた日……だから、翌日というよりもその日、と言ったほうが正確なのかもしれない……、いつものように同僚に誘われて居酒屋に来ていた。職場から地下に降りて駅の途中にある赤ちょうちんの似合う居酒屋だ。明日が週末の夜は、だいたいこのメンバーで出かけている。それさえも毎週変わらない、習慣だ。買い物の時もあるし、今日みたいに飲み屋に繰り出すこともある。

 店内はかなりの賑わいを見せている。サラリーマン風の中年男が並んでカウンターに座り、また座敷には大学生の集まりだろうか、けたたましい音を響かせながら次々にジョッキを空けている。

「うへー、腹減ったぁ」

 京ちゃんは座るなり舌を出してテーブルにぐたっと倒れかかった。さらさらの髪が羨ましい女の子だ。ほっそりとした顔立ちに細い目と眉。鼻も申し訳程度に小さくついている。その鼻先まである前髪を七三で左右に分けている。留め金のオレンジ色が彼女の唯一のおしゃれだ。毎日その色が変わっている。

「とりあえず飲み物頼もうよ」

 隣りに座った松江さんはメニューを広げてドリンクを探した。京ちゃんに比べると恰幅のある女性だ。丸い顔に丸いメガネをかけていて、職場の人は丸ちゃんとひそかに呼んでいる。下の名前は由佳で、丸なんてどこにもついていない。職場でされるうわさ話に松江さんは気がついてない。だいたいいつも松江さんはそんな調子だ。よく言えばおっとりしているのだろう。肩ほどまでしかない短めの髪はくせがあるようで、丸い顔を一層強調している。

「あたし生ー」

「私はメソポタミアンレイディーにしよ」

「何それ?」

「オリジナルカクテルらしいよ」

「えー、似合わなくない? ここってかなり和風じゃん」

「みっちゃんは?」

「とりあえずビールかな」

 おてふきと乾き物を運んできた軽そうな和服を着た女性に、松江さんは飲み物を注文した。

「枝豆と……豆腐のからし味噌和え?」

「厚焼きの卵焼きあります?」

 それぞれが勝手に料理を注文していく。いつもそんな感じだ。横目でメニューを見ながら、適当にオーダー。写真の雰囲気だけで料理名は合っていないかもしれない。律儀な松江さんだけが、メニューをじっくり読み、時に店員に料理の内容を確認しながら頼んでいく。

「とりあえずそれだけで」

 メニューをしまいながら松江さんが女性の店員に軽く頭を下げた。彼女は少々お待ちくださいとお辞儀をすると、奥へ下がっていった。

「それで今日部長がさぁ」

 適当に相槌を打つ。

「もうギトギトの笑顔。下心丸見えで話しかけてくるの。こっちは仕事してるっていうのにねぇ」

「部長は誰にでもそうだよ。あの笑顔はちょっとあれだけど」

「そうそう、あたしも新人の頃から目をつけられてる気がする」

「ああでも、みっちゃんはお気に入りな気がするなぁ」

「えー、やめてよう」

 会社からそう遠くない居酒屋だ。もしかしたら同僚がいるかもしれないが、お酒が入っている場でそんなことはどうでもいいことだ。それにきっと許容範囲だろう。一週間も仕事をすれば、それなりに愚痴も貯まるというものだ。ぐいっと一杯目のビールを空ける。


 ・


 そこから先のことはよく覚えていない。いつものことだ。意識が戻ると大体日が明けている。ちゃんと自分の部屋で、パジャマに着替えていて、目が覚めると、朦朧とした景色が浮かんでいる。二日酔いは毎週のことだ。頭を軽く抑えながらバスルームへ移動すると、浴室に湯を溜め始めた。

 ステンレスにぶつかり激しい音を出していた水も、やがては水に飲み込まれていき、心地の良い音へと変わっていく。そこまで見届けてからバスルームを出ると、ドアに付けられたポストから一枚のハガキが投げ込まれていることに気がついた。屈みながらそれを拾い上げる。

