霧の中

鷲峰すがお

霧の中

小川が傍を流れる不吉なカーブを徒歩とさほど変わらぬ速度で曲がり終えた。フロントガラス越しに映る視界がドライアイスで演出された昭和の歌謡ステージのように霧で覆われ始めた。助手席の高野昭文が肌寒さを覚え身震いすると、運転中の幹事は隣を一瞥しヒーターのつまみをひとメモリ分強くした。

「すみません」高野は幹事の配慮に対して礼を言った。

「霧」リアシートの左側、ちょうど高野の後ろに座った男の声を始めて耳にした。考えてみれば出会ってからまだ幹事と二言三言の会話をしただけだ。高野が身をねじって後ろを向くと男は無表情な顔で再び「霧」と呟いた。隣に座る、大きなサングラスで顔全体を覆い隠した女も車中無言で過ごしている。

「そうですね。幹事さん。気をつけてくださいね。こんなときに事故でも起こしたら目も当てられない」高野は前に向き直り、幹事が必要以上に慎重に運転していることはわかっていたがあえて口にした。

「分かっています。ガードレールを破って崖下に落ちて全治一か月、なんてなったら最悪ですからね。この道は3度目なのでスピードさえ注意すればさほど危険ではありません。対向車はまずないですし」

「よくこんな山道をご存じでしたね。地元でもないんでしょう?」

「ええ。ネットで調べました。始めは下見で来て、2回目は恋人と」幹事の横顔は思いを馳せているようでもあり、ただ運転に没頭しているようでもあり、表情からは窺い知ることができない。

「そうですか。余計な質問でしたね。経験者ですよね。すみません」

「気にしないでください」幹事は再び前方を注意深く見つめた。

 数分前まではFMラジオを流していた。本線から外れ、森に吸い込まれるように未舗装の道に入ると、音が途切れるようになったので切ってしまった。それ以来車内は異様な静寂に満ちている。徐行しながら進むワゴンのカラカラとしたエンジン音と砂利がタイヤに弾かれる音だけが聴覚を刺激した。徐々に無音の世界へと移行しているようだった。高野はヘッドライトが照らす霧とそこから覗く地面を見ながら、たった三時間ほどの移動で渋谷の人ごみにまみれた喧騒と極地の世界が存在することに驚きを覚えた。


 集合場所はセルリアンタワーホテルの前だった。傍のコンビニで少年ジャンプを購入すること、それがサイトで交わされた約束だった。ホテル前の国道二四六号線に沿って並ぶタクシーを邪魔するように黒いワゴン車が止まっていた。高野が約束された時間に訪れるとワゴン車の横には少年ジャンプとセカンドバッグを小脇に抱えた男が立っていた。ツイードのジャケットに折り目の正しく入ったチノパン、コインローファーの靴、短く刈り込んだヘアスタイルから上品な印象を受けた。彼が幹事だろう、一目見て高野は確信した。親戚や友人、昔の恋人にまで頼った形振り構わない金策にも尽き、絶望した高野はあるサイトのチャットルームで幹事と出会った。幹事の丁寧な口ぶりと経験者であるという言葉が決め手となって高野は人生の最後を幹事に任せることにした。できれば苦しまずに死にたい。幹事の外見で好印象を持った高野は最後の決断をして少年ジャンプを購入した。声を掛けてお互い確認し合えば後には戻れない。散々悩み抜いた後でも高野の足取りは鈍かった。

 実際はコンビニから出るとすぐに声を掛けられた。期せずして歯車が回り始めたことに高野は戸惑いを覚えた。高野さんですか?と問われ、ええ、そうですのセリフを答えるのにたっぷり一分間必要だった。

 先程は気付かなかったが、黒いジャンパー姿の学生がワゴン車の横でボストンバッグを片腕に掛け漫画を読んでいた。この男もメンバーなのだろうか? この状況でよくマンガなど読む気があるものだ。嫌悪感を持ったのではない。感心したのでもない。ただ不思議だった。色々な人間がいてそれぞれの事情がある。高野はそう納得した。

