サービスエリア
鷲峰すがお
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急ぎ足で一番手前にある個室のドアを目指した。トイレのドアは内側に開いていて誰も先客がいないことを示している。脇の下から冷や汗が流れる。もう少しだ。我慢しろ。佐伯一郎は我が儘な子供を諭すように自分の便意に語りかけた。ドアを閉め、施錠し、ベルトを緩め、ズボンを下げ、腰を便座に下ろす。一流のコックが注文された料理を手際よく捌くように一郎は一連の作業を終えた。思わず安堵のため息が漏れる。間に合った。一郎は目を閉じて胸を撫で下ろした。安心すると同時に一発放屁した。照り焼きにすると美味しい魚の名前のような音だった。トイレの内装は全面タイルなので思った以上に響き渡る。まあいい。こんな時間だ。誰もいないだろう。一郎は続けて三匹同じ魚を並べた。
一郎は一息ついてワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。外出先のトイレで喫煙するほどマナーに疎いわけではないが、大人にあるまじき粗相の危機をやり過ごした安堵から油断したのだろう、人気のないサービスエリアでしかも夜ふけという状況が一郎を散漫にさせた。一郎は半ば無意識に煙草を咥え、使い捨てライターで火を点ける。肺に煙を数秒貯めてから開いた上空に向かって紫煙を燻らせた。
「禁煙ですよ」隣の個室から注意された。誰もいないと決めつけていた一郎はその声に驚きながらも煙草をタイルに押し付け火を消した。
「すみません、今消しました」一郎は背中越しにいる隣人に返事を返す。
「だいたい公共の場で喫煙なんて失礼でしょう。自分の家ではないのですよ」
「ええ、そうですね。すみませんでした」自分に非がある一郎は恐縮するしかない。
「だから喫煙者はダメなんですよ。他人に迷惑をかけることを屁とも思ってない」
「こんな時間だし、誰もいないと思ったんです。反省してます」
「それが理由になりますか? 不特定多数が利用するんですよ。非喫煙者も利用する。子供だって利用する。子供は大人の真似をして成長するんです。大人が悪い手本になってどうするんですか? そんな大人に価値はありません。そこに灰皿がありますか? ないということは喫煙所ではないということです。吸い殻をどうするつもりなんです?」
後方から聞こえる丁寧な口調が慇懃無礼に響き一郎は苛ついてきた。正論だけに余計に腹が立つ。
「ちゃんと持って帰って車の灰皿に捨てますよ。何度も謝っているでしょ。しつこいなあ」
「それが謝る態度ですか? いい大人が恥ずかしい」
一郎は溜息をついた。何を言っても無駄だろう。このままでは喧嘩になってしまう。相手は正論で攻めてくる。元を辿れば自分が悪い。ここは我慢してやりすごそう。自分の戦う相手はまだ暴れ足りない便意だ。隣の男はそのうち出て行くだろう。
後ろからトイレットペーパーを引き出す音が聞こえた。水流音とベルトをいじる音が続く。どうやら隣は済ませたらしい。ドアの軋む音とともに最後の罵声を覚悟したが、男は無言で出て行った。
男の靴音が数メートル先で止まる。水洗場の水流音に続いてエアータオルの風音がトイレに響き渡る。しばらくして人の気配がなくなった。
男に対するやり場のない怒りは収まっていたが、自分の腹具合はまだ収まっていなかった。目的地まではまだ長い。運転中に催したくない一郎は完全決着を目指して引き続きこの場で格闘することにした。それまで遠慮して踏ん張り切れなかった一郎は男がいなくなって二重に安堵した。
男がトイレから去って1分ほど時が流れた。さすがにもう誰もいないだろう。一郎は再度煙草を取り出した。煙草を覚えた高校生の時分からの習慣で、大をする時、一郎は灰皿持参でトイレにこもる。ここ数年はマナー意識も変わり自宅以外のトイレで喫煙することなどないが、時と場合を考慮して戒律を緩める。今は緩めてもいい。5分前と同じ判断を下して咥えた煙草に点火し煙を吸い込んだ。肺に煙が充満するとともに、心地良い便意が腸を駆け回る。思わず屁が出る。だがトイレ中に響くはずの屁はドアに打ちつけた大きな音によってかき消された。一瞬地面が揺れた気がした。驚き顔を上げると再度大きな音がしてドアが軋んだ。ノックの音ではもちろんない。殴りつけても蹴りを入れてもここまで大きな音はでないだろう。
「だ、誰だ」一郎は驚きで声をあげた。指に挟んだ煙草が地面に落ちる。
返事の代わりに三度目の衝撃音が左手のドアに走った。その威力でドアの蝶番が歪む。一郎の頭は便意も忘れ真っ白になった。何が起きている?