「結婚することになりましたー」

 と、ピンクとレッドの曲がった書体で大きく書かれ、その下に二人の写真。左下に地図とその右に日時。さらにその下にブルーのペンで書かれた「久し振りだね、元気してる? ぜひぜひ来てね」の文字が踊っている。

 慶太くんとやっちゃんだ。慶太くんとは幼稚園から高校まで同じだった。実家も近い。中高と吹奏楽に入っていた。その吹奏楽でやっちゃんと出会ったんだ。やっちゃんとは市が違うけれど、高校で友だちになった。同じクラスの、最初の席が隣同士だったのがきっかけで仲良くなって、よく駅までの帰り道の途中にある雑貨屋に一緒に寄り道をしていた。几帳面でおしとやかなお嬢さんだったような気がする。いたずら好きで冗談が好きだった気もする。どちらも彼女の一面だし、どちらも可愛らしくて一緒にいて眩しかった。二人が付き合いだしたのは大学に入る直前、別々の大学に決まって離れ離れになると分かってお互いを意識し始めたからだとやっちゃんは教えてくれた。離れ離れと言っても、同じ県内の大学だったけれど。

 はがきを手に持っていると、様々な情景が次々と浮かんできた。慶太くんの困った顔も、もちろんそれ以外のことも。はたと気がついて、バスルームに戻ると浴槽いっぱいにお湯が溜まっている。はがきを部屋のタンスの上に置き、再びバスルームに戻ると急いでパジャマを脱いだ。

 シャワーを浴びて、すぐに浴槽に飛び込む。合わせるように浴槽からお湯が溢れていく。結構な量だ。少し溜めすぎたかな、と思ったけれど、それも一瞬のこと。

 浴槽はあまり大きくない。両足を抱えるようにして上を向くと、薄い黄色をした天井が見えた。そのまま体を後方に預け、全身をお湯の中に沈めた。


 好き。


 という言葉は嫌い。

 嘘。

 嫌い、嫌い。


 デビュー曲だっただろうか。そんなに音楽を聞く方じゃない私でも、そのフレーズだけは頭にこびりついている。好きだけど、嫌い。嫌いだけど、好き。まるで見透かされているようで、嫌いな言葉だった……だから、好きなのだろう。

 体を動かし、それでも静まり返った水の中で、喉から一欠片の空気を吹き出した。それは泡となり、お湯の中を広がり上へと昇っていく。

 泡の中に私がいた。頭が強調されていて、他の部位は奥の方に小さく歪んでいる。目が中央に寄り、のっぽりとした顔。泡の中の私は、私を見ていた。強調された目が、ゆらゆらと私を見つめている。ぽんっと、お湯から出ても泡はまだ上へと昇っていく。ゆらゆらと左右に揺れながら、十五センチほどの大きさになり、その中から次第に遠くなっていく私を、私が見下ろしている。全身をお湯に浸かっていて、髪がゆらゆらと揺れている。ゆらゆら、ゆらゆらと。幽霊みたいと誰かが言った言葉は、うん、結構正確な描写かもしれない。泡がくるりと回ると、視界は一変した。小さな窓を抜けだして、泡の中の私はそのままゆらゆら揺られながら外へ繰り出す。朝焼けが遠くに見えて、泡も朱色に染まっている。泡に捕らえられた私は両の手を伸ばしてみるが、泡の膜に隔てられて自由に動けない。くるりくるりと泡は回転を繰り返し、さらに高く昇っていく。泡の中の私はふと、ああ、私は泡の中にいるのだと考えた。

 ぱんっと泡が弾けた。

 私は空に投げ出された。

 何も身に付けず裸のまま、落ちていく。

 絶望と快楽の狭間。


 頭を上げて激しく息をする。髪の毛が肌にまとわりつき、あふれるようにお湯が顔を縦断する。妙に早い鼓動がひどく耳障りだ。立ち上がり、そのまま湯船から出た。


 それから泡に包まれて外へ行くことが日課に加わった。それだけのこと。時に松江さんの家まで遊びに行き、時に遠く、東京まで足を伸ばすこともあった。空の上まで飛んでいった時は、月まであと少しで手が届きそうだった。ゆらゆらとゆられて気持ちが良かった。