「あと一人女性が来る予定です。七時半まで待ちましょう」幹事が言うやいなや、つば広の帽子に白いワンピースの女性がジャンプを抱えてコンビニから出てきた。芸能人の変装みたいに大きなサングラスをしている。どうして派出な恰好をしているのだろう、という疑問は彼女の右手に握られた白い杖を見てすぐに氷解した。どこから見ても目立つ身なりをしていた彼女だが周囲から無遠慮な視線を浴びることはなかった。幹事が彼女の元へ駆け寄り声を掛け、ワゴン車までエスコートしスライドドアを開けてあげる。黒ジャンパーが女性に続いたので、高野は助手席に乗り込んだ。

 ワゴン車は西に向けて出発した。帰宅のラッシュに捕まり八王子を抜けるまで断続的な渋滞に見舞われた。途中二回のコンビニ休憩を挟んでおよそ三時間、一団は目的地に近づいてきた。景色だけで判断すれば、ここの住所が東京都であることを信じるのは難しかった。


 車一台分の砂利道を逸れ、さらに荒れた道なき道に五分ほど入ったところで幹事はワゴン車を停止させた。杉林や草木に囲まれてぽっかりとした空間がミステリーサークルのように広がっている。エンジンを切ると辺りは無音に支配された。

「ここです」

ヘッドライトが草木の中に朽ちた冷蔵庫やソファ、バイクなどを照らしだしている。ここは粗大ゴミの違法投棄場となっているみたいだ。「粗大ゴミか」、自分も同じ場所で朽ちていくことを想像して高野は自嘲的な気分で呟いた。

「まずみなさんトイレにいってください。できれば大きい方で。発見時には必ず粗相をしてしまいます。警察や確認者に糞尿まみれのみっともない姿を見せたくなければ済ませてください」

「必ず漏らしちゃうもんなんですか?」

「ええ、多かれ少なかれ。直前に排出していれば量は減り見栄えも悪くなりません」

「さっきコンビニに寄った時教えてくれれば良かったのに」

「すみません。常識としてご存じかと。配慮が足りませんでした」

 そんな常識なんてあるかと怒りで反論しそうになったが胸に押し留めた。当人もこれから自殺しようとしているのだ。他人への配慮などできないのが普通だろう。自殺場所の提供と経験者の知識を分けてくれるのだ。非難する資格などない。

「私、どうしたらいいでしょうか?」か細い声でサングラスの女が質問した。女性で盲目なのだ。自分以上に深刻な問題だろう。

「私がちょうどいい場所までエスコートします。それから離れますので終わったら大きな声で呼んでください。恥ずかしい思いをさせて申し訳ありませんが私を信頼していただくよりないです。汚い姿で発見されるより良いはずです」

「わかりました。お願いします」

「ボックスティッシュとマンガを私が持っていきますので」

「マンガ?」

「ええ。それで出したものを隠してください。やっぱり終わった後でも見られたくないと思いまして」

 目の見えない女性が自分の排泄物をマンガで隠すのは難しいのではないか、そんな疑問が過ぎったがないよりはましであろう。このことを想定してマンガを目印にしたのだろうか? 他人への気遣いがあるのかないのかわからない幹事が運転席から降りて後部座席のドアをスライドさせた。サングラスの女性の手をとってエスコートしながらワゴン車から離れる。ヘッドライトが照らす範囲から二人の後姿が消えた。

 数分して幹事だけが戻ってきた。車外で一服している。幹事が喫煙者であることをそのときまで気付かなかった。自分の車なのに他人に遠慮して我慢していたのだろう。やっぱり彼は他人の気持ちの分かる思慮深い人間だ。トイレの件はたまたま漏れたのだろう。チャットで初めて会話をした時に抱いた第一印象を高野は改めて確信した。

彼女の次は黒ジャンパーだった。彼はサングラスの女性と同じ方向へと向かった。

 続いて高野がトイレタイムを取った。高野はワゴン車の後方部へ適したスペースを探しに行った。彼女と違う方向を目指したのはやはり遠慮したからだ。彼女も自分の排泄物を見られたくはないであろう。自分も見たくない。ヘッドライトは当たらないが月明かりで歩くのに支障はなかった。見上げると木々の上空に満月が煌々と輝いていた。自殺日和、そんな言葉が頭の片隅を過ぎった。