「ねえ、あなたさっき反省してるって言いましたよね。嘘ついたのですか?」先程の男の声だ。いつの間にか戻って来たのだ。一郎は落ちた煙草を慌てて靴でもみ消す。何か訴えようとしたが思考がうまくまとまらない。ドアの外にいる男はおそらくバットか何かを持っていてそれを振りまわしているのだろう。この男はおかしい。一郎は先程のやり取りを思い出し、その過度に偏屈な態度に見え隠れした狂気に気付いた。そうだ。考えてみれば変な奴だった。狂人かもしれない。一郎は携帯電話を車の中に置いてきたことを悔やんだ。どうすればいい? へたに謝っても逆効果な気がした。万一この男がドアを打ち破ってきたらと想像すると震えた。ズボンをずりおろした下半身を見て自分の無防備さを余計に意識し、一郎は音を立てない様にトイレットペーパーを慎重に巻き取り尻を拭いた。そっとズボンを上げる。この男を刺激してはならない。それだけを肝に命じた。
「随分と長いトイレですね。そこでも他人に配慮が足りないことがわかります。まあこんな時間だし、生理現象なのでそれはしかないとしましょう。だけど先程も申しましたがここは禁煙です。一度注意されて態度を改めることができないのはとても大人の見識とは思えませんね。悪ガキでも同じ間違いは犯さない。いえ間違いました。同じ間違いを犯す悪ガキは沢山いるでしょう。だけど5分と経たずに同じ間違いを繰り返す悪ガキがいるでしょうか? とても人間とは思えません。猿ですね。猿以下かも」男はセリフを閉じると猿の口真似を始めた。奇声がトイレ内を轟く。自分の目に映る光景――それは50センチほど手前にある板によって区切られた狭い空間だが――が恐怖でぐにゃりと歪んだ。普通じゃない。全然普通じゃない。止まない奇声が一郎に自分の危機が尋常じゃないことを知らしめた。この場を脱出しなくては、一郎は自分に言い聞かした。便意はいつのまにか意識から外れた。
男の一際大きな奇声の後に長い物を振りまわして風を切る音が聞こえた。刹那ドアの上部が破損し板が破ける。ささくれだった破損部から銀色に光る何かが顔を出した。突き出した部分は少しであったがそれがゴルフクラブであることを一郎は理解した。奴はゴルフクラブを振りまわしている。万一殴られたら大怪我は必至だ。打ち破れたドアの穴から侵入してくる男の狂気に一郎は再度震えた。外から唸り声が聞こえる。クラブを外すのに男は手間取っているようだ。クラブが外れるとドアには長さ約2センチの縦型の穴が残った。蝶番はねじ曲り、ドア全体が歪んでいる。一郎はそっと立ち上がり穴を覗いてみた。
穴はささくれ立っていて見渡せる範囲は思ったより小さかった。3メートルほど先にある手洗い場の一部が見えたが男の姿は映らない。
「意外と頑丈なんですね。まだ壊れない。その前に私のアイアンが曲がってしまいました。これ以上やるとドアより先に壊れてしまう。早く出てきてくださいよ。まだうんこ終わらないんですか」
覗き穴から男の服が見えた。作業着みたいだ。声から判断すると年齢は30代くらいだろう。行動と裏腹に男の口調が丁寧であることが余計に恐ろしかった。
「おや? 何を見てるのですか?」
セリフの後、しばしの間があった。厭な予感が全身を駆け巡る。背中に冷たい汗が流れる。一郎は数センチ身を引いた。刹那、穴から何か尖ったものが飛び出てきて暴れている。ボールペンだ。身を引くのが数秒遅かったら眼球に突き刺さったかもしれない。一郎は口内に溜まった唾液を呑み込んだ。喉の嚥下する音が必要以上に響く。天敵を前にした蛇の様に暴れるボールペンの先を見て、一郎は男の殺意が尋常でないことを理解した。