 ・


 翌日……もしかしたら去年のことかもしれない、とてもスパイスの効いた日……、いつものように京ちゃんと松江さんとバーに来ていた。地下鉄から地上に出て、歩いてニ、三分のところにあるサンパルカというバーで、その日が初めてだった。居酒屋が立ち並ぶ中で、場違いといえば場違いかもしれない。

「とりあえず生ー」

 京ちゃんが席に座るなり言った。

「ビールにもいろいろ種類があるみたいよ。ほら、トマトが混ざってるのとか」

「えー、いいよ、普通のビールで」

「わたしもビール」

「そう? じゃあカルアミルク頼もうかな」

 松江さんはビールが苦手らしい。いつもカクテルとかワインとか、その中でもアルコール度数の高いものを頼む。けれど、アルコールには三人の中で一番強い。

「やっと今週終わったねー、最悪ぅー」

「どうしたの?」

「だってさぁ、先週言ったじゃん? けんかしてて、明日約束ないんだよぅ」

「宗次くん?」

「そうよぅ。もう本当最悪ったら最悪なのよ。今日は飲むぞ!」

 そう言った京ちゃんのグラスはすでに半分が空いていた。

「よし。今日は付き合うぞ。とことん飲もう。みっちゃんは、明日大丈夫?」

「大丈夫だよ。あれ? 明日って何日だっけ?」

「みっちゃんてば、もう酔ってるの?」

「大丈夫、大丈夫」

「明日は二十四日だよ、大安吉日!」

「二十四日? 何月の?」

「おぅい、大丈夫かよ、みっちゃん。まだ早いよぅ」

「んーと、明日はあれだ、結婚式がある」

「嘘ぅ、聞いてないよぅ、結婚? 誰?」

「高校の頃の、友達……慶太くんとやっちゃん」

「友達ぃ、怪しいなぁ」

 次のビールを注文しながら京ちゃんが睨んできた。

「慶太くんとは幼稚園から一緒だったから、家が近くて」

「なになに? みっちゃんは慶太くんのことが好きだったの?」

 考えてから答える。

「……嫌い、かな」

「またまたー」

「好きって嫌い」

「酔ってるよぅ、みっちゃん。なんだ、みっちゃんも飲むか!」

 ああ、そうかと理解する。二杯目のビールもすぐになくなった。


 目覚めの悪い朝だった。頭が起きても、目を開ける気力がまったくなかった。どうしてこんなに疲れているのか、さっぱり分からなかった。それでも時間を掛けて起き上がると、自分が服を着ていないことに気がついた。珍しいことだ。頭痛のする頭を抑えてため息をもらす。

「おはよう」

 心臓が激しく打った。男の人の声だ。一気に目が冷めて振り返ると、同じベッドにすでに起き上がっている男の人がいた……彼も裸だ。

 頭が白くなる。

「寝顔が可愛かったから」

 彼は言いながら、顔に手を伸ばしてきた。

「……っと……」

「ひどいなぁ、忘れてる? それって超ショックなんだけど」

 伸ばした手を引っ込め、代わりに茶色の長髪をかきあげて彼は言った。耳に開いたピアスや冬なのに焼けた肌が気持ち悪く光っている。

「僕なりに君のことを大事に扱ってるつもりなんだけど」

「お風呂、入ってくる」

 後ろを向いた瞬間、彼は抱きついてきた。反射的に泡の中に身を隠した。私は泡の中に縮こまり、部屋に浮いていた。彼は執拗に私をまさぐり、私はただ身を任せている。私は自分の痴態をそれ以上見ていられなくなり、泡とともに部屋から飛び出した。

