第3話銀髪の双子、ニックとポーラは喧嘩する
丸石が敷き詰められた舗装道路を二人組の少年少女らが歩いている。そして同時に顔を上げた。一人は汗だくで歯を軋ませ、もう片方は疲労の色すら見せない快活な笑顔で旅の中継地である機工都市ウェインスタを指差している。
シャツの袖で汗を拭うのはニック・ロブスタ。彼の引く荷車には、内燃機関(レシプロエンジン)が積まれている。もう一方、鼻歌まじりに長かった旅路を懐かしむのはポーラ・ダージリン。
彼女が汗一つかかないのは疲れを知らないのではなく、ニックの引く荷車に座っているからである。二人は同じ職工を師匠とする、所謂、
上下関係は言うまでもなく、ポーラは姉弟子としてニックの引く荷車の台で長旅を過ごしていた。
「もーうっ、いい加減下りてくれたっていいじゃんかっ」
「どっちかが見張ってないとだめでしょ。荷台からエンジンが転げ落ちたら責任とれるの?」
「それは、うん、そうなんだけど……」
「でしょう? 大体あんたは弟弟子なんだからお姉ちゃんの言うこと聞いてればいいのっ!」
「なんだよ年上らしいことなんてしてくれたことないじゃんか」
「なんか言った、ニック?」
「なんでもないよ」
旅路で幾度も繰り返されたやり取りにニック自身、飽いている。このあと引き手を変わってくれと言えば、ポーラは女の私に重い荷車は引けないと返すのだ。決まって喧嘩になるのだが、中継地を前にして気分を害すこともない。ニックは大人しく引き下がり、ウェインスタの象徴でもあるマケラン時計台を眺めた。
「ああ、そうだ。ピラト河沿いにピアッソン&フェロー社の缶詰工場があるらしいんだけど、あとで行ってみない」、とポーラは荷台から言う。
「またそうやって食べることばっかりにお金かけるんじゃないか。路銀なんてとっくに尽きてるのによくもまあ、そんなのんきなこと言えるよね」
「何言ってるの、食は大切よ。具体的に言うとお金よりもずっとね」
「味なんて何だっていい癖に、すぐ食通ぶるんだから」
「ニック、何か言った?」
「なんでもないよ」
遅々として進まぬ二人の荷車を、道行く人々は奇異と嘲笑の目で見ていた。
荷車に積んでいるものがエンジンのみであることと二人の格好にあった。積まれているエンジンは、空冷4ストローク6バルブのパラツイン(並列二気筒)エンジン。機工都市にあってさえ4ストロークエンジンにおける主流はシングル(単気筒)エンジンである。
二気筒と単気筒では、当然、二気筒の方が出力が出る。
しかし技術的に開発が困難である二気筒エンジンは、設計は可能であっても技術者からは嫌われていたのだ。
つまりひと目でニックの運ぶエンジンは到底まともに動くとは思えなかった。
そのような経緯もあって産業博覧会の長距離レースが開かれる日に、役立たずの動力機関のみを運ぶ発明家崩れの田舎者。道行く人々はみな、二人の姿に似たような視線を投げかけた。
ともに銀髪の褐色肌、いわゆる南部焼けをしている上にニックはノーフォークジャケットにニッカボッカーズ・ズボン、鳥打帽というみすぼらしい子どもか浮浪者かという風体で、ポーラも膝下丈のコートチュニックにシャルヴァル、目深のトーク帽の上からゴーグルを身に着ける職工にありがちなスタイルである。
異民族や異教徒への懐の深いといえども、着衣に礼節を求めるウェインスタには到底見られない容姿だ。
それらはしかも月末の質屋で揃えた一張羅と言った風情で、退屈な職人着よりもあか抜けてはいる。
が、それでも田舎者と揶揄されても仕方のない出で立ちであり、一目で貧乏人だということがわかる。産業博覧会のさなかでなければ関所すら越えられなかったことだろう。
しかしニックもポーラも身なりに気を使わない性質であったため、二人は街人の視線を気にすることなく、旅の中継地であるウェインスタのベルフォート地区にたどり着いた。
そういう面で、彼らは幸運とも言えた。