「なかなか出てきませんね。退屈してきました。そうだ。ちょっと待っててくださいね」男が去る靴音がトイレ内に響く。一郎の鼓動は早くなった。逃げるチャンスだ。男の気配が無くなると一郎は心の中で十秒数えた。
ドアのノブを握りそっと引く。だが歪んだドアは摩擦音を上げるだけで動きを止める。今度は力を込めて引いてみる。建てつけの悪くなったドアは地面を数センチ引きずるだけだ。ドアの縁が地面を噛んでいる。一郎は逸る心を押さえ、ドアを持ち上げつつ引いてみる。身体を通せるくらいの隙間が作れた。一郎は身をよじって個室からおそるおそる出る。男はいない。トイレの出口に向かって足を運ぼうとした時、車のドアを閉める音がトイレから遠くないところから聞こえた。その音で一郎は脱出を諦め、再度個室に逃げ鍵を掛けた。今度は隣の男が利用していた個室だ。特徴のない無機質な靴音が近づいてくる。一郎は息を飲んだ。
「あれ? 移動したのですか? せっかく対面できるかと思ったのに残念です」
一郎の背骨が見えない圧力で軋む。男のセリフに恐怖したのではない。また男の暴力から逃げ惑う不毛な時間を憂慮したのではない。個室の三方――木製の板部分――にびっしり書かれた細かい文字を見てしまったからだ。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。煙草。目につくところ全て。平仮名や片仮名はない。全て漢字の「煙草」で埋め尽くされている。他人の電話番号や幼稚で下品なイラストがいくつかあるが、以外は同じ言葉だ。
なんだこれは? 奴が書いたのか? 俺が煙草を吸ったから? 違う。俺が火を点けてから奴が出て行くまで5分くらいだったはずだ。その間に書ける量ではない。俺がトイレに来る前から奴はみっちり落書きをしていたのだ。量から想像するに1時間は必要だっただろう。それだけ奴は「煙草」に毒されているのだ。キチガイだ。そんなキチガイを俺は喫煙で刺激してしまったのだ。一郎の背骨に怖気が走った。
近くで音がする。男が破損したドアをがたがたと揺らしているようだ。続く小さく渇いた音。靴音が数歩離れる。それから数秒して爪で木材を叩くような微かな音が聞こえた。その音が一定の間隔で聞こえる。奴は何を始めたのだろう? 音だけではわからない。
「私も喫煙者でした。禁煙を始めて約1カ月というところでしょうか? 禁煙は最初の一週間が一番苦しい、そこを乗り越えれば徐々に禁断症状は薄れる、なんてよく聞くけどあれは嘘ですね。私は一週間を過ぎても禁断症状に苦しみました。毎日夢に見ました。煙草を吸う夢です。それも満員電車の中とかプールで泳ぎながらとか現実ならまず喫煙しないような状況です。寝ても覚めても私は煙草のことを考えていました。二週間を過ぎて不眠になりました。仕事も碌にできません。一週間くらいは眠れずに頭に靄がかかった状態で過ごしました。イラつきはピークに達していました。通勤電車の中で肘を押しつけてくるおっさんを何度も殺しました。その時はもちろん想像でですけど。嫌味を言う上司、けちな得意先、生意気な女子社員、みんな殺しました。だけどある日を境に不眠は治りました。禁断症状による苛々は依然ありますが不眠はなくなりました。何故だと思います? 不眠はストレスと密接な関係があるのはご存じですよね? だからそのストレスを取り除くことが大事なんです。禁煙を断念しますか? それでは一生私はニコチンの奴隷だ。ではどうすればいい? 私は想像で何人も殺してきました。それでも不眠から逃れることはできなかった。私は想像での殺人を止めました。そしたらストレスは無くなり夜ぐっすりと眠れるようになりました。それが一週間くらい前の話です。でもまた最近苛々が積もっているのがわかります。今日は二人を想像で殺してしまいました」
