第一章  久留米渚はツキがない

(一)久留米 渚

 久留米くるめなぎさの人となりを簡潔かつに言い表すとしたら、ツキがない、ということに尽きる。


 運には見放されているし、運任せはことごとく失敗する。


 そんな人生を歩んできた。


 急いでいる時に限って電車が遅延する。


 運動会の直前で怪我をして欠場せざるを得なくなる。


 肝心なところで必ず不手際を侵す。


 落とし物も多いし、財布をすられたことだってある。よりにもよって大金を入れていたときとかに。


 大事なときほど、上手くいかない。どれだけ策を練ろうと、良い方向に転がらない。どうしても巡り合わせが悪い。これはもう自分の天命なのだと思わなければ、とてもじゃないが青春時代はやっていられなかった。小さい頃は失敗を馬鹿にされることが苦手だったのに、いつの間にか感覚も鈍り、不運の寵児などという、これっぽっちもめでたくない渾名で呼ばれることにも慣れ、自分で自分を卑下することにも躊躇うこともなくなった。


 思春期まっただ中の高校生になっても、渚は不幸に引き摺られた。


 僕に関わるとろくなことにならないよ、と周囲に牽制しながら心を閉ざしていた。


 そんな高校生活は、楽しさとは無縁なはずだった。


 けれど、たった一人だけ、固く閉ざした殻を何度も叩いてくる物好きがいた。


「僕のことなんか放っておいてくれ。付き合ってると、あずさの幸せが逃げていくだけだぞ」


「嘘はつかないほうがいいよ?」


「どういうこと?」


「……んー、そういうこと。気付いていないんだったら、そのほうが幸せってこともあるよね」


「? 一体なんのこと?」


「秘密」


「あ、ずるいぞそれっ」


「乙女は秘密が多い方が魅力的っていうでしょ? だから、野暮なことは聞かないの。格好いい男ってのは、そういうもんだよ」


「別に格好いい男になりたいわけじゃ――」


「そういうわけだからさ、自分が神様に好かれてないとか、不幸だとか、そういうのは言わせないよ。さして努力もしてないのに異性に好かれたことを疎ましく厄介に思うのか、それとも棚からぼた餅だラッキーって感じるのかはお任せするけどさ」


「自分のことぼた餅扱いする女子、君がはじめてだよ」


「あはっ、ありがと。君のはじめてもらっちゃった~」


「ちょっ! 馬鹿なに口走ってんだよ。誰かに勘違いされたらどうすんだ」


「勘違い? なんのこと?」


「……そういうとこだけチェリーガールなのかよ」


「そういうわけだからさ、これからよろしくね、渚」


「お、おう。よろしく……でいいのかな?」


「うんうん。間違いない」


 殻に閉じこもった渚を放っておかなかった園田そのだあずさだけが、ずっと側にいた。小動物じみた可愛さもあって、男子からの評判も高い彼女。放っておけない愛嬌があって、突き放しづらい雰囲気を纏っていて、渚にしてみれば高嶺の花もいいところだというのに。


 どうして、僕のばかり構うんだよ

 もっといい男がいるだろ。


 心のどこかでずっと思っていたけれど、渚はそれを口に出すことができなかった。理由を求めちゃいけない。何かのはずみで梓と噛み合っている歯車がずれてしまったら、今度こそ自分はこの世界で一人きりになってしまう。それだけは嫌だと思った。


 しばらくしてから、その気持ちをゆっくり分析してみて分かった。なにかを手に入れて、そこに執着するってこんな気持ちなのか、と他人事のように解釈してから、そうか、彼女のことが好きなんだ、という結論に行き着いた。愛とか恋ってのは、その相手にしっかり執着することだって言われるけれど、この感情がそうなんだ、と感慨に耽る。なんとなく付き合い始めて三カ月くらい経った頃、ようやくその答えが心にかちりとはまった。