 昼の風景はいつもと違い眩しい。泡の中から街を行き交う人を見ていた。休みだというのに、どうしてみんなこんなにせわしないのだろう。私は不思議に思う。ビジネススーツに身を包んだ人や、車を怪しいほどに加速させる人。駆け足で荷物を運ぶ人、ビルの壁の整備をしている人。私はそのまま公園に入ると、さすがにゆったりとした風景が広がっている。犬の散歩をしているおじいさんや、小さな子供を胸に抱いている若い女性もいる。私はその中を十五センチ泡の中から見渡しながら進んでいた。

 お腹の中に、どくんと熱いものを感じる。

 刹那、私を包んでいた泡が弾けるように消えた。

 朦朧とした意識の中で、彼が何かを言っている。だらしなく服を着ると、彼は部屋から出て行った。

 ベッドから起き上がることなく床に落ちていた携帯を取ると京ちゃんに電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、留守番電話のサービスセンターにつながる。電話を切ると続けて松江さんの番号をプッシュする。

「みっちゃん? どうしたー? めずらしい」

「昨日って、何時まで飲んでた?」

「いつもと同じだよ、どうした?」

「別に、ちょっと」

「なんだなんだ、さては何かあったな? 起きたら駅の構内だったとか?」

「ううん、ちゃんと部屋まで戻ってたよ。頭ががんがんする」

「うーん、飲んだ量はいつもより多かったかも。京ちゃんもすごかったから」

「松江さんは平気そうね」

 ふふふと彼女の笑い声が聞こえる。

「今日結婚式でしょ、もしかして起きたところ?」

「うん。でも、二次会だから、夜から」

「そかそか」

「サンパルカだよね、昨日」

「そうだよー。どうしたの、本当に?」

「ううん、記憶がないから。変なことしなかった?」

「んー、別に。ふらふらだったけど、まっすぐ帰っていったよ。ちゃんと私見送ったから」

「じゃあね、ばいばい」

「おーい」

 電話を切って時計を見た。すでに二時を回っていた。


 ・


 二次会の会場は地元のカクテルバーだった。大学生の頃よく帰りに寄っていた。家まで歩いて帰れる距離のところにある店だ。各種パーティー承りますという看板を見たことはあったが、本当に利用されているとは知らなかった。

 会場に着くと、受付をしていた人も知り合いだった。なつかしいねぇ、と簡単に挨拶して中に入った。

 なんだか同窓会の雰囲気があった。顔見知りが大半を占めていた。高校の同級生なのだから共通の知り合いも多いのも当然だ。きっと二次会に集めたのだろう。旧友と昔話や近況を話していたら、いつの間にか主役も混じっていた。

「慶太くんおめでとう……あの慶太くんがねぇ」

「え、なになに?」

「やっちゃんにはだいたい話してあるでしょ、慶太くんの思い出話」

「知ってるけどさ。何か他に秘密ないの?」

「やめてくれよ、ないない。みっちゃん来てくれたんだね、ありがとう」

「久し振りだね」

「秘密、ないの?」

 腕をつかむやっちゃんを見ながら、頭がぼーっとしてきた。さっきから飲んでいるジュースにもしかしたらアルコールが入っていたのかもしれない。

「あるよ」

「な、何だよ」

 少しだけ焦った顔を慶太くんは、幼稚園のころからずっとそうだ。ごまかそうとするときに左右の目の大きさが変わる。思い出し、いじわるしてやろうと思う。

「幼稚園から高校まで慶太くんと一緒だったんだよね。やっちゃんとは高校の時でしょ、出会ったの。たくさん話してるけど、それでもまだまだ話してないことなんてたくさんあるのよ」