男の長い独白の最中にも一定の間隔で小さく木材を叩く音が聞こえた。そちらの音が気になって男の話は半分も理解できなかった。不眠? ストレス? 想像での殺人? キチガイの話には整合性がない。想像するのを止めたら不眠が治ったのだろう? じゃあ想像しなければいいだけじゃないか。
「あ! ミスった!」
男のセリフの後に今までとは違う音、元いた個室の壁に何かがぶつかる音と下に落ちた音が聞こえた。小石でも投げているのだろうか。
「一週間前の話です。僕はペーパードライバーなのですか、久々にハンドルを握りました。寝不足で朦朧としていたこともあり、より慎重に運転しておりました。ペーパーといっても運動神経には自信があります。車線をまたぐとか蛇行運転といったヘボドライブなどしていません。最高速度を守り、交通規則に準じて運転していました。その時後ろから猛スピードで近づく車がありました。私が時速80キロくらいで走行していましたのでおそらく制限速度を超えていたでしょう。もしかしたら120くらい出していたかもしれません。高速道路で最高速度を守らないのは危険極まりなり行為です。万一巻き込まれれば大事故に発展するでしょう。そんな時後ろのドライバーは私を煽るようにパッシングを繰り返しました。私は事故を恐れてハンドルを強く握り締めました。私が委縮してハンドルを無暗に切ればぶつかっていたかもしれません。その証拠に後ろから来た彼は私の左側から抜いていきました。私はあまりのショックと憤りで目が覚めました。私は一言注意しなくては気が収まらなくなり彼を追い掛けました」
その話を聞いて一郎は震撼した。このサービスエリアに寄る一時間ほど前、同じような経験をしたからだ。追い越し車線をとろとろ走るミニバンがいたのでパッシングし注意した。そのミニバンも車線を変えなかったので仕方なく走行車線から追い抜いた。あの運転手はこいつだったのか。それで俺を恨んでいるのか。それなら間違っている。
「それで怒ったのか? それならあなたは間違っている。あなたは不慣れだから知らないんだ。高速では渋滞でもない限り制限速度より遅いのは逆に危険行為なんだ。それに一番右は追い越し車線で普通は走行車線を走らなくてはいけない。パッシングしたのは間違ってますよ、走行車線に戻ってくださいという合図だったんだ。決してあなたを煽ったんじゃない。信じてくれ」一郎は悪気がなかったことをアピールし、男の正当性を重んじる性格を利用して説得を試みた。
「あれ? 久しぶりに声を聞きましたね。おかげで一つ利口になりました。以後気をつけましょう。無知は罪ではありません。知ることで私は向上し立派な人間になるのです」よし。少しだが自分の非を認めさした。怒りの矛先がいくらかでもぶれるだろう。
「話の続きです。私はパッシングした彼を追いかけました。ちょうど彼がサービスエリアに寄るところだったので私もそれに倣いました。彼はあなたと違い小用だったので後ろからこのゴルフクラブで撲殺しました。簡単でした。血はそれほど流れませんでした。その代わりに脳髄が飛び出ました。その日は久しぶりにぐっすりと安眠できました。やっぱり想像するのと実行するのでは全然違いますね」
このセリフを聞いて一郎は全てを理解した。この男は告白している。告白することで殺人予告をしているのだ。考えてみれば先程のミニバンの運転手のわけがない。この男は一時間前からこのトイレに潜んでいたはずだから。この男は自分がストレスから解放されるために適当な犠牲者を待っていたのだ。一郎の胃が痙攣しはじめた。すっぱいものがこみ上げる。
「ねえ。そろそろ出てきませんか? 一緒にダーツしましょうよ」