 好きという気持ちが執着と結びつくなら、間違いない。梓を失いたくないと思っている。こればっかりは嘘がつけない。本心だ。


 まあ、恥ずかしいから言葉には決して出さないけれど。


「そんなひねくれてたらさ、もっと運がなくなっちゃうよ」


「別にいいよ」


「梓がやだもん。彼女のお願いなんだから、もっと頑張ろうって思わないのかな。もっと前向きになってみようよ」


「面倒だよ。それに、性格が変わったところで世界は変わらないし」


「そんなこと言わないでさ。ほんのちょっとだけ、ね?」


 小柄な彼女が上目遣いで声を潤ませた。その武器は卑怯だ。無碍に断れない。


「……まぁ、ちょっとだけなら」


「よしっ! そうと決まったら善は急げってやつだね。これから渚はもっと人と積極的に会話していこう。ね?」


「気が向いたらな。でも人と会話って苦手だし、梓が練習相手になってよ」


「全然おっけーだよ。じゃ、渚はこれからもっと元気だしてこっ!」


 梓という存在が側にいたおかげで、渚のひがんだ性格は次第に矯正されていった。


 梓が彼女になってから渚は人が変わったね、と言われるようになって、どうやら学校の中で久留米渚という人間の株はあがったようだった。恋人ができると急に魅力的に見える、という言葉があるけれど、なるほどこれがそういうことらしい。


 これまでの不幸を考えれば、青春をしていること自体が嘘のようだった。毎日が楽しくて、これが永遠に続けばいいのにとすら思えるほど、輝いた日常の連続があった。


 それもこれも梓のおかげ。


 幸せな時間は早送りのように過ぎていく、とはよく言ったもので、付き合いだしてからの日々はあっという間だった。


 やがて三年生にもなると、お互いにこれからのことを意識しはじめた。


 進学とか、就職とか、これからの関係とか。高校生であれば誰もが通る道。一人一人にとっては特別でも、高校生という枠で括ってしまえば大したイベント性もない、人生の通過点の一つ。


 それでも、渚にとって、これほどまでに悩んだことはない。進路なんて適当でよかったのに。自分の人生は自分だけのものとばかり思っていたのに。彼女ができて、そうもいかなくなった。


 すべては梓と描く将来のため。なんて言葉にしてみるとほんのちょっぴりこそばゆいけれど、本気で悩んだ。そうして渚が出した結論は、東京の大学に進学することだった。憧れの東京。息苦しいほどに何もかもが詰め込まれた、将来の可能性が満ちた環境。


 都会の真ん中で青春を謳歌できれば、人生はもっと豊かになる。


 出会いと刺激を受けて、もっと成長ができる。今よりも幸せになれる。梓を幸せにしてやれる。


「渚、おめでとうっ!」


「やったよ、梓!」


 第一希望だった大学の合格者一覧に自分の名前があるのを見た瞬間、渚は両手に握り拳を作ってパソコンの前で雄叫びをあげた。そのまま梓と抱き合って、込み上げてくる嬉しさを分かち合った。


 東央大学法学部への入学切符。


「そっかそっか合格かあ。渚、東京に行っちゃうんだね」


「東京と松本なんてバスでちょっとの距離だろ」


「そうれはそうだけど」


「でも、渚も頑張るんだもんね。梓だって頑張らないと、駄目だよね」


「側にいてやれなくて、ごめんな」


 肩を抱いて、伏し目がちに落ち込む梓を慰める。梓は長野に残って医療系の専門学校に通うことが決まっていた。


 つまり、一緒に東京にはこない。


 それだって梓自身の夢に繋がる選択だ。彼女を置いて東京に出ていく渚が彼女になにかを言う権利はない。


 だから、渚と梓が選んだ道は、俗に言うところの遠距離恋愛だった。


 そのことに梓は多少の不満があるようだったし、渚も思うところがないわけではなかったりするわけで。


「住む所が決まったら連絡するから」


「うん。東京に遊びにいくよ」


 けれど、お互い駄目だった。本音を言えないまま、後ろめたい感情に蓋をする。


 考えたくなかった。


 医療学校に進むんだったら東京でもよかったじゃないか、とか。


 地元にも大学があるんだから、こっちで進学してもよかったじゃない、とか。


 関係にひびを入れる言葉が、そのまま致命傷になるんじゃないかと怖くてたまらなかった。


 沸き立ってくる不安から目を逸らして、隠して、心地よい場所に逃げ込んだ。


 これからのことを中途半端にしたまま、渚は梓を置いて上京する。


 もしかしたら、という疑念を抱えたまま、遠距離恋愛が始まる。

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