初日は上出来
観察を始めてから数時間。渋沢瞳に目立った動きは何ひとつなかった。
これが警察ならただの空振りで終わった一日である。しかし、オネショ研の観察部では、何も起きない日々を積み上げることこそが正常な業務となるのだ。
午後八時を過ぎた頃、観測点としている部屋の呼び鈴が鳴った。
「ハナちゃん見てきて。多分、交代要員だから」
陽菜の返事がない。
早速ナメられはじめたか、と優紀は首を振った。
陽菜は壁面を背もたれに寝息を立てていた。傍らには文庫・新書サイズの書籍が小山を形成している。観察時の暇つぶし目的で部屋に置かれている、数少ない娯楽だ。
ふたつに分かれた小山から察するに、置かれていた二十冊ほどのうち、ほぼ半分ほどは読み切ったのだろう。
何の相談もなく観察中に寝るとは。
優紀は、一筋の涎が流れ落ちる前に肩を揺すった。
「起きろー。交代だぞー」
「うむぅ、む、ふぉぉ?」
陽菜はぱちくりと瞬き、猫のように丸めた手で目をこすった。
「交代要員きたから、扉開けてあげて。あとヨダレ、拭いてからでてね」
「ふぁぁい」
まるで子供ではないか、と思ったときには、優紀は寝ぼけ眼の陽菜の頭に手を乗せていた。手を水平に滑らせるだけでよく、非常に置きやすい位置にあったのだ。ゆえにその行動はまったく無意識のうちのことだったのだが――、
焦点が定まっていなかった陽菜の瞳に、きゅっと力が込められ、
「ふわぁぁ!」
飛び退いた。
「なななななんですか! しぇんぱい!」
口の涎を手の甲でぐいっと拭う。あまりに気の抜けた悲鳴と抗議であった。いつもこうなら可愛げもあるのに。
優紀は親指を立て、肩越しに扉を指し示した。ほぼ同時に、再び呼び鈴が鳴った。
「ほれ。交代要員来たからさ、開けてやって?」
「ふぁ、ふあぁい!」
――なんだその返事は。
浮かんだツッコミを飲み込み、優紀はゲゼワの接眼レンズを覗きこんだ。
窓からのぞける範囲に渋沢瞳の姿はなくなっている。とはいえ部屋の灯りが消えているわけでもない。時間からすれば夕飯の準備といったところだろう。
優紀は背後で交わされる陽菜と交代要員の会話を聞き流し、夕飯どこで食べようか、などと思いをめぐらせていた。
真後ろに人の気配がたった。
「はいよ。来たよ。交代要員様が。交代だ、優紀」
優紀はのけ反り、背後の男を見上げた。
同じ観察部でもあまり交流のない相手――表情が乏しい。疲れているのだろうか。
「あいさ。それじゃ、あとよろしくお願いします。交代は何時ごろにします?」
「早けりゃ早いほどありがたいけどな。まぁ八時くらいまでにはお願いしたいね。それでちょうど十二時間だ」
「うっは。超過勤務四時間。お疲れ様です」
「お前が呼んだせいだよ、バカ野郎」
男は笑って優紀の額を叩いた。ペチン、と軽い音がした。
疲れのせいかクラクラしてくる。
「すんませんね。交代までに動きがあったら、連絡ください」
「わーってるよ。お疲れ」
「お疲れっす」
優紀は所在なさげにしていた陽菜に呼びかけた。
「んじゃハナちゃん、帰ろっか。送ってくよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
いつもなら元気一番に両手を握って返事がきそうなものだが、今回はない。伏し目がちで少し不貞腐れているようにもみえる。
陽菜の不満げな表情が寂しさによるものなら、なぜ。
はやくも元の職場が恋しくなった。あるいは業務内容に不満がある。はたまたコミニュケーション不足が嫌だ。
それはねぇだろ。と優紀は自嘲した。
しかし、薄笑いの顔の裏では迅速果断に二年前に過ごした初日を思い返していた。
そういえば先輩は、初仕事のあとに夕飯に誘ってくれたのだった。あの頃はまだ先輩をウザいと思ってもいなかった――。
そう。夕飯を一緒に食うまで、ウザいと思わなかったのだ。
ならば、そこでウマいことやったら、どうなる?