「目貼りしますので手伝ってください」全員が車内に戻ると幹事から黒いビニールテープを手渡された。幹事と黒ジャンパーが後部座席で作業を始めたので助手席と運転席の窓枠を高野が担当した。サングラスの女性は邪魔にならないよう小さい身体をさらに委縮させていた。幹事が全ての目貼りを確認したあと、後部座席のシートを倒し、平なスペースを造った。車の一番後ろに積んであった囲炉裏を中心に添え、十分な量の練炭をくべた。その隣に謎の代物――ペットボトル製で夏休みの自由課題みたいだ――を置いた。

「これ、なんですか?」

「こことここにそれぞれ塩素と硫黄を入れます。この糸が引っ張られると敷居の板が外れる仕掛けになってます。外れるとこの中の羽根がスクリューの役割をします。二つの液体が混ざって硫化水素ガスが発生します」

「練炭だけではないのですか?」

「サイトでも説明しましたが、練炭自殺が一番苦しみの少ない方法です。但し発見が早かった場合助かってしまう可能性があります。私のようにね。硫化水素は確実ですが苦しみを伴います。職業柄何度か硫化水素で自殺した遺体を拝見しましたがその表情には苦しみが如実に表れています。そこでこれを考案しました。この糸を私の手首に巻きつけておく。練炭を炊いて一酸化炭素中毒で私の意識が無くなり倒れれば糸が引っ張られ硫化水素ガスが発生します。これで苦しみのない確実な自殺ができるはずです」幹事は説明しながらてきぱきと準備を進めていった。自殺を決意した理由など知らないがきっと優秀な人間なのだろう。理路整然とした説明や手際の良さから推察できた。

「さて、用意はできました。今宵は満月で死ぬには良い日です。最後の杯はいかがですか?」

幹事がカミュのバカラを取り出した。高級ブランデーだ。

「わざわざトイレを済ませたのにいいのですか?」

「小さいことに気を遣うのは止しましょう。これが最後なんです。これくらいの贅沢でばちは当たらないでしょう」全員の賛同を得た幹事は紙コップを配り、酒を注いだ。

「市販の睡眠導入剤を用意してますので後で渡します。眠ってしまった方が楽ですから。睡眠薬も簡単に入手できるのですが医師としての倫理観から拝借するのは止めにしました」

「お医者さまなんですか?」先程からほとんど言葉を発していないサングラスの彼女が訊ねた。

「はい。専門は脳外科医です。私としてはもっと医療行為に専念したいのですが父から無理矢理研究員として働かされております。大学病院という所は国会以上に政治力が物言う場所でして。一兵卒の私は理事長である父には逆らえないのです。おっと、どうでもいい話ですね。失礼しました」

「医者だったのですか。どうりで指示ぶりが堂に入っていると思いました。病院の話を良ければもう少し聞きたいですね」アルコールを摂取し余計に気持ちが不安で揺らいできた。何でもいいから人の話を聞きたいというのが本音だった。

「そうだ。どうせ最後なのですからそれぞれの人生を語るってのはどうですか? 時間もブランデーもまだまだあります」幹事が提案すると、誰からも異論は出なかった。やはりみんな淋しいのだろう。車内灯の弱い灯りが心の弱さを際立たせているようだった。

「では、私から始めたいと思います。退屈な場合は聞き流してください。自分の中でけりをつける、そう位置付けして私の物語を語らせていただきます。先程も述べましたが私は医者です。聖メリーアン大学病院というところに勤めております。結構大きな大学病院ですので聞いたことあるかもしれません。祖父が開業して現在二代目である父が理事長と学長を兼任しております。そんな職場ですからかなり甘やかされると同時に不自由な思いをしてきました。ある日、泌尿器科に水腎症にて入院してきた患者がいました。私のクランケではなかったのですが中庭で何度か顔を合わせるうちに我々は親しくなりました。学生の頃より趣味のカメラ以外は学業に専念していたので、恥ずかしながらそれまで本格的な恋愛という経験がありません。ほどなくして彼女に惹かれる自分を認めずにはいられませんでした。彼女の方からも好意をいただきました。退院後、本格的なお付き合いを始めました。彼女は外見こそハイカラでしたが、お弁当屋で働く芯の強い健気な女性でした」幹事はそこまで一息に語り、紙コップに残ったブランデーを一気に煽った。