「いいね、そういうの聞きたいな」

 やっちゃんの八重歯が光る。

「あの頃は言えなかったけどね、あたし、ずっと慶太くんのこと好きだったんだよね」

「わーおぅ」

「な、何言ってんだよ」

「これほんと。今までトップシークレットだったんだから。やっちゃんの気持ち知ってたし。でも、あたしの初恋」

「えー、みっちゃんそうだったの?」

 ふふふと慣れない笑いをもらす。

「中学のころまでだけどね。高校に入った頃には、うーん、なんだか慶太くんが子供に見えちゃって」

「それ、本当に知らなかった。だったら、小学校の頃両思いだったんじゃない」

「わーおぅ」

 やっちゃんの口調を真似てみた。

 そのときにはすでに、私は泡の中に身を隠していた。アルコールのせいか、私は陽気に笑っていて、私だけじゃなく、みんな笑っていた。だから無礼講だ。昔のことだし、それくらいの意地悪をしてもいい気分。私の嫌いな慶太くんもずっと笑顔だ。二人は他のグループにもひっぱられ、からかわれながら祝福されている。幸せそうだ。

 陽気な時が過ぎていく中、私は一人部屋の隅でその様子を見ていた。泡の中の私も、会場の中を漂いながらゆらりゆらりと見ている。それまでどこにいたのか、司会者がマイクを取りビンゴ大会が始まっていた。顔見知りが次々とおみやげをもらっていく中、私はビンゴの紙をいつの間にか折りたたんでいた。泡を操り、私は一人ひとりの顔を確認していった。中学の頃の面影を残している面々や、顔は分かるけれど名前を思い出せない人まで。そんな中に私は紛れ込んでいた。会場の隅で長い黒髪がまぶたの上で切りそろえられていて、本当に幽霊みたいだった。

 泡が弾けた時、すでに会は終わっていた。予定があるから、と帰っていく人や、三次会どうする、と話している人……そっと抜け出すと、そのまま実家に向かった。


 ・


 翌日……おそらく来週のことだろう、あるいは過ぎ去った昨日のことかもしれない……、京ちゃんと二人で買い物に来ていた。休日を誰かと過ごすのは珍しいスパイスだ。といっても、普段会社に行くときと目的地に大差はない。同じ地下鉄のホームで降りると、そこに地下街が広がっている。左右に立ち並ぶきらびやかなショップの間を歩きながら、お昼をとれる店を探してみた。そういうお店はだいたい一角に集まっている。カフェテリアや、うどん屋、カツ丼屋など、ひと通りの店がある。

「みっちゃん、何がいい?」

 そう言った京ちゃんの両手にはすでに紙袋が二つぶら下がっている。新しい靴とバックをすぐに買ったからだ。彼女は決断が早く、気に入ったものはその場で買う。自分とは大違いだ。「一期一会」「インスピレーション」と彼女は言って笑った。

「何でもいい、とりあえず座りたいかも」

「そうだよねぇ。じゃあこの店にしよう」

 時間もちょうどお昼を回ったところ、どのお店も人で溢れていた。その中で京ちゃんが指したそのお店のオープンテラスにはまだ若干の空き席があった。その席に荷物を置いて一息つく。

「どうして地下街にオープンテラスなんだろうね」

「んー、何で?」

 京ちゃんがこちらの視線に合わせて上を向く。あるのは普通の天井だ。確かにオープンしているわけじゃない。ガラス張りにでもなっていれば雰囲気が出るのかもしれないが、それだと地上を歩くと丸見えだ。あるいは車の下ばかりが見えてつまらないかもしれない。

