予言の日
井戸川胎盤
午前6時57分
『今日のお天気は午前中は晴れのち曇り、ところによっては雨が降るでしょう。午後から、にわかに人類は滅亡します。お出かけの際は注意ください』
朝食を食べながら、ぼんやりと見ていたテレビを見ていた私はその言葉に目が覚めた。
もごもごと時間をかけて噛んでいたカブの浅漬けをそそくさと飲み込んで、味噌汁を一口すする。そうして私はテーブルの隅に置かれている、まだ誰も手をつけていない新聞を開いた。
――プロフィティスの予言! 今日、世界は滅亡する!!
一面にでかでかと見出しが出ている。
手に取った新聞を縦に折って、読みやすいサイズにすると、再び右手に箸をとった。左手に持った新聞に目を通しながら、またしてもカブの浅漬けに手を伸ばし、口へと放り込むと、口の中にじわりと塩味がしみ出す。
しっかり味が染みていてうまい。
漬け物を付けるのが上手だというのが、妻の自慢であるが、それは確かだ。いや、漬け物だけでなく、妻は何を作らせてもうまい。
浅漬けを食べながら新聞記事を読み進めると、今日は確かに人類滅亡の日だと報じられていた。
大昔のギリシアの予言者プロフィティスが天から魔王が現れて人類に破滅をもたらすと予言しており、それが今年だというのだ。それだけなら良くあるオカルト話に過ぎないが、一昨日になってアメリカ辺りの天文学者が地球への直撃コースを辿る巨大隕石群を見つけた。
隕石が発見されてから直ちに世界各国は核ミサイルを巨大隕石群へと発射して、なんとか人類滅亡を回避しようとしたようだったが、それも無駄に終わったそうだ。
地球へと向かう巨大な隕石群など、毎日望遠鏡で夜空を見上げていれば、もっと早く見つけられそうなものであるが、どうやら天文学者というのは、そうは夜空を見上げないらしかった。
ともかく、今日の午後にはバカでかい隕石どもが地球にやってきて、人類は滅亡するだろうと新聞記事は締めくくっていた。
一面から続いて三面まで、大々的に特集された世界滅亡の記事を読みながら、ちらりとテレビに映された時刻に目を向ける。家を出るにはまだ少し早い。
私はまたカブの浅漬けを口に放り、続きを読むことにした。出版社に勤める人間だから、というわけでもないが、暇であったり、手持ち無沙汰なときには新聞を読む習慣があった。習慣というよりも癖と言った方がよいかもしれない。
「もう、お行儀が悪いわ。新聞を読みながらなんて」
そう後ろからとがめたのは妻だった。私は振り返って、ひとこと「すまん」とだけ言うと、縦に折った新聞をそのまま二つに折りたたみ、テーブルの端へと置いた。
妻はなぜ私のところに嫁に来たのか疑問に思う程度にはいいところのお嬢さんだった。だから、というわけでもないかもしれないが、時たまこうして私の不行儀を咎めるのである。
だが、それだけだ。私が妻の言うことを聞かずにいても、それに一々腹を立てることは滅多にないし、私とて一々彼女の小言に腹は立てない。
妻は私に小言を言い放しのままに、私の湯飲みにお茶を入れた。また私は「すまん」とだけ言って、お茶をすすった。
「あなたテレビ見た? 今日は午後から人類滅亡だって」
「らしいな。今、新聞で読んだよ」
「せっかく今日は午後からお買い物に行こうと思ったのに。それに洗濯物も溜まっているのよ」
「ここのところ雨ばかりだったからなあ」
テレビでは今日の世界の滅亡について特集を組んで、アナウンサーやタレント、それにコメンテーターの学者やらがやかましく議論をしている。避難勧告を出すのが遅すぎるとか、もっと彗星をどうにかできるのではないかとか、今更言ってもどうしようもないことを大声で言い合う姿は滑稽に見えた。
「カブの浅漬け、うまいよ。今日のは特にうまい」
「やっぱり? 私も今日のは自信作なの。裏のおばあちゃんに教わったやり方がよかったんだわ」