「ねえ、ポーラ。ここって本当にウェインスタかな」
「そうよ。私が間違うわけないわ」
「そうだよねえ、ポーラが間違うわけないよ」
「当たり前よ。私を誰だと思ってるのよ」
ベルフォート地区は祭りのような賑わいである。
道路は乗り合い馬車やオムニバスが走り、脇には郊外から運んだ野菜や果物を置いた棚が居並び、花売りが歩く。さながら市場のようである。
ニックが荷台を引けなくなるほどの混雑ぶりで、サウステン大通りには発明家たちが自慢の発明品を声高に講義している。
石炭の煤のせいで視界は悪い。しかも鯨油ランプの異臭に加えてスチームエンジンが噴き出す蒸気と錆びの匂いが立ち込めている。
二人がウェインスタについて聞いていたのは、職人と機械の街―――人は蒸気機関を動かす程度、働くのは機械ばかりだという噂であった。だが蓋を開けてみればこの人だかりである。
二人とも、同じ角度で同じ方向に首を傾げた。
「ねえ、ニック。ここって本当にウェインスタなのかな」
「ポーラが自分で間違うわけないって言ったんじゃないか」
「いや、でもウェインスタってこんなに活気があるって聞いてないし」、「僕だっておんなじだよ」、「私だっておんなじよ」
二人はウェインスタからさらに東へ行ったアボット教会の救児院で育った。旅の目的は里帰りのためであったが、遠回りして機工都市へと観光に来た日が産業博覧会当日であったのだ。
「お師匠は人より機械のほうが多いくらいだって言ってたはずだよ」、ニックはひとまず荷台の手すりを地面に置いた。
「人の方が多いじゃない」
「多いね。ということは、ここウェインスタじゃないんだよ」
「そんな馬鹿なことあるわけないわ。地図にそう書いてある」
「誰からもらった地図?」
「古物市で売ってた」
「ねえポーラ。それは不安しかないよ」
「うっさい、あんたは私についてくればいいのっ!」
「やっぱりまっすぐ帰ろうよ」
「い、いやよっ。絶対マリンウォール公園に行くんだからっ」
「あ、やっぱりそれが目的なんだっ!」
「いいじゃない、あんただって観たいって言ったでしょっ!」
「言ったかなあ」
「言った。絶対言った」
「ポーラ、すぐ嘘つくからなあ。ウェストハイドの時だって」
「なんか言った、ニック?」
「なんでも」
ジェームス・スチュワート卿が設計したマリンウォール公園を一目見ることがポーラの夢であった。1ペニー切手に藩王とともに描かれたマリンウォール公園は、誰しも一度は観てみたいと思う娯楽の名所。ポーラは1ペニー切手を使いもせずよく眺めていたのだ。
しかしマリンウォール公園まで行くにはベルフォート地区からデ・ウーヴ教区へと渡る職人橋(クラフトマン・ブリッヂ)を通る必要があり、この混雑ぶりではいつになるかわからない。ニックは疲労で地面にしゃがみ込んだ。
「ねえ、ポーラ。もう疲れたから今日はもうどっかに泊まろうよう……」
「ニックの泣き言聞くとろくな目に合わないのだけど」とポーラはやや逡巡する。そもそもバイクで半日という道程が長旅になったのもニックが車体を半壊させたせいだ。なんとかエンジンだけは残せたものの、彼には常に不運がつきまとっている。
しかしである。ニックの言ったとおり路銀はもう底をついている。まさか、とは思ったがニックは何も言わなかった。姉弟子の彼女が悪だくみをするときの笑みに抗議したとて、聞き届けてくれた試しはないのだ。
ニックは荷台の車に寄りかかるようにして座り込んだ。
「よし、じゃあ待ってて」とようやくポーラは荷台から降りて辺りを見渡す。
一瞬、顔を伏せて前へ駆け出すと、貸本屋に立つコート姿の男の肩にぶつかった。大勢を崩した男に何事かまくしたてると、ポーラはピラト河の方角へと走り去った。
ポーラが得意とする摺りである。
恰好が長旅もあって貧乏人とそっくりなせいで、妙にさまになっている。というより、彼ら二人は長旅で路銀が尽きるたびに、摺りで乗り切っていたようなところがある。