「半年後父に婚約者として彼女を紹介しました。入院患者であったことを伝えてね。数日後父から猛反対に合いました」「父は彼女の素行調査をしていました。報告によると彼女は最近、つまり入院するまで風俗嬢だったそうです」「信じられない私は彼女に問いただしました。彼女は全てを告白してくれました。両親の事業の失敗による借金、返済のため風俗の世界に飛び込んだこと、両親が亡くなったので返済する必要はなくなったが、それまでの心労と過酷な労働で水腎症になってしまったこと、退院後は足を洗ったこと」「正直風俗嬢だったのはショックです。ですが彼女自身は真直ぐな人間でした。不幸な状況は無くなりました。大事なのはこれからです」「私は改めて父に申し入れをしました。しかし保守的な父は受け入れてくれませんでした。そんなときまた彼女が倒れました」「癌でした。判断ミスです。入院時のCT画像を見れば癌の兆候は明らかでした。その時点で各所に転移していて手遅れでした。いろいろあって我々が選んだ道は死でした」「来生で結ばれることを約束して心中しましたが見ての通り私だけが生き残ってしまいました。しばらく入院生活でしたがやっと先週退院できました。きっと淋しい思いで私を待っています」

長い幹事の独白が閉じられた。幹事の瞳から一筋の涙が流れていた。


「僕は統合失調症なんです」無口な黒ジャンパーは話すたびに長い間を必要とした。ブランデーも一口つけただけで止めている。下戸なのかもしれない。

「自覚はあるのかな?」幹事が訊く。

「はい。薬を処方してもらってます」――沈黙。

「今でも、その、聞こえるの」

「はい。ずっと。死ね。死ね。死ね。親、高校の教諭、友達、知らない人、みんなから」――沈黙。

「薬を飲めば弱くはなりますが副作用で記憶力が弱くなりました。全てメモしないとダメです」――沈黙。

「あるふぃのことです。母と散歩に出かけました。母が公園のトイレで用を足している短い間に自分が一人でいる理由が分からなくなり不安で叫びました。遅れて現れた母を殴りつけました。母は骨折しました」

「それはつらいけどしょうがないよ。病気の所為だ。きちんと病気と向き合っていかないと」同情しているのだろう。幹事も顔を赤くして応対している。

「僕はもう抵抗するのに疲れました。母を楽にさせてあげたい」そのセリフを最後に彼は頭を抱えた。


 彼女の紙コップを見て幹事がおかわりを注いであげた。彼がホストとなって司会をこなしている、そんな体裁だった。ある意味理想的な幹事と言えるだろう。この会に参加を決めて良かったかもしれない、高野は改めて思った。

「遠慮せずどうぞ。飲み干したら言ってください」

「ありがとうございます。実は私みなさんを騙しておりました」

「え?」三人とも驚きの声を上げた。

「騙すって?」

「私本当は目が見えるんです」そう言ってサングラスを外した。小さい顔に不釣り合いな瞳が現れた。なんのためにそんな嘘をついたのか? 幹事も黒ジャンパーも予測できない答えに驚いているようだった。

「ご存じないと思いますが私グラビアアイドルやってるんです。無名ですけど」

「名前を教えて貰えるかな?」

「相沢真琴という芸名です。週刊プレイボーイに掲載されたこともあります。花形のヤンマガやアニマルは一度もないですけど」

「どうして目が不自由なふりをしたの?」

「やはり一応は芸能人なのでばれたくなかったというのがあります。でも本当の理由は自分でもわかりません。前から時々してたんです。私みたいに中途半端なタレントは注目されたくて目立つ恰好をしてしまうんです。それを大きなサングラスで隠す。それの延長だと思います。盲目のふりで注目を浴びる、でも不遠慮には見られない。屈折してますよね。目立ちたいけど目立ちたくない、そんな感情です」

「難しいですね。でもエスコートしたときは本当かと思いましたよ」

「はい。目を瞑って演技に見えないようにしました。このまま隠しても良かったのですがお二人のお話を聞いて私も自分の物語を語りたくなりました。脈略のない話になってしまうかもですが良ければ聞いてください」

