第二幕 四章 ロペ ヤツヲの時間
まるで汽車になったかのようだ。鼓動と息が収まらない。
ロペとヤツヲはあの後、暖炉の排気管の中を這い進み、そのまま別のパイプに移り、廃線トンネルへとたどり着いていた。恐らくはロペだけが知る、秘密の通路である。
ロペはパイプ工として働くにつれ、この街の地下を血管のように巡るパイプの群れのルートを把握していた。彼は知っている。駅のダクトから湾岸の側溝へと抜けられることを。工場の下水管に潜れば、一世代前の地下壕へと出ることを。
この道も彼の知識の一つ。駅員すらもはや知らないであろう、大昔に廃線となった地下鉄のトンネルだ。無論光はない。ロペの持ってきたランプから光が半球状に放たれているだけだ。あとは煉瓦造りの壁の内にどっぷりと闇が満たされていて、錆びた線路が延々どこかへ伸びている。ここは地下道などではなく、死に至り、枯れた巨人の動脈の内にいるかのようだった。
その血管の壁にロペと、東方の少女ヤツヲは背を預け、角石の上に腰を落ち着けていた。ロペは絶えず喘いでいた。何度空気を吸い込んでも、肺が酸素を拒否してしまう。あるいは、この過呼吸は肉体的なものではなく、精神的な圧迫によるものかもしれなかった。
いまだ尾を引いて途切れることない銃声。壊滅的な腕前なのに、奇跡的なまでにまっすぐ飛んでゆく弾丸の軌道。そして倒れる男の体――――。
ジャリ、と角石の擦れる音がした。足元の小石を思わず蹴飛ばす程にロペは身を勢いよく退いた。
だがなんて事はない。音の主はヤツヲだった。彼女は身をよじり、四つん這いの姿勢でロペに近寄って来る。その眼孔に収まる色はとても深い。その内に、二匹の海獣を躍らすことができそうな程に。
少女はまじまじと、少年の顔を観察していたが、やがて口を開いた。
「名前」
「えっ、あ―――」
「名前、教えて」
唐突だった。緊張しきっていたロペの精神には見合わぬ、新春の風のような問いだった。だが当然の問いだった。ロペはここに来るまで一度も名乗っていない。それは不審に思って当然だろう。ロペは近づいた顔から目を逸らしながら、いつもの台詞を言った。「ロペ……いや、これはニックネームなんだ。名前の全部をいうととても長いから、ロペでいいんだ。オリバー・ロペ」
彼は今も目をそらし続けている。だから少女の顔はわからない。何も言わないから呆れているのかもしれない。そもそも身分を明かすのになんでニックネームを言っているんだ?そう悶々と考えていると、くつくつ、とくぐもった声が聞こえた。見れば、ヤツヲが身を丸めて震えている。
泣いているのか?彼はそう思ったが、そのようではない。むしろその逆のようだ。
「ロペ」
少女はその名を呼ぶ。くつくつと笑いながら。
「ロペ、ロペ、ふふふっ、変なの」
その表情を見た瞬間、ロペの顔も思わずほころんだ。この冷え切った闇の中、二人の座るこの場所だけは、日輪の下にあるかのようだった。
だが喜びを感じたのもつかの間、ロペの胸中で暗い記憶が瞬いた。それは娼館でのあのシーンのフラッシュバック。指から離れる引鉄。目を晦ます銃火。血を噴きながら倒れる男――――。
「エドゥアルドなら大丈夫」
ぴしゃり、と回想から彼の意識は現実へと戻された。ヤツヲは、地面のカンテラと、そこに飛び込む羽虫に目を向ける。
「……彼は人脈が広いから、医者なんて呼べばすぐ来る」
カンテラの火が揺らいで、ヤツヲの顔に影が差す。
「だから―――どうせ――――」
しばしの沈黙の後、ロペはヤツヲが自分を安心させようとしているのだとわかった。彼は眼前の、己が連れ出してきた少女の肩を見る。その幅も厚みも、あまりに頼りない。
ロペは自然と手を上げ、彼女の上まで伸ばす。だが、その手は少女に触れぬまま、結局収められた。
鉛の詰まった気管を無理やり広げ、言葉を紡ぐ。
「……ついてきて、くれる?」
「うん」
ヤツヲは即答した。そのことに、ロペは安心するよりも驚いていた。
目に見える彼の反応をよそに、ヤツヲは言葉を紡ぎ出す。
「貴方があそこで言った通り、私はあそこが嫌だった。でもあなたが来るまで、それに気づかなかった」
だって逃れようがなかったから――。ヤツヲは下げていた頭を上げ、ロペへと向き直り、真っすぐに瞳を向ける。
「貴方の勇気が、私に『嫌』という言葉をくれた。だから、貴方に応じる」
手が伸び、ロペの頬を優しく包み込む。その指先の冷たさは、最初に二人が出会い、渡された氷のことを思い出させるものだった。
再び、出会い直したかのような気分だ。
「ロペ、私にもっと言葉を頂戴」
ロペはそれに口を開く。そして何度か、空気を求めるようにぱくぱくと開いては閉じる。そして言葉のなりかけが頭を覗かせた頃、牛蛙が踏まれるような音がした。
そのあまりの大きさに、ヤツヲは驚き目を見張り、ロペの腹を見る。それは腹の蟲であった。
「………夜の12時です」
「なんでわかるの?」
「僕の体内時計は完璧でさ。六時間ごとに、鐘つき男が鳴らしてくれるんだよ」
少年は革袋を取ると、それの上の砂埃を払い、少女に差し出した。
「だからこのまま寝入っても大丈夫だよ。六時のお知らせが必ず来るから」
少女は枕代わりの革袋を受け取ると、それを口元に持ってきて、顔を隠す。そして、こらえ切れない笑い声をトンネルの中に反響させた。
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