男もポーラを追いかけたが、人込みの上羽織っているリーファーコートが周囲に威圧感を与えるせいで、身体を竦ませる通行人とぶつかった。リーファーコート姿の男はポーラから目を切り、再び人だかりの中へと消えていってしまった。
―――リーファーコート姿の男は、名をサッスオーロと云った。
彼は昨日のウィンザー卿の夜討ちで逃げ出した、藩王の食客であった。グレース王女亡命の手引きをしている男でもある。
そして摺りに対する天罰というべきか、ポーラが摺りの相手を彼に見定めたことにより、二人の運命は少しずつおかしな方向へと向かうこととなる。
ニックはいなくなったポーラが戻ってくるまで車輪の脇で膝を抱えて顔をうずめていた。もうポーラが摺りをして半時ほど経っている。
荷車を停めるニックに何やら文句を言う者もあれば、台座を蹴る者もある。邪魔だと唾を吐きかける者さえいたが、ニックはそれらすべてから耳を塞いで両膝にじっと眼窩を押し当てて泣いた。
彼は泣き虫であった。
マケラン時計台の、帝国教会の鐘を真似た音色が正午を告げていた。その頃には道行く人の数はずいぶん減っていた。
ウェインスタには畑も牧場もない。ゆえにラバル地方から朝方に運ばれる大量の食料品がウェインスタの人々の腹を満たしていた。サウステン大通りの混雑ぶりは日常で、しかも産業博覧会の当日とあれば早朝における人込みはひどいものである。
そんな中で、早く帰りたいとニックが思うのも仕方のないことで、しかしそのとき彼は頭を叩かれた。顔を上げると、立っているのは姉弟子のポーラである。
「ほら、ニック。いつまで泣いてんのよ。さっさと行くわよ」、ニックは耳に慣れた声に伏せていた顔を上げた。
「……何泣いてんのよ」
「だ、だって」
「そんなんだからバイク壊すのよ。ほら、これあげるから」
ポーラはニックの右袖を手に取った。美しい細工が施された赤いカフリンクス。Yシャツの袖を止めるための留め金である。ニックは目元を拭って、それをまじまじと見つめた。
「綺麗……」
「そうでしょ。あの男、結構な金持ちね。こんないい装飾品つけてるんだから」
袖のほつれたノーフォークジャケットから覗く赤い輝きはニックの心を虜にした。
「ありがとう、ポーラっ!」
「あ、いや……そんなに有難がられても……人のだし」
しかしその輝きを見る者がもう一人。
その後ろで、ぐっとニックの肩越しに赤いカフリンクスを覗きこんでいる老人がいる。ギルドのピンバッヂを胸に着けたフロックコート姿の老爺は、両手いっぱいに広告が印刷された藁半紙を抱えて二人に話しかけた。
「おや、坊ちゃんらはカーレースに参加するのかい?」
「……う、ううん。違うわ」とポーラは驚いた様子でその老爺を見つめた。
「おやあ、積み荷はエンジンだからと思ったんだけどなあ。んなら発明家連中の一味か。だったら宿は早めに探したほうがいいよ。最近、何かと物騒だからね」
「どうかしたんですか」
「はい、宣伝」
老人は一枚の藁半紙をニックに手渡した。内容は、老人が商会長を務める使用人ギルドの広告とテイラーメイド(衣服仕立て屋)のファッションプレートである。
「立て続けに人殺しが起きていてね。レース参加者ばかりを狙う奇妙な犯人で、ブロー・ノイズ氏などと呼ばれとるらしい」
ポーラはなんて嫌な名前だろうと眉をひそめた。
ブロー・ノイズ。エンジンブローによる騒音は、エンジンの破壊に繋がる。原因はいくらでもあるが、内燃機関に携わる者ならば不快な名前である。どうやら、職工らが恐怖するそのエンジンブロー音と殺人者をひっかけたあだ名らしい。
「よかったら、うちのギルド商会の会館に宿泊所があるからそこを借りるといい」
「え、いいのっ」とどんぐり眼で叫んだのはポーラであった。
「そりゃあ、そうさ。そんな物を身に着けてるんだからね」