優紀はポコンと膨れ上がった謎の期待感を胸に秘め、口を開いた。
「メシ食ってく? 奢るけど」
「ほんとですか!? 行きます! ぜひ、ぜひご一緒させてください!」
ほんの数舜前までしょぼくれていた背中から、元気オーラが吹き荒れる。現金なものだ。コロコロと表情を変え、いまにも小躍りしそうな雰囲気すらある。
外に出た優紀は両手を腰に当て首を巡らせた。後半は優紀一人で観察していたからか、肩や腰が小さな痛みとともに音を立てた。
傍らに目を向けると、陽菜はさっそく近辺の食事処を検索していた。
飛び級してても十八は十八なんだなぁ、と優紀は興味深く思いつつ、不思議そうに見上げてくる小さな後輩の頭に手を置いた。
陽菜の頬がぷこっと膨らむ。怒ったらしい。
「あの、私、子供じゃないんですけど」
「悪い悪い。どっかいい場所あった? あんま高いところはナシな。薄給なんだわ」
「それなんですけど……この街って、おしゃれな感じのお店しかないんですか? 私できれば、ちょっと汚い感じの小料理屋さんみたいなところがいいんですけど……」
「えっ、なにそれ。汚い小料理屋?」
前言撤回である。意外とオッサン臭いぞ、この子。
どういう意図で小料理屋を希望しているのかは分からない。しかしそんな小汚い小料理屋なんてものを姉月市に求めるのは酷というものだ。
なぜなら姉月は実験都市――、
「メシ屋もお子様かおねぇさんが喜びそうな店に特化してるからなぁ」
「えぇー!?」
陽菜は眦に涙をためて、この世の終わりかのような顔をした。
「小料理屋さんで愚痴りながら食事って、ちょっと憧れだったのに……」
――なんでだよ。
秒の間すらなく胸裏でツッコむ。続けて小汚い居酒屋の記憶を探す。
そんなもの、あるわけがなかった。
薄給ゆえに食事の大半は自炊で済ませているし、そもそもあまり飲食を楽しむような生活も送ってきていない。なにしろ観察部の同僚たちとは年齢差もあって決定的に趣味が合わない。観察部の業務上、行く店は計画者が訪れる店に限られる。
せめて接待や接客のある仕事なら、と思い至ったところで優紀は気付いた。
――部長なら外部からの客に接待とかしてるかも?
そう思ったときには、優紀はスマホを手に取り部長に連絡していた。
〝おう。なんだ優紀。交代要員ならもう手配したぞ。合流できてないのか?〟
「いえ、そっちは大丈夫です。それより、ハナちゃんのことでちょっとお願いが」
〝ハナちゃん? あー、藤堂くんか。あんまりいじめるなよ? あの子は俺たちの未来の上司になるかもしれないって言ったよな?〟
「はい。ちょっといまの内に、と思いまして。小汚い小料理屋が希望だそうです」
電話口の向こうで、部長はたっぷりと間を取った。
検索でもかけているのか、裏では微かにキーボードを叩く音も聞こえる。
部長は咳ばらいを挟んで言った。
〝先に接待しとこうってわけだな。教えてやろうじゃないか。俺が教えてくれたって、ちゃんと伝えるなら、交際費で落とせるようにしてやらなくもないぞ?〟
――公務員が身内との飲食を交際費で落とす気なのかよ。
国家公務員の――いや、独立行政法人の闇を見たり。
優紀は首を左右に振って、忘れることにした。
あるいは優紀の給料を知っている部長のことだから、同意するのを見越して
――ないな。だいたい、なんか足元見られてるみたいでムカつくし。
優紀は部長の提案に形だけは乗ることにした。
「じゃあ、それでお願いします」
〝よし、
「分かってますよ。それじゃ」
――なにがディールだよ。カッコつけやがって。
優紀はさっそく送られてきた店の情報を確認した。なるほど。送られてきた店の外観は姉月市に相応しくないほどに古臭い。検索をかけてでてこないのも頷ける。
優紀は懸命に検索を続ける陽菜の肩を叩いた。
「ハナちゃん。一個なら思い出したんだけど、そこでいい?」
「ほんとですか!」
暗くなりつつあった陽菜の顔は、瞬時に明るさを取り戻した。
「先輩、さすがですね! ぜひぜひ! そこでお願いします!」
「よーし、行くぞー」
部長の面子などどうでもいい。それよりも、後輩と一日をすごして分かったことの方が、ずっと重要だ。
天然系な後輩を甘やかすのは、部長のご機嫌を取るよりはるかに面白い。そしてずっと有意義である。今後のためにも。
――部長、情報はありがたく有効利用させていただきやす。
優紀は心中でほくそ笑み、陽菜とともに車に乗り込んだ。
あるいはこのとき気付いていれば、優紀は美味いタバコが吸えたのかもしれない。
しかし、かわいい後輩との食事に胸躍らせるばかりの彼は、数少ない美点の一つである危機察知能力すら、著しく損なわれていたのであった。
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