私が素直に言うと、妻は嬉しそうに笑う。妻の笑顔を目に入れて、そうして私はしばらくまぶたを閉じる。
結婚してもう十年以上だが、どうやら私は未だ妻に惚れっぱなしらしい。私の毎日は苦痛にまみれているが、それでもやっていけるのは妻が家で待っているからだ。
閉じたまぶたに一つのビジョンが浮かぶ。私はゆっくりとまぶたをあけた。
「買い物は行った方がいい。午前中に溜まった洗濯物を片付けて、午後からデパートに行ったらいいよ」
「そうかしら。だって、今日は午後から人類が滅亡するっていうのよ」
「そうさ。けど、今日は買い物が“吉”だね」
「あなたがそう言うなら……。あなたはどうするの?」
「いつも通りに仕事に行くだけさ」
「人類最後の日だっていうのに、律儀に会社に行かなくても……。最期の時くらい、一緒に過ごそうって言ってくれないの?」
「別に人類最後の日だからって、変わったことをする必要はないさ。何だったら今テレビでしゃべっている連中のように大騒ぎしたって構わないけれど、そんな最期はみっともないだろう? いつも通りに家事をして、買い物をする。それがあるべき姿なのさ」
「愛する妻と一緒にいるっていうのも素敵な最期だと思わない?」
「きみのことは愛しているよ。このカブの浅漬けと同じように」
「浅漬けと一緒かあ」
「それだけこの浅漬けがうまいってことさ」
最後にもう一つ浅漬けを口へ放り込むと、私は立ち上がって、椅子に掛けたスーツの上着に腕を通した。立ち上がると、深く大きなため息が出る。
「さて、そろそろ会社に行かなくちゃ」
「そんなため息つくくらいなら、会社なんて辞めちゃえばいいのに」
「そうもいかないだろ」
「毎朝、ため息を聞かされる身にもなってごらんなさいよ」
もう一度ため息をついて、テーブルに置いた新聞を鞄に入れると、そのまま玄関に向かった。
今日は妻が玄関まで送ってくれるようだった。
私は背中に妻の視線を感じつつ、靴べらを持って靴を履く。
「今日、晩ご飯は?」
「いつも通り家で食べるよ。今日は地球滅亡の日だし、なるべく早く帰るようにする」
「わかったわ。あなたがあたしと同じくらいに好きな浅漬けでも作っておくわ」
「ありがとう」
私は鞄を手に持つと、立ち上がって玄関のドアを開けた。開いた玄関の先は随分と散らかっているようだった。それを私の背中越しに見た妻が眉をひそめたような声で言った。
「隣の小池さんのところのガレキよ。何かの拍子にうちの前まで転がってきたんだわ。あの人ったら何回言っても片付けてくれないのよ」
「今度会ったときは僕からも気を付けるように言うよ」
「お願いね。あ、傘は持った?」
「鞄に折りたたみのやつが入ってる」
そうして玄関を一歩踏み出しかけたが、少し心配になった私はもう一度振り返って妻を見た。出会った頃と比べれば、当然だがかなり老けた。けれど、その顔に私は愛しさを覚えた。急に振り返った私に「どうしたの?」と言いたげな顔だった。
「何度も言うようだけど、今日はいつも通りに過ごすんだ。午前中に洗濯をして、午後は買い物にね」
「わかっているわ、心配しないで」
「うん。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
私は会社へと向かうため、玄関から外へ踏み出した。
そこから見えるのは崩壊した街と折り重なるガレキの山ばかりだった。
テレビの天気予報で予言されるまでもなく、とっくに世界は滅亡していた。
ここ五年で地球は四回ほど滅びているが、別にだからと言って人類は絶滅することもなく、しぶとく日常を生きていた。
ガレキの街には通勤中の人々がぽつりぽつりと浮かび上がっている。
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