老人はニックの袖についた赤いカフリンクスを顎で示してウィンクした。
「へえ、これってそんなすごいものなんだ。なんだか、可哀そうなことしたね」
「ちょっとニック、黙りなさい」とポーラはニックの脇腹を肘でついた。
赤いカフリンクスをニックがあまりに喜んだので、質に入れるべきかどうか悩んでいたのだ。しかしそれをつけていることで宿が見つかるなんてそんな都合の良いことはない。
二人は赤いカフリンクスがシン藩王家に縁を持つ者の証であることを知る由もなく、巡ってきた幸運としか考えていなかった。
「大事に持っておかなきゃね」
「そうだね。会ったらちゃんと返そうね」
しかしポーラはうん、とは言わなかった。彼女は少々、金にがめつい。ニックを無視して、満面の笑みでギルド商会長の老人に話しかけた。
「ねえ、おじいさん。カーレースにはいっぱい車が出るんでしょう」
「そうだよ。各国が速さを競うんだ。そりゃあ見ものだよ」
「ついでに場所を案内してくれない?」
ポーラはフロックコートの袖を引いた。しかしポーラの申し出に顔を青くしたのはニックである。
「えっ、ちょっと待ってよっ。エンジンはどうするの」
「あと少しだから、ね。ニック、頑張って」
ポーラはずり下がるゴーグルを所定の位置(額の上)に戻して、満面の笑みで老人の後ろを歩く。
二人とも、自身の持つカフリンクスに目を奪われて、その老爺の袖にある同じ赤いカフリンクスの輝きを見逃していた。いや見たとしてもその天衣無縫な性格が疑いを抱くことはないだろう。
もしそのカフリンクスの意味を知っていたならば、彼らの旅路はもっと楽だったに違いない。
老人に連れられてたどり着いたのはカーレースのスタート地点、聖メアリ広場である。
アーシェ街の少女像は噴水の真ん中に立ち、夕刻になると釣鐘を鳴らす。機械仕掛けの少女像はマケラン時計台と並び機工都市であるウェインスタのランドマークであった。
すでにカーレースのスタート地点には多くの車輌がひしめきあっていた。蒸気ガーニーをはじめとしたスタンダードな車輌から水力タービンエンジンといった変わり種までさまざまである。その数は200台を優に超えている。
「ねえ、ニック。まともにスタートできる車ってどのくらいかな」
「そうだね、ポーラ。32台ってところだろうね。でもまともなスピードを走れるのは10台もないんじゃないかな」
「ほんと詐欺師まがいの車輌ばっかりね」
「僕らほど精巧なエンジンはそうそうないからね」
同じ背丈をした二人が同時に背伸びをして広場を見渡している。
「ほう、坊ちゃんは車のことがわかるのかね」と老人はずらりと並んだ車輌を眺めて言う。
「そうよ、おじいさん。ニックが車輌を見れば一目で何でもわかっちゃうんだから。南部ではちょっとした有名人よ」
「はっはっは、まだまだ子どもだな、二人とも。観ただけでわかるんならレースをする意味がないだろう」
老爺はニックの鳥打帽に手を置いてぐりぐりと回した。
「だって本当だもん」と食い下がるポーラであったが、「そういうことを発明家連中の前で言うと笑われるくらいじゃすまないよ」と老爺が僅かに声色を低め、彼女は言葉を返すことをやめた。
老爺はそして、ギルド集会所へいったん戻ると言い残して二人と別れた。宿を手に入れた彼らの関心は今や目の前に広がる車輌の山のみである。
「ニック、いいこと思いついたんだけど」
「ポーラの思いつきを聞いてうまく言ったためしがないからなあ」
「うっさいわね。いい、カーレースが始まったら広場が壊れた車輌でどうせ
「うん、屑鉄の山になるね」
「つまりねニック、その屑鉄を使ってこの場で私たちの車輌を造り上げるの。車高を低くしたり、そうね、後輪にステップもつけて厚手で革張りの豪華なシートがいいわね。当然、二人乗りよ」
ニックはY字型に高々と万歳をした。
「ポーラ、それってすごくいい案だよっ」
「そうでしょう」とポーラはコートチュニックを脱いでシュミゼット一枚になった。
