アヤカシ記者、七変化ノ香ニ酔フ。

黄鱗きいろ

第一話「付喪神ノ心ヲ想フノ事」/其の一

 しとしとと小雨が降っていました。


 足元には飛び石があって、飛び石を辿っていった先にはアジサイが鮮やかに咲いています。アジサイの色は一色ではありません。紫、淡いピンク、青。色とりどりのアジサイが雨粒に濡れています。


 幼い私はピンクのゴム鞠を両手で抱えて、そこに立っていました。


 そうだ、ここは昔住んでいた家のお庭です。


 唐突にそう思い出しました。そして、目の前に同じ年頃の男の子がいることにも気づきました。


 男の子は俯いてもじもじとしています。


「しよちゃん?」


 それがこの男の子の名前なのでしょう。今よりも高くて幼い声色でそう尋ねると、男の子はぱっと顔を上げました。きゅっと唇を引き絞り、決意に満ちた表情をしています。


「あおちゃん! ぼ、ぼくと……、けっこんしてください!」


 私は首を傾げました。多分、言われた意味が一瞬分からなかったのです。でもその後すぐに、私は「しよちゃん」に笑いかけていました。


「いいよ!」


「ほ、ほんと?」


「わたし、しよちゃんのこと好きだし、いいよっ!」


 何という短絡思考。自分の事ながらひやひやしてしまいます。でも、これくらいの年頃の子なら、こんな風に考えるのも仕方がないのかもしれません。


 不安そうな表情をしていた「しよちゃん」は、ぱあっと花が開くかのように目を輝かせ、私の手を握りました。抱えていたピンクのゴム鞠がてんてんと転がり、アジサイの根本まで転がっていってしまいます。


「じゃあけっこんしきしよう!」


「いいよー! でもおとなになったらね!」


 それまで嬉しそうだった「しよちゃん」の表情が曇ります。


「えっ、すぐにじゃないの……?」


 今にも泣き出しそうになっている「しよちゃん」には気づいていないのでしょう。私はえっへんと胸を張りました。


「しよちゃん知らないの? けっこんはおとなにならないとできないんだよ!」


「そっか……そうなんだ……」


 「しよちゃん」は明らかに落胆した様子でした。きっと大人にならないと結婚できないことを知らなかったのでしょう。それでも「しよちゃん」は諦めず、自慢げな私に食い下がりました。


「じゃあじゃあ、おとなになったらけっこんしようね!」


「うん、いいよ!」


 私は一も二もなく頷きました。


「やくそくだからね!」


「うん、やくそく!」


 はい、と私が小指を差し出すと、「しよちゃん」は一度きょとんとしたあと、おずおずとその小指に自分の小指を絡めました。


「ゆーびきーりげんまん、うーそついたら、はーりせんぼんのーます! ゆびきった!」





 ――懐かしい夢を見た気がします。柔らかな靄に包まれるような、雨の後に残る香りのような、そんな夢を。


 だけどその内容はどうやら夢の中に置き去りにしてきてしまったようで、どんな夢だったのかは今の私にはもう分かりません。もどかしくは思いますが仕方ありません。夢とは往々にしてそういうものですから。


 寝間着の前を整えながらカレンダーと時計に視線を走らせます。


 今日は七月二十日。時間は朝の六時半。少し早く起きすぎました。


 いえ、学校がある時期はこの時間でいいのですが、生憎と学校は既に夏休みに入っているのです。蒸し暑い季節とはいえ、もう少し惰眠をむさぼっておくべきでした。


 鏡台まで這っていって、つげの櫛を手に取ります。起きてしまったのであれば仕方ありません。身なりを整えて朝ご飯に備えなければ。


 目をしょぼしょぼさせながら、櫛を髪に通して引っ張ったその時、ぱき、と嫌な音が手元から聞こえてきました。


「あー! お気に入りだったのに!」


 見ると、櫛の歯が一本欠けてしまっていたのです。私は肩を落として大きくため息を吐きました。


 もう、朝からとっても縁起が悪いです。






「えっ、お父さんとお母さん、帰ってくるんですか!?」


 朝食の席でもたらされた情報に、私はすすっていたお味噌汁を危うく気管に入れてしまうところでした。そんな私の反応を見て、向かいに座っていたお手伝いの良江さんは眉尻を下げます。


「もう、そんな嫌そうな顔するもんじゃありませんよ。実の親子でしょうに」


「うう、だってー……」


 そう、私こと籔内あおいは、両親とあまり仲がよいとはいえない関係にあるのです。


 理由は明白。私の両親はいつも仕事のことばかりで、あまり私に興味がないのです。


 いえ、高等女学校に通わせてもらっているのだから、一応は興味を持たれているのでしょう。ですが商売の都合で私と両親は別居していますし、もう三年もお互いの顔をろくに見ていません。手紙だってほとんどよこさないのです。


「今日の二時頃に帰られるそうですよ」


「ええー、何しに来るんですか……」


「それは聞いていません。ですが、帰ってくる時間には必ずあおいさんは家にいるように、とお手紙が来ていました」


「そんな勝手な……」


 ぶつぶつと口の中で呟きながら、お茶碗を持ち上げます。折角の美味しい朝御飯なのにろくに味がしません。台無しです。


 良江さんはそんな私に向かって滔々と両親の大切さについて語っています。これはもはやお説教というやつです。私は渋い顔をしながらご飯の残りをかきこみました。


「あおいさん。聞いてますか?」


 お茶碗に残った米粒の最後の一粒まで食べ終わり、私はぱんと手を合わせました。


「ごちそうさまでした! いってきます!」


「ああもう! 逃げるんじゃありません!」


 立ち上がり、鞄を掴んで玄関へと走り出した私の背中に、廊下に身を乗り出した良江さんの声が飛んできます。


「二時頃までには帰ってくるんですよー!」


「はあい!」


 玄関から飛び出して、軽い足取りで私は駆けていきます。


 なびくスカートのポケットの中では、つげの櫛が揺れています。


 さあ嫌なことは忘れてしまいましょう。


 今日も今日とて、私は先生の事務所に向かうのです。

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