第2話そしてグレース王女は窓から飛び降りた

 ノックを二回、そのあとに三回―――。


 グレースがサッスオーロに教えられた緊急時用のノックである。そのあとに、扉の外で銃声が鳴った。グレースはナイトドレスのまま立ち上がり、扉を開けた。


「サッスオーロっ、どうしたの」

「なあに、藩王様とウィンザー卿のいつもの喧嘩です。しかし今回ばかりはお嬢様にも危害が及びますので」

「どこに、どこにいらっしゃるの」

「それはこれから、お話しいたします」


 サッスオーロは扉に鍵をして、リーファーコートのポケットからこぶし大の鉄塊をグレースに見せた。受け取った鉄塊は風切り音を響かせている。内部ではロータリーエンジンが静かな制動を繰り返していた。中には水色の液体に満たされているが、その物質を知る者は藩王しかいない。


―――永久機関。『 Eden`sblue』、藩王はそう呼んでいた。


  それは、藩王が造りだした最も偉大な発明だと噂された。

王としてよりも、発明家としてこの国を一大技術国へと押し上げた藩王の功績は大きい。だがそれは執政官として王の補佐をするウィンザー卿との確執の種でもあった。


「これは……」

「明日の朝に産業博覧会でカーレースがあることはご存知ですか」

「は、はい」

  産業博覧会カーレース。

 それは各国から高性能のエンジンを持つ車両を競わせ、自国の技術力を知らしめる好機としてもてはやされた。


 道行は藩王国を縦断する800マイル。そしていかなる手段を使ってでも国境のバクーヤへと先にゴールした自国産車には世界中で最も優秀なエンジンと認められる。


「藩王様はそのレースに紛れ込み、国外へと亡命する手筈です。ただしお嬢様、あなたにそのような危険な目に合わせるわけにはいき

ません」

「お、お父様が……わ、私はどうなるのですか」

サッスオーロは、グレースの震える両肩を抱いて、まっすぐその瞳を見つめる。

「時間がありません。とにかく逃げるしかないのです」

「で、でも……昨日までそんなこと言われたことなかったのに、どうして急に……」


 その右手には櫛が握られている。

 まだこの後におよび、自分の髪を梳けると思う世間知らずな王女を納得させる方法などはない。それを悟ったサッスオーロは、グレースを抱きかかえると、無理やり窓際に立たせた。如何に無礼な手段であったとしても、グレースを生かすこと。それがサッスオーロにとって藩王への忠誠の証であった。


「いいですか、街へ出たらここへ帰ってきてはなりません。もしウィンザー卿に捕まった場合は今話したことをすべてお話しすることです。そうすればお嬢様の命が奪われることはありません。ただ生きることだけを考えるのです」

  サッスオーロは出窓に置かれたマーガリンの空箱を横にどけると(グレースには空箱集めの趣味があった)、避難用にと窓枠の水切りにつりさげておいた荷物を引き揚げた。


  永久機関を初めて諸侯らの前で披露したときに使った羽ばたき機械である。エンジン部に何も積まれておらず、グレースにも軽々と持ち上げられるその機械は、永久機関がすっぽり嵌るほどの穴があった。


  そして離別のときが訪れた。

 サッスオーロはコートの袖をまくり、グレースにシャツについた赤色に輝くカフリンクスを見せた。

「藩王様は多くの人々に慕われておいでです。お嬢様の手助けをする者は街中に溢れています。仲間はみな、王家の紋の入った赤いカフリンクスをしておりますから、その者に助けを求めてください」

「そんな……サッスオーロもついてきてくれるのよね」


 尋ねた答えを聞くよりも早く扉が破られた。サッスオーロは応戦するために懐に忍ばせていた拳銃を握った。

「ではお嬢様、ここから飛び降りるのです」


  言うなり、サッスオーロは窓際に立っていたグレースを窓の外へ突き落した。別棟の二階といえども、地面まで距離がある。が、永久機関は羽ばたき機にすっぽりと嵌り、はたはたと羽根を起動させると、ゆっくり頭をもたげてグレースの許へと飛翔する。


  グレースは必死に羽ばたき機の足にしがみついた。ロータリーエンジンは唸り声を上げる。一度地面すれすれまで高度を下げたが、エンジンが激しく稼働するにつれて羽ばたき機はぐんぐんと空へと舞う。

  グレースは一度振り返ったが、蝋燭の淡い光に満ちた屋敷の内部で何が起きているのか知ることはできなかった。グレースの耳に届いたのは銃声と永久機関の駆動音、そして眼下には産業博覧会を控えた街のにぎやかな喧騒があるばかりであった。


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