「そうとなったら、設計図作りましょう」
「そうだね、今のうちだね」
ポーラはシャルヴァルのポケットから取り出した白チョークで地面にバイクの図面を引いている。
「ここからアボット教会までの道はかなり荒れてるはずからサスペンションがいるね」
ニックはポーラの精緻な絵図面のフロントフォーク部を指差す。衝撃を吸収するサスペンションは凹凸の激しい荒野に必須の部品である。
「前にサスつけるなら、後ろもないと意味がないでしょう。お尻が痛いのだけは勘弁だわ」
「そうなると、フロントフォークとリアにサスペンションを持った車輌か……探すのが大変そうだね。インナーチューブとか、うん、フォークオイルだってできそこないが多いし。ブレーキホースですら碌なものがない」
前輪の衝撃を吸収するフロントフォークの構造をニックがあれこれと指摘する。
「大丈夫よ、各国から最高の車が集まったレースだもの。ほらあれなんてどう」
まるで壁画のように描かれたバイクの絵図面の脇には大量の数値と計算式。しかしポーラは手を止めて顔を上げると、一台のシングル(単気筒)バイクをチョークで示す。
「うーん……あの車輌、整備不良じゃないかな。ここからでもチューブに錆びが出てるのがわかるくらいだよ。シールからオイル滲んでる可能性が高い。あれだと怖いね」
前輪タイヤからハンドルまで伸びるフロントフォークには、インナーチューブと呼ばれる円筒型の筒が入っている。その中はオイルで満たされていて、それがハンドルから搭乗者がかける負荷を軽減する役目を担っている。
そのオイルが漏れないように密閉しているのが、シールと呼ばれるゴム製品である。シールからオイルが滲んでいると、それだけ前輪から受ける衝撃を吸収できなくなってしまうのだ。
「いいじゃない、10万キロ走るわけでもないのに。大体、ニックは神経質すぎるのよ」
「違うよ。このパラツインエンジンにはね、それに見合う車輌じゃないと動いてくれないんだ。ポーラ、僕らは世界で最高の一台を造り上げるって約束したじゃないか」
ポーラは一切妥協を見せそうにないニックにため息をついた。意気地がなく、泣き顔ばかりみせるニックであるが、バイクに関わると人が変わってしまう。
恐怖でバイクの運転ができないニックはしかし、才気に富んだエンジニアにありがちな美観と性能に執念めいたこだわりを見せるのだ。
時は発明と工夫が跋扈した時代である。
内燃機関の目指す方向性は、吸気から排気までの4行程(ストローク)を2行程にすることでピストン運動を向上させるか、4行程を持つ気筒を増やして排気量を上げるかという大きな二つの流れが存在したのだ。
内燃機関には4つの行程がある。
吸気、圧縮、爆発、排気。
ガソリンと空気を混ぜた混合気を気筒内に取り込んで、ピストンが持ち上がって空気は圧縮させる。その圧縮された空気を爆発させることで出力を生んでいる。最後に燃えた空気を排気するという行程だ。
しかしその4つの行程を2行程にまとめて動かすという発明がされた。それまで4行程であったエンジンが2行程に縮まったことで、同じサイズでも出力は2倍となる。が、ニックはその発明に乗ることはなく、同じ4つの行程を持つ気筒を増やして出力を上げるという選択をした。
「ねえ、ニック。どうして並列二気筒(パラツイン)にこだわるの」
「それはね、ポーラ。並列二気筒は360°位相クランク。720°で一度爆発する4
「でも……」
4行程の間に、クランクと呼ばれるタイヤを回す軸は2回転する。基本的にピストンの上下で軸は一度回転する。これが4行程の場合、吸気、圧縮でピストンが一度上下して、爆発、排気でもう一度ピストンが上下する。その力でタイヤの軸が2回転している。
しかしそれだと吸気と圧縮の間はただ空回りしているだけだ。つまり、軸が2回転しなければ、爆発という出力を生む機会がないともいえる。