「オープンテラスって、あたしが勝手に言っただけなんだけどね」

 少し休憩してからカウンターに注文した。二人ともパスタを頼んだ。ついでにジュースとデザートまで注文を済ませ、ジュースだけはその場で受け取ってから席に戻った。

「どーしたの、今日は? 買い物なんて珍しよね」

「そんなことないよ、でも、まだ何にも買ってないんだけどね」

「今日はいい買い物でしたよ。お気にもの追加って感じでぇ。それで?」

「薬指。指輪、変わったよね」

「へっへっへ。仲直り記念。買ってもらっちゃった……まだ秘密だけど、私、会社そろそろ辞めるかも」

「えー!」

「秘密だよ。実はさぁ、私、できちゃったかもしんないのよぅ」

「ええ?」

「内緒だからね。まだ誰にも言ってないんだから。それにまだ確認もしてないし。それで、結婚するかもって」

「それって本当?」

「うーん、多分来月には決定するよ」

「確認しちゃった」

「何が?」

 京ちゃんは嬉しそうに笑っている。

「できちゃった」

「何が?」

「あたしも、赤ちゃんできちゃった。陽性っす」

「え? ちょっと何それ、すごい初耳なんですけど」

「秘密だよ」

「だってみっちゃん、彼氏、いないでしょ?」

「いないはずなんだけど」

「誰よ……もしかして部長とかっていう落ちじゃないよね。だから私たちにもずっと黙ってて」

「違うよ。ジャストヒットしちゃったみたいで」

「どういうことかな、みっちゃん。詳しーく話してもらえるかな」

「だから京ちゃん呼んだんだよ」


 ・


 二ヶ月後、京ちゃんは会社を辞めた。その三ヶ月後、小さな結婚式を開き、さらにその三ヶ月後に赤ちゃんが生まれた。写真がついたはがきが実家に届けられた。

 実家のお風呂で、いつものように全身をお湯に浸かった。

 ぽっと喉から空気を吐き出すと、それは泡となって湯の中を漂った。その泡の中に私は入って、私は私を見下ろした。幽霊みたいに伸びた髪がお湯の中をゆらゆら揺れている。結局私は赤ちゃんを産まなかった。すぐに堕ろすと、そのまま私は会社を辞めた。実家に戻り、家事手伝いをする毎日だ。

 でも、この泡の中では違った。十五センチほどの泡の中には私と私の子供がいた。すでに産まれ、私の胸に吸い付いている。生まれたばかりなのに長い茶髪で、肌も茶色かった。まるであの時の男そのものだ。出もしないおっぱいから離れると、赤ん坊は私に笑顔を向けた。それでも、私はその塊に愛情を感じなかった。おぞましい物体なのに、私はそれを必死に抱きしめている。

「おはよう」

 それはそればかりを口にする。耳障りな音だ。


 好き。


 という言葉は嫌い。

 嘘。

 嫌い、嫌い。


 フレーズが浮かんだ。女性三人のユニットで、もうすぐ解散が決まっている若いグループのポップスだ。

 好き?

 私は自分に問いかけた。おぞましい笑顔を向け、私の胸の間に顔をうずめている塊。返ってくる言葉は決まっている、嫌い、だ。私は嫌いだ。だけど、きっと好きなのかもしれない。認めたくないだけなのかもしれない。

 私は全身の力を振り絞って、それを体から引き離した。両手の先で、それでもそれは笑っている。

「おはよう」

 まだ言葉なんてしゃべれるはずがないのに、それの口は器用に動き、同じ言葉を繰り返す。

「おはよう、おはよう」

 いつも同じ調子で、あの時と同じようにそれは言う。私は首を振る。嫌い、嫌い、と心の中で繰り返しながら、さらに力を振り絞って、それを遠くに投げ飛ばした。

 投げ飛ばしたつもりだった。けれど、それは泡の中にあって、泡の中から私を見ていた。投げ出されたのは私だった。泡の外へ。裸のまま、高い空から落ちていく。

 頭をあげると、お湯から顔を出した。乱れた呼吸と、激しい心臓の音が体を通して響いている。自分の音だ。

 湯船から上がると、体を拭き、パジャマに着替えて部屋に戻った。充電器に刺さったままの携帯電話を手に持つと、ベッドに倒れ込む。数回操作し、画面に消去しますか? と表示される。迷いなく私は操作すると、再び携帯を充電器に戻した。

 体が火照っている。

 胸に手を当て、鼓動を確かめる。


 とくん、とくん……


 私はそのまま眠りについた。

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なつ @Natuaik

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