最後の一日
@nekobatake
1:朝
「でもね、人を殺すのって、それほど難しくないんだよ」
ミサキは手元のナイフをくるくる弄りながら呟く。目線は窓の外に向けられていてナイフを見もしないのに、刃は複雑な軌道を描く。磁石や糸で手から離れさせない手品のようで、どうやって動かしているのか、どの指で動かしているのかすらもよく分からない。激しい動きで、手元が狂えばこちらに飛んで来るのではないかと思わずにはいられない。
だが、そんなことは杞憂にすぎない。
「えっ、こんなものでいいの……ってあっけないぐらいの傷で終わり。刺すべき所、切るべきところを分かっていれば、女の子の腕力でも十分殺せる、かな?」
「そういうことじゃなくて、ほら、心構えとか」
「ああ、そういうこと……」
ミサキは身じろぎ一つしなかったけれど、明らかに鼻で笑ったのが分かった。素人の質問というものは馬鹿馬鹿しいものだ。
「運転手さんは、そういうことを気にする人が、こんな仕事、できると思う?」
「……どうだろうな」
赤信号に車を停める。緊急時は信号どころか車線や対向車も無視して突っ走る覚悟も技術もあるが、今その必要はない。
「安全運転なんだ、ちょっと意外」
「そりゃあね。必要に迫られなければ規則は守るさ、普通に」
「うそ。今のは行けたタイミングだったでしょ」
「赤だった」
「赤になって数秒は空白の時間があるでしょ……それを使うのが、ふつう、だよ」
ミサキの言う普通とは、少々荒っぽい価値観に成立しているようだった。彼女が仕事とあれば誰でも殺す生活を送っているせいなのか、それは分からない。
「それが普通かどうかは分からないけど、少なくとも僕の中ではこういうルールなんだ。『非常時じゃないときは平時だ』って」
「なにそれ、語呂わる」
青信号になって、アクセルを踏む。急げ、とミサキがほんの少しでも意思を示せば急ぐつもりだったが、さっきの彼女の態度はそうではない。これまでの付き合いでそれぐらいは分かる。
「……時々、同じ夢を見るんだ」
「へえ」と声色でミサキは珍しく興味を示した。「私もそういうの、あるよ。そういうひと、結構いるんじゃない?」
「僕のはちょっと特殊でね、三種類ある。しかも見る時間帯が決まっていて、朝に寝たらこれ、昼に寝たらこれ、夜に寝たらこれ――って決まってるんだ」
「それって、そのタイミングで寝たら、100ぱー確実、絶対にその夢を見るの?」
「勿論、夢を見ない時もあるし、他の夢を見る時の事の方が多い。ただ、繰り返し見るから印象に残っているんだ」
「ふーん」とミサキはもう興味をなくしたようだった。「私はひとつだけかな」
「今から話すのは、朝に見る夢なんだ。その夢の中で、朝、僕は自然と目が覚める。朝の柔らかな光が窓から差し込んで、昨晩しこたま飲んでソファーで寝ていた僕は体を起こし、思うわけだ『あれだけ飲んだというのに朝には自然と目が覚めるものなんだな』と。そして顔を洗い、着替えていると、体調がすっかり回復していることに気付く。理由を考えてみるが、朝の光のおかげだろう、としか思えない。『なるほど、朝の光とともに目覚めるというだけで、世界の何もかもを祝福したい気分になれるのなら、早起きも悪くはない』と満足したところで、おしまい。目が覚める」
「……なにそれ、意味わかんない」
「僕にもよく分からないけど、この夢を無理矢理に解釈すると、いつも二つの結論が導かれる。一つは、『非常時じゃないときは平時だ』ってことさ。今が非常時じゃないって思えるのなら、出来る限り普段通りのありふれた生活を送るべきなんだ。朝の光とともに目覚めるように。きっとそこに、何かの真実がある……と僕は信じているらしい」
そう言ってからミサキの様子を横目に窺うと、まだ窓の外を見ていた。小さな枠の中の彼女は、漆黒の髪と制服がバックシートに溶け込んで、そこにいないようだった。
そのまま彼女は窓の外に向かって話しかけるように訊ねた。
「もうひとつのは?」
「『僕は自虐家の後悔したがり』ってことだな」
「どういう意味?」
「夢の中では朝に目覚めても、実際に起きるのは大体夕方なんだ。そもそも朝に寝る必要に迫られるのは、夜中じゅう仕事をしていたせいだ。そんな不摂生なことをすると体もだるくて気分も悪い。でも、さっきまで見ていた夢では、爽やかな気分でいられた」
「なるほど、ちょっと面白い。目覚めなければ良かったのに、ってことね」
そう言った彼女が本当に面白がっているのかは、声色だけでは分からなかった。少なくとも気分は悪くなさそうだ。
「……じゃあ、運転手さんと私、それぞれの仕事に対する心構えについて話をしたわけだし、次は実技的な話をしよ。さっきし始めたの、途中だったから」
そう言いながらミサキがこちらを振り返る。日本人形みたいに切り揃えられた毛先がつられて少しだけ動いて、また元の完璧なあるべき位置に戻る。彼女の顔を見るのが、何だか久しぶりのような気がした。年相応の幼い顔立ちは、彼女の仕事に似つかわしくない。
「人を殺すのは難しくない……か」
「そうそう、刺すべきところとか、切るべきところとか……急所かな? でもそんな大げさなものじゃないんだよ。なんていうか……ほら、硬いところは刺しても意味ないでしょ。それぐらい、単純なことだよ」