その肩代わりをするために、ニックはもう一つ気筒を設けて軸が1回転する間に一度、どちらかの気筒が爆発する仕組みを作ったのだ。
それが360°位相クランク。
1回転でどちらかのエンジンが1度爆発する。
しかし二人が造り上げた並列二気筒(パラツイン)の課題は今もなお克服されていない。並列二気筒用に設計した車体はウェインスタに到着する前に振動で半壊し、残ったのはエンジンのみである。それほどに、気筒が2つ並んでいる車体というのは、爆発の衝撃に耐えられず、壊れやすい。
しかし双子のように並んだシリンダは、ポーラとニックの姿を思わせるのだ。だからこそ、ニックは2気筒にこだわっている。
「世界中の車が集まるこのレースなら、きっといい部品が手に入ると思うんだ。だから、できるよ。世界で最高の一台が」
「そうね……ニックがそう言うのなら、きっとできるわ」
二人は旅の目的が救児院への里帰りであることを忘れかけていた。それは数百台がひしめき合うレース会場の熱気のせいであった。レースに参加せずとも彼らに匹敵するバイクを造り上げようと二人は互いに目を見合わせ、無言の中で誓い合った。
並列二気筒エンジンに耐えうる重厚さと美しさを兼ね備えた車体―――。
二人は何百台ものエンジンがうなりを上げる聖メアリ広場の隅で、石床一面に図面を描いては必要な部品をリストアップする。ニックの見立てによれば、生き残るのはわずかに32台。他はすべて、二人が得られるはずのものだ。
理想のエンジンを載せる車体の図面が完成に近づくと、自ずと二人の期待は膨らみ、とっくにレースがスタートしてしまったことにすら、二人は気がついていなかった。
―――産業博覧会カーレースのスタートを知らせる砲声がウェインスタに鳴り響いた。
スタートの合図で車が動かないならば、まだ良いほうであった。
広場の各所で起きる衝突事故、キャブレターから漏れたガソリンが引火し燃え上がる三輪車輌や火室が爆発する蒸気ガーニー、ブレーキが利かずに転倒するバイクにタービンの推進力が強すぎ、車体もろとも粉々になる四輪車など広場は大混乱となった。
ようやく二人の図面が完了し、顔を上げたときにようやくスタートした車輌はたったの29台。ニックの目算よりも3台少ない数でレースはスタートしたのである。
鉄屑の山となった聖メアリ広場に、二人の心は踊った。活用できる部品は山のようにある。気化したガソリンの匂いが立ち込める中、二人はお揃いのゴーグルを嵌めた。
軽く身体を動かして大仕事に備えようとしたそのときである。
「お、お願いですっ。助けてくださいっ」
背後からニックの臆病な心臓を貫くほどの、切羽詰まった声が響いた。振り向くと、両手に鳥の羽のようなものを持ったナイトドレスに下着姿の少女がニックの袖を掴んだ。あまりの衝撃にニックのゴーグルは首元までずり下がり、二人はその少女に言葉を発することすらできなかった。
少女は両手に抱えた機械越しに胸を押さえて息を整える。努めて落ち着いた声で、少女は言った。
「藩王家の者ですっ! 名前はグレースと言います」
乱れた髪を梳かしている。
しかも少女は追われているのか、しきりに辺りを気にしていた。
腕に抱いているのはどうやら機械らしいが、観るにつけ不思議な外観をしていた。羽が上下に駆動する仕組みのようだが、動力となる機関も、燃料を貯蔵するタンクも存在しない。むしろ複雑な紙飛行機と言ったほうが近かった。
二人にはまるで状況が読めず、絞り出すような声でポーラが「ちょっと、どうでもいいけど、図面は踏まないで」と言うほかなかった。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんね、大事な図面だからさ。あとポーラはお腹が空いてて怒りっぽくなってるんだ」
「ニック、うっさい」