「もちろんですよ」

「みなさんも御承知かもしれませんが芸能界というのはとても汚い世界なんです。私は高校生の頃原宿の竹下通りでスカウトされました。初めは撮影でグアムやサイパンに行けて有頂天になりました。でもだんだんと淘汰されていきます。テレビで活躍できるのはほんの一握りです。そうですね一パーセントくらいでしょうか? 雑誌で活躍できるのが五パーセントほどです。それでもほとんどが五年ほどで姿を消します。そして九○パーセントのグラビアアイドルはマニアくらいにしか認知させずに消えて行きます。残りの数パーセントはどうなると思います? バーター役として人知れず生き残るんです。事務所が売りだしたいアイドルがいるとします。事務所は大事な金の卵の為にバーター役をプロデューサーや大物芸能人に枕営業させるんです。枕営業なんて都市伝説だと思うかもしれません。その通りです。有名人は枕などしません。無名人がするのです。つまり私です。仕事は毎日あるわけではありません。でも自由な時間などありません。信じられないかもしれませんが、ボイストレーニングやダンススクール、料理教室や漢字の勉強の時間に充てます。レッスン代は自分の給料から差し引かれます。代理店の部長へ枕して、イベントのキャンペーンみたいな小さな仕事をこなして、そこまでして借金するんです。でも不思議なことに稼ぎに不相応な暮らしができるんです。家賃も目黒で月十五万のところに住んでいます。洋服や食事など経費で落ちるので馬鹿みたいに使わない限りは逆に奨励されます。週二回の仕事、週三回の習い事、週一回の枕。それで抱えた借金は数百万。それは一向に減らない。でも派手な生活はできる。私ばかだから仕組みがよくわからないんです。止めたら借金を返す充てがない。止めなければ変わらぬ生活が待っている。止めたくても止められないんです」彼女は髪をかき上げ洟を啜った。人に見られる職業特有の芝居がかった所作だった。

「でももうすぐ終わりです。タイムリミットが近づいてきます。実年齢で三十くらい、見た目で二八くらい。それくらいが私達バーターアイドルの寿命なんです。私も来年、もって再来年でお払い箱です。それを考えると怖いんです。寝る時も灯りを点けて寝ます。毎日ふとしたことで軽い眩暈、ひどいとパニックに襲われるんです」

「トロンシンドロームの亜種だね」

「え?」

「俳優や政治家など注目を浴びる職業で陥りやすいうつ症状の一種。見かけと実情のギャップに精神が不安定になってしまうんだ。先進国でしかみられない症例で近未来型の症状と言える」

「難しいことは分かりません。きっと私はばちが当たったんです。スカウトされたとき友達も一緒にいました。私だけがスカウトされたので浮かれてみんなに自慢したんです。嫌味な自慢を何度もしました。接する態度も変わりました。本当の友達はいなくなって、益々嫌な女になりました。それ以来ずっと最低の女です。だからこんな人生になってしまったんです」


 みなそれぞれの地獄を抱えて生きている。それを支えきれなくなったとき、人は自ら終了のボタンを押すのだろう。経営難の会社がコスト削減やリストラを繰り返して最後に倒産するように、原因の治癒ができないまま最後の選択、「自殺」を決心する。自分がそれぞれの立場なら自殺するだろうか? 高野は想定してみる。わからない。自分は自分でしかない。だが彼らの気持ちは理解できる。最後の選択として用意されたいたのが「自殺」だった。我々四人の共通項はただそれだけだ。

 幹事から追加の酌を受け取った。高野は会釈する。

「私は普通のサラリーマンでした。学生から十番目くらいに人気のある大企業です。十年務めあげそれなりに責任ある仕事を任されていました。ただ不満もありました。この会社で頑張ってもこの先課長止まり、運が良くて部長だろう。私は小さくてもいい、マイペースで仕事がしたかった。私は妻に相談し、独立し、経歴を生かしたはんこやさんを始めました。街でよくみかけるフランチャイズ制のやつです。規模が小さくなり扱える範囲は少なくなりましたが仕事内容にほとんど違いはありません。しかも私は社長です。私の裁量で仕事ができるのです」ブランデーで口を湿らせた。

「始めの一・二ヶ月は赤字になりました。でも想定内です。以後は順調でした。やる気もありました。元同僚も応援してくれて、小さな仕事、レジュメや企画書のコピーや取扱説明書などキャパに収まる仕事を発注してくれました。近所の得意先も沢山開拓しました」

「きっかけは納得のできないものでした。本部から導入されているパソコンのシステムがあります。業務に特化しているので使いやすくはありますが汎用性が少ないのが欠点でした。デザインも設計もそれで一元化したかった私はソフトをインストールしました。もちろん本部の許可を取ってです」