こいつはダーツをしていたのか。この男は楽しんでいる。いたぶって遊んでいるのだ。何を言っても無駄だろう。選ぶ道程は二つ。この男と戦うか誰かが来るまでここでじっとするか。駐車場には数台トラックが止まっていた。仮眠をとっているのだろう。トイレで起きる運転手もいるはずだ。人気のないサービスエリアといってもいつかは別の誰かがやって来るだろう。こうなれば根気くらべた。最悪朝までまてばサービスエリアの従業員が出勤してくるはずだ。だが朝まで自分の精神が保てるだろうか? 待っている間上から襲われたら? その場合クラブを振りまわすことはできない。地面に伏せれば突くしかない。そしたらクラブを奪ってやる。もし奴が上から侵入し揉み合いになれば勝機は五分五分だ。
「おや静かになりましたね。もしかして誰かがくるのを待っているのですか? 良い作戦ですね。それならば」男はそう言ってまたトイレから出て行った。靴音が遠ざかる。
奴がまた出て行った。あいつの車はトイレの傍にある。逃げても見つかるだろう。考えろ。考えろ。考えろ。何か武器になるものはないか? あっても掃除用具くらいだろう。ダーツ。奴が遊んでいたダーツの矢なら武器になるかもしれない。古いタイプの矢なら先が針のように尖っているはずだ。一郎は開錠しドアを開けた。隣のドアを見る。ダーツの的がドアの穴に刺したボールペンに引っ掛けてあった。矢は刺さっていない。持っていったのか。そうだ、ミスした矢が隣の個室にあるはずだ。一郎は再び元いた個室に入り矢を探した。便座の下に赤い矢が1本転がっている。先の尖った古いタイプの矢だ。一郎は矢を拾い急いで隣の個室に戻った。隣に戻ったのは武器を入手したことを男に悟られないようにするためだ。鍵を掛けると同時に車のドアが閉める音が聞こえた。一郎は静かに息を吐いた。
「今立て札をトイレ前に置いてきました。故障中につき女子トイレをご利用くださいって。
これで朝までは誰も来ませんね。ドライバーなんて単調な運転で疲れているだろうから、公然と女子トイレに入れるなら、喜んで入るんじゃないですか?」
一郎は戦いに備えてワイシャツを脱いで左腕に巻きつけた。少しでも衝撃を吸収するように。奴がクラブを振りかざしたら左腕を犠牲にして受け止めなければならないだろう。頭を殴られたらそれで終わりだ。利き腕をやられても反撃できなくなる。クラブを左腕で食い止め右手に握り締めた矢で奴の首に突き刺してやる。一郎は覚悟を決めた。
「ねえ疲れませんか? もう止めにしましょうよ。素直に謝ってくれれば何もしませんよ」
「煙草の件は謝った」
「謝るというのは面と向かってするものでしょう。何も土下座しろっていうわけではありません。それが誠意というものでしょう。」
嘘に決まっている。これまでの行動が奴の異常性を説明している。異常者は例外なくしつこい。映画や小説が証明している。戦うしかない。
虫の鳴き声がトイレの壁を通して届いてくる。ダーツの矢が的に当たる微かな音が一定の間隔でリズムを取る。不気味な静けさがトイレ内に充満している。今は何時だろう、腕時計をしていない一郎は自問した。このトイレに来たのが夜中の1時過ぎだった。攻防が始まって1時間以上は経過しているだろう。2時半から3時、一郎は現時刻をその辺りと推測した。朝まで耐えきれば一郎の勝利。それを避けるために4時くらいまでに男は勝負をかけてくるだろう。空気が重苦しく一郎は咳込んだ。
一郎はふと第三者の気配を感じた。
「何やってる?」
「修理中です。出ていってください」
誰か来たのだ。
「助けてください! 襲われてます!」
「そんな報告は受けていない。誰だ貴様は? その手にあるものを放しなさい」
「こいつは狂ってます! 気をつけて!」