グレースは慌てて石床一面に書かれた文字から足を退けた。ニックが袖に身に着けている赤いカフリンクス。それだけを頼りに街の方々を裸足で走ったグレースにとって、二人の反応は落胆でしかなかった。
「それでグレース、さん? 藩王家の者ってのは……」
「あ、あの……私、サッスオーロに言われて、あの、あの、赤いカフリンクスが―――」
「え、なんだって?」、ポーラは怪しさ満点の少女を訝しんだ。
そのときである。
鉄屑の山だけが残った聖メアリ広場に、銅鐘を衝くような鈍い音が響き渡った。そしてグレースの名前を叫び、追う者の声。彼らの駆る車輌は、何百と出そろっていたレース会場に一台たりとも類例をみなかった。
蒸気機関車の機関部車輌ほどはあろうかという巨大な車輌が、ゴガ、ガガガいう不穏な音を広場に響かせている。その巨躯はガソリン・エンジンとほぼ同等の駆動を見せていた。しかしガソリンエンジンがあのようなけたたましい音で出力を生むわけがない。
「あれ、お連れさん?」、ポーラは首を傾げた。
「そんなわけないだろ、やっぱりこの子追われてるんだよっ!」
「ほ、ほんとだったの? 私、てっきり詐欺師の一味かなって」
「ね、ねえ。ほんとにグレース王女様なの?」
のんびりと向かってくる巨大な車輌を眺める田舎者二人を待っている余裕など、グレースにはなかった。
彼らを説得するより自分の足で逃げた方が早い。グレースはそちらに賭けた。
「す、すいませんっ。ではこれだけでも―――お願いいたしますっ」
自身を追う黒塗りの大車輌にグレースの肩が竦む。その音に抗うようにニックとポーラの二人に拳ほどの大きさの石を手渡し、デ・ウーヴ教区に至る街道へと走り去った。
ニックの手は零れそうなほどの青い輝きで満ちている。鉱石ならば売れる、と思わず笑んだポーラだったが、ニックの肩が小刻みに震えているのを見て怪訝に顔を歪めた。
「どうしたのよ。というか、さっきのなんだったの」
二人にしてみれば、グレースという藩王家の王女と同じ名の少女に勝手に助けを求められ、答える前に青い石を渡されて彼女自身はどこかへ行ってしまったのだ。
「ねえ、ポーラ。これ、シン藩王家の紋章が入ってる」
「シン藩王家の青い石ねえ。まさか永久機関じゃあるまいし」
「それが、ポーラ。これ、永久機関みたいなんだ」
ロータリー式に回転する永久機関は、その回転によって藩王家の紋章を浮かび上がらせている。
「え……嘘。あの子、本物の王女様っ!?」
「あああああ、無礼な口聞いちゃった、捕まるかなっ?」
「んなことどうだっていいでしょうっ、バカニック。追われてたじゃないっ! しかも永久機関よ、こんなどえらいもの持ってたら、藩王家の人たちに殺されても文句言えないわよっ!」
「じゃ、じゃあ……か、返さなきゃ」
「そ、そうだわ。返さなきゃっ」、その後ろ姿を追いかける二人であったが、聖メアリ広場の奥でさきほどの少女が黒塗りの車輌に連れ込まれるのを見てしまった。
「ああ、どうしよう。今度は助けなきゃっ!」
「なんであの子の言うこと信用しなかったのよっ!」
「疑ってたのはそっちじゃんっ!」
「うるさいバカニック、口答えすんなっ!」
「バイクで追いかけよう。あの黒塗りの車をっ!!」
「もうもうもうもう、なんなのよなんでこんなことになるのよっ!!!!」
気が動転して狼狽える二人だったが、かの少女を助けるべく数多の車体が眠る屑鉄の山へと駆け出した。幸運にも黒塗りの車輌はレースコースへと走り去った、ということはあの車輌を駆動させるのは参加者(レーサー)だ。
ニックとポーラは突貫工事でバイクを完成させて、グレース王女を追いかけることに決めた。
しかし二人は盗んだ赤いカフリンクスが、奇妙な縁を次々に引き寄せていることにまだ気づいてはいなかった。いや、彼らはきっと永遠に気づくことはないのである。
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