「キャドデータがウィルスに侵されていてシステム全体がおしゃかになりました。損害は二百万でした。私の責任は認めますが、確認をとったこと、ソフト自体の脆弱性、保険の適用などを指摘して本部に駆け寄りました。幾ばくかでも補助してくれれば納得したんです。でもそのときの本部の対応があまりに無慈悲で、許せなくて訴訟を起こしました」

「訴訟は長引きました。独立したので仕入れなど日々の仕事にも支障でできました。おまけに本部から運営の妨害ということで逆提訴も受けました。結果は全て敗訴。赤字転落。借金まみれになりました。」

「そこから先は悪い方へと転がり落ちました。借金は膨れ、店は畳みました。諦め悪く金策に奔走したため破産しても消えない借金が残りました。闇金ですね。サラリーマン時代、若くして入手したマンションも手放し、離婚しました。数か所の闇金から毎日電話がかかってきます。電話の音が恐ろしくて常にマナーモードにしています。今ではバイブが振動するたび心臓が委縮します」

「以上が私の物語です。なんか口にしてみると誰の身にも起こりうる小さなことのようにも思えます。でも当事者の私が生きた人生です。終わらせる資格も私にはあるはずだ」

最後に残ったブランデーを高野は一気に飲みほした。


「みなさん、心情を吐露して少しはすっきりしたでしょうか? それぞれの物語が終盤にかかりました。残る儀式はエピローグみたいなものです。みなさんこれをどうぞ」

 幹事がタブレットを配った。

「睡眠導入剤です。アルコールとこれで大抵はぐっすりできます。そろそろ火をくべたいと思いますので飲みこんでください」

 高野は指示に従った。他も倣っている。

「火をくべる前にもう一度私の話を聞いてください。実は私もある意味嘘をついておりました」

 切迫した表情で幹事は訴え始めた。みな次の言葉を待つ。

「無理心中をしたとき彼女も実は助かったのです。軽度の一酸化炭素中毒でそれによる後遺症はさほどありませんでした。ただ末期癌にはかわらないので、必死の介護を施しました。時間がないのは覚悟していましたが、助かってから二ヶ月で他界しました」

「その二ヶ月間私たちはさまざまなことを語りあいました。二人に起きた出来事、心中から二人とも生還したことは奇跡としかいいようがないと。神様があと数カ月分大事な時間をくれたのだと考えました。彼女の体調は日増しに悪くなっていきました。しかし彼女の表情は最後まで穏やかで輝いていました。最後の日、中庭を車いすで散歩しているとき、彼女は言いました。『わたしが死んでもあなたは生きなさい。あなたには為すべきことを為す義務がある。この奇跡を広げる使命がある』彼女の訓示は哲学のようでした。いや神の声そのものでした。私が意味を訊ねると彼女は頬笑み眠りにつきました。その日の夕方そのまま息を引き取りました」

 幹事は突然ひれ伏した。

「本当の嘘を告白します。私はみなさんと集団自殺が目的で参加したのではないのです。お願いです。私に手を差し伸べる機会をください。おこがましいとは理解しております。だが私には奇跡を広げる義務があるのです。高野さん、お伺いしたところ印刷のプロであるようだ。借金は私が肩代わりします。そして私の出資で大学病院内に印刷会社を立ち上げませんか? あなたに経営を任せます。病院、大学双方で充分な印刷物はあります。紙媒体以外にもセキュリティ、情報などを院内ベンチャーとして運用できると思います。実際の印刷・製本などのハード工程は高野さんならコネクションをお持ちなはずだ。病院としてもコストダウンを見込めます。もちろん投資だから利益を上げてもらわなくては困ります。あなたのためではありません。私自信の営利的な利益のためでもあるのです。相沢さん、あなたの借金も肩代わりさせてください。そんな世界なんて抜け出しましょう。高野さんの下で働いたらどうですか? 事務くらいできるでしょう。もちろん肩代わり分は寄付ではありません。あくまで出資です。病院の税金対策にもなる。そして君も騙されたと思って僕に一度任せてくれ。話しを聞いた限りではまだ回復できる余地がある」

 彼の提案は信じられないものだった。本当の奇跡。そんなことがあるのだろうか?