「だろうね」
「その基本さえ押さえておけば大丈夫……もちろん私みたいに素早く正確にやるにはコツがいるんだろうけど。そのコツ、口で説明できないから」
自分から始めたぐらいだから、職人のコツとやらについて語りたいのかと思ったが、違ったのだろうか。ただ車内を取り留めもない会話で満たしていたいだけなのか、判断は出来なかった。
「素人は、急所とか難しいこと考えずにさ、とりあえず明らかに骨があるってとこは、避ければ良い、かな。私は骨と骨の隙間、なんとなく分かるけど、慣れてないと難しいでしょ……運転手さんが誰かを刺したり切ったりする時、このアドバイス、思い出してね」
「そんな必要に迫られる日が来ないことを祈っているよ。ところで――」
巻き込み確認を行い、ハンドルを切って、左折。車道を囲む背の高い建物たちはまばらになってきていた。そろそろ郊外へ出る。
「道具はどういうのが良いとかはあるのか。その手にしてるやつとかは、やっぱり一級品だったりするのか」
「ああ、これ?」
興味なさそうに呟くと、手品を越えて魔術的な動きをしていたナイフがぴたりと止まる。いつのまにか刃を人差し指と親指だけで掴み、柄の部分をこちらに差し出している。
「触ってみる?」
「いや、いい」
「持ってみなよ」
「いいよ、そんなの」
「持ってみてってば」
少し語気が強くなった。渋々左手でナイフを受け取る。ナイフを手にする時にミサキの指を切ってしまわないようにそっと受け取ったつもりだったが、手のひらに重みを感じた瞬間、ミサキの指は離れていた。ちょっとしたことだが、認知できないほどの素早さだった。不思議な感触がしたが、すぐに意識はナイフに移る。
「……軽いな」
「そう?」
「いや、重いかもしれない」
「どっちなの」
自分でも分からなかった。人の命を簡単に奪えるものだから重く感じるのか、軽いと感じるのか。それはあるいは、人の生き死にというものに触れすぎたからなのかもしれなかった。しかしそんな愚痴を言っても、もう遅い、遅すぎた。
赤信号の停車を利用して、ナイフを詳しく観察する。
刃渡りがそこそこの長さのそれは、朝の光を反射して鋭い光沢を身に纏い、ただ存在しているだけで周囲の空気を切り裂いていた。刃には刻印も凸凹とした部分もない。柄の部分は黒塗りの木でできていて、緩やかなカーブを描いている。きっとこの構造のお陰で、握りやすくなっているのだろう。
「……すごいな。なんだか芸術品みたいだ」
素直な感想だったが、
「えっ、それの? どこが?」
呆れた声がした。少し恥ずかしくなる。
「そう言われてもね、こっちは素人なんだ……まあ、とにかく、すごいナイフなんだってのは分かったよ」
「すごいって、どう?」
「そりゃあ、切ったり刺したりするための機能美に満ちているんだろうな、って何となく分かったよ」
大げさなため息が横からした。
「あー、その、運転手さん、ぜーんぜん分かってない……私はね、そのナイフが、とんでもなく平凡で、ありふれた、つまらない、よくあるやつ、って言いたくて触ってもらったの」
まるで引っ掛けクイズだ。思わず苦笑いを漏らす。青信号にアクセルを踏みながら、今度は僕が刃の部分を持ってミサキに差し出す。彼女に限って僕の指を切ってしまうことはないだろう、と信じてはいたが、またしても認知できない速さでナイフが離れて、また不思議な感触がした。
「うーん、私の凄さを説明しようと思って、まずはナイフの平凡さを分からせるつもりだったのに……」
「いつも同じのを持っているから、道具にこだわりがあるのかと思った」
「ええっ、うそ……同じやつ使いまわすこととか殆ど無いけど。いつも同じやつにみえるぐらい、平凡なやつを買い替えてるんだよ」
「買い替え?」
「自費で。経費で落としてくれりゃいーのにね、安物でもさ」
「安物かもしれないけど、あんまり簡単に商売道具を他人に渡してしまうものではないね」
ミサキがどれだけナイフの才能に溢れていようと、丸腰では無力だろう。
しかしミサキは首を振って、
「ううん、全然。まだ1本隠し持ってるし」
「そうか。折りたたみナイフか」
「ん、これと同じ感じの普通のやつ」
「隠すなら折りたたみナイフのほうが良いんじゃあないか」
横目で見ると、いつしかミサキは再びナイフを魔術的に弄んでいた。左肘は窓の桟において手のひらを顎の下へ。外の風景を眺めるその表情は読み取れない。
「折りたたみナイフには、このサイズのやつが無いから。いや、世界の何処かにはあるんだろうけど、私は見たことないかなー。マニアなら持ってるのかも、ね」
「平凡なナイフばかり使うくせに、サイズにはこだわるのか」
「だって私、これしか使えないから」
ミサキがフロントガラスに目を向ける。彼女の横顔は、運転席からもはっきり分かるほど長い睫毛がどこか冷たさを感じさせる。まるで刃物のようだ。
つまらなさそうに、彼女は続ける。
「刃渡り15センチのナイフしか、ね」
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