突然男が奇声を発した。ドアの向うで転げ回って格闘する音がする。一郎は覚悟を決めて右手の矢を強く握りしめた。開錠しドアを引く。一郎の目に飛び込んだ光景はまさに作業着の男が倒れている男に対してクラブを振りかざしている瞬間だった。一郎は男の背中に突進する、男の肩甲骨に向かって力まかせにたたきつけた。男が悲鳴をあげて倒れた。一郎は馬乗りになって殴りつける。刹那大声がトイレ中に響いた。
「ストップ!」「もういいでしょう。その男は無抵抗だし武器もない。クラブは僕の元へ戻って来た」後ろから聞きなれた声が聞こえた。一郎は振り向く。奴がクラブを持って仁王立ちしている。人間違いの背中を刺してしまったのか。男が片頬を釣り上げた。
「やっと会えましたね」
七三分けでメガネをかけた男は作業着を来ていなければ役所の出納課係みたいな印象だった。男がクラブを振りかざす。奇声を上げる。一郎は恐怖で腰を抜かした。下半身に生温かいものを感じる。失禁したのだ。男が突進してきた。一郎は目を瞑って頭を抱えた。
「なーんちゃって。驚きました? 怖かったでしょう? どうです? 私の演技」
一郎は顔を上げる。クラブは一郎のすぐ横に振り下ろされていた。隣の男がむくりと起き上がる。現状把握できない一郎は茫然とするしかない。
「我々はこういうものです」男が名刺を出してきた。受け取った名刺には○○サービスエリア振興会マナー向上委員会とある。
「我々は利用者様のマナー向上を願って活動しています。ポスターを張ったりキャンペーンしたりですね。特に喫煙マナーに重点を置いて活動中です。これはキャンペーンの一環で仕掛けたドッキリです」
「ドッキリって私この人を刺してしまったけど」
「心配ありません。一定以上の力が入ると針が引っ込む仕掛けになってます。まあ画鋲を間違って刺してしまうくらいの痛みはありますけど」
一郎は安堵で力が抜けてしまった。立ちあがることができない。
「これ少ないですけどクリーニング代です。それから、よろしかったらお名刺いただけないでしょうか?」
一郎はシャツの胸ポケットから名刺を取り出して渡した。
「これからはくれぐれもマナーを守って行動してください。それからトイレはちゃんと流してくださいね。それでは」そのセリフを最後に二人はトイレから出ていった。
数分動けずにいた一郎はやっとの思いで身体を動かした。失禁して張り付いた下着が気持ち悪い。一郎は二人が消えた出口を見つめる。マナー向上のためだけにここまでするなんてあんたら十分狂ってるよ。そのセリフは声に出さずに胸に留めた。
***
画面にエンドロールが流れる。
男 佐伯一郎 ヨルツーKDテレビ事業部第一営業本部第2部2課係長。
マナー向上委員会委員長 KAN。
マナー向上委員会委員長補佐 JOKAN
「面白いよ。かんちゃん。この主役がいいねえ。表情で彼の心境やら考えていることがまるわかり。くそもらしもすごい。匂いたつかのようだね。どこで見つけたのよ」
「内緒。いい作品をつくるためにいろいろアイデアを出してるのよ。で、いくらで買ってくれるの?」
「そうだねえ。かんちゃんの作品には固定ファンもいるし、これは自信持って顧客に勧められるからなあ。50人が買ってくれたとして50万だから半分の25万、傑作だから30万でいいよ」
「マスター止してよ。地方の同業者にも廻すんでしょ? 自信作は他社にもまわすってこないだ飲んだ時言ってたじゃない」
「や、自白導入剤でもいつのまにか飲ませたか? わかったよ。50万きっかり。これ以上は出せないよ」
「OKマスター。また面白い自作ビデオ持って来るよ」
「エロは止めとけよ。かんちゃんエロの才能はないから」
(了)
サービスエリア 鷲峰すがお @bobby315
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