「そんなこと……できるのですか?」

「もちろん事業が軌道にのるかどうかを私に予測することはできません。でも事業化は必ずできます」

 奇跡はこうして広がっていくのだろう。高野は自分の中に希望の二文字が膨れ上がるのを実感した。そうだ、自分もいつかこの奇跡をバトンタッチするのだ。

「受け入れてくれますか?」

三人とも同意した。女は号泣している。高野も感動で震えていた。

「ありがとうございます。ちょっと待っててください。これ持っててくれる? 気を付けてね」幹事は携帯を取り出した。「ダメだ。アンテナ一本しかない」シートの間を通って助手席へ移動した。目張りを外して外へ出る。何処かへ連絡するらしい。高野は無神論者であったが幹事と出会えたことを神に感謝した。

 車体越しに声が聞こえる。

「もしもし。あっ、パパ。うん僕。あのね、実は院内ベンチャーとして印刷会社を立ち上げようと思ってさ、コストダウンになるし、節税対策にもなるし、いいアイデアでしょ? え? ダメ? そんなあお願い! ちぇっ。わかりました」

「ゴメン。駄目だって!」携帯を切って外から怒鳴っている。

 何が起きたか理解できない高野は声が出なかった。

「やっぱり死んで。てへ」

「何がテヘだこの野郎!」高野は立ちあが――ろうとしたが痺れて動けなかった。

「無理だよ。さっき飲ませたの筋肉弛緩剤だから」ふと横を見ると黒ジャンパーがガスマスクをしている。「バイバイ」そのセリフとともに車内に煙が発生した。怒号が飛び交う。男が首を掻き毟っている。女が黒い涙を流している。その様子を車内外から撮影している。


 二人の動きが完全に止まったのを確かめてからガスマスク姿の黒ジャンパーがハンディカメラの電源を落とした。助手席へ移動しドアからすべり出る。ガスマスクを急くように脱いで、大きく息を吐く。

「メリーアンって止めてくださいよ。ハイカラとか。噴き出しそうになったじゃないですか」

「お前こそアルフィのことですってなんだよ。死ぬかと思ったぞ。セリフもリアリティなかった。わざとだろ」

二人は顔を見合わせ噴き出した。

「女の目が見えてたってのは焦りましたね」

「うんちのときカメラセッティングしたのよくばれなかったよな。あのばかでかいサングラスのおかげだろうな」

「ところであいつ目貼りのときハンドル触ってました?」

「ああ。大丈夫だ。ちゃんと確認した。シフトもしっかり握ってたよ」

 笑いの衝動が収まると幹事はポケットから煙草を取り出した。車内に充満する煙を眺めながら、罪滅ぼしのごとく自分の肺にも深く紫煙を送り込んだ。明るくなった先端にある火種に誘われて近づいた蜻蛉を手で払いのけた。


* * *


画面にエンドロールが流れる。

多重債務の男 高野昭文

グラビアアイドル 相沢真琴

幹事 KAN

統合失調症の男 JOKAN


「厭な奴だねー。付き合い改めようかな。」

「演出に決まってるじゃないですか。僕はこんな悪い男じゃありません。でも言った通りでしょ? 裏物。しかも二人。これいくでしょ?」

「いやあ。この手のやつのファンはさ、派手なの好むんだよね。血がどばーっとかさ。かんちゃんのは通好み過ぎるんだよな。それに自殺は裏物の中でも一番評価低いの知ってるでしょ」

「でも二人いっぺんだよ。しかも女は有名人。この人間ドラマ。彼らの希望と絶望。そしていまわの際の見事な表情。絶対ヒットすると思うけどな」

「うーん。四百万。これ以上出せないな」

「えー? 桁間違えてません。別のところ持っていきますよ」

「女が付加付けて三百、男が百ってとこだな。かんちゃん裏物始めてだから知らないんだよ。今はそんなに需要ないの。それに誰も知らないよこんな女。自殺のしかも無血でしょ。演出悪けりゃこの半分だね。俺はかんちゃんの才能買ってるからこの値段つけたんだよ。そこんとこ汲み取って欲しいね」

「わかりましたよ。それでは四百で手を打ちましょう。次は唸らせてみせますよ」

「あまり無理しないでね。かんちゃんのファンが求めているのはいぶし銀の演出なんだから。ところでトロンシンドロームって何?」

「てきとうに創りました。響きがSFっぽくて格好良いでしょ」


(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧の中 鷲峰すがお @bobby315

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