プレッシャー
鷲峰すがお
プレッシャー
俺は昔からそうだった。極度の緊張に晒されるとどうしても睡魔に襲われる。大事なテストとなると決まって眠くなり満足に答えを埋めることができない。小学校の池で飼っていた鯉を釣りして先生に見つかり怒られている最中にも居眠りをしたことがあった。その時は仲間3人で遊んでいたのだが、俺だけが1時間以上長く正座をさせられた。社会に出てもその性癖は変わらず、重要な会議はもちろん、ミスを犯して得意先に頭を下げに行った時に先方の会議室で居眠りをしたこともある。
嫁に浮気がばれそうになった時はひどかった。俺の携帯に保存してある「今日はとても楽しかったです。また店にも遊びに来てくださいね。さりな♥」などと書かれたメールを盗み読みされたのだ。俺は「会社の先輩のつきあいでキャバクラに行っただけだ。アドレスを強引に交換されたんだよ、こんなの単なる営業メールだよ」と説明した。それが真実ならば俺も緊張などしなかったであろう。実はその娘と店外デートをしてセックスするまでの仲になっていた。別に本気でこの女に溺れているわけではない、数回エッチしただけだ、それくらい浮気と呼ばないだろう、いや、普通は呼ぶだろうな、なんて考えながらも睡魔が徐々に顔を出してきたので必死で覚睡しようと自分の足の裏を力強くマッサージしながら、いつの間にか眠りの世界へ入ってしまった。頬への衝撃と、テレビの角にしたたかに打つけたこめかみへのニ撃で俺は目が覚めた。激痛に耐えながら見上げると嫁が仁王立ちをして睨みつけていた。
***
俺はまたいつの間にか眠っていたらしい。目の前には黒い筒が微かに揺れている。穴から覗く暗闇の奥底には負のエネルギーが漲っている。その穴は人一人簡単に抹殺できる力を秘めているだろう。
「お前、なめてんのか!」銃を揺らしながら目の前の男は罵声を投げかけてきた。俺は急いで首を振る。刺すような目で俺を睨みつけ、男は仲間に向かって「まだか」と叫んだ。
その二人組は銀行の閉まる直前に目出し帽を被って飛び込んできた。二人とも手には拳銃を握り締めている。銀行強盗だ。しばらく俺は状況を掴めずにいたが、強盗の一人が逃げ出そうとした行員の一人を撃ち、続く悲鳴が行内を駆け巡った時から、徐々に俺は息苦しくなってきた。
強盗は他の行員をその場の地べたに寝かせ、行内に居た利用客を全てソファに座らせた。俺も銀行の入り口に近いソファにおばさんと老人に挟まれて腰を下ろした。
それから俺は、超弩級の睡魔に襲われている。
首をこれ以上ないという早さで振った俺に対して、目の前の男は銃を持っていない方の手で軽く俺の頬をはたいた。隣のおばさんが目を見開いてこちらを見ている。すぐ隣で強盗から目をつけられた俺を非難しているのだろう。右横の老人は恐怖で震え、呼吸が苦しそうだ。
「俺達も無駄な殺生はしたくない。大人しく座ってくれれば無事家に帰れる。もう少し我慢してくれ」銀行の窓口に土足で立ち、オフィス側と客側双方を監視しているもう一人の男が低くよく通る声で警告した。あいつがリーダーなのだろう。その声は苛ついている仲間を落ち着かせる効果も狙ってだと思う。目の前の男は舌打ちをして、俺の前から離れて銀行の入り口を監視しに行った。
女子行員の一人が代表して強盗の持ってきた2つのバッグに金を詰めているが、慌てているためその動きと裏腹に作業が捗らない。ブースを何度も行ったり来たりしている。彼女の遅々とした対応に、強盗だけでなく俺までも苛々してきた。何をもたもたしているんだ、まさかこの場で捕まえようとしてるんじゃないだろうな、そんな危険なことするなよ、どうせ保険に入っているから銀行自体の被害はそんなに大きくはないだろ、それよりも客に被害者を出す方が銀行にとって汚点となるはずだ、早く金を渡して俺を解放してくれ、などと超高速で思考していた俺は超高速でまた眠りについた。
はたと気付くと俺は無理矢理立たされていた。目出し帽から覗く目が怒りに震えている。俺は胸倉を掴まれ、男に引き寄せられていた。
「お前、なんで鼾なんかかいてやがる。馬鹿にしてるのか!」俺はまたも急いで首を振る。違うんだ、馬鹿にしてなんかいない、怖くて、緊張しているだけなんだ、特異体質なんだ、そんな銃を目の前で振りまわさないでくれ、暴発したらどうするんだ、こんな至近距離で撃たれたら絶対死んでしまう、止めてくれ! 放してくれ! 助けてくれ!
銃声が耳元で響いた。傍に居た客の悲鳴に続いて絞り出すような呻き声が聞こえる。撃たれた。もうだめだ。腹部が真っ赤に染まっている。きっと腹を打たれたんだ。だが痛みはない。きっと強烈すぎて脳が痛みを拒否しているのだろう。俺は腹を擦ってみた。それでも痛みの場所を探すことができなかった。俺の真下で転がっている男がまた呻き声を上げた。俺ではない? どうやら二人で転んで暴発し強盗は自分を撃ってしまったようだ。この血は俺のじゃない、やつの血だ。
仲間が駆け寄ってきた。「大丈夫か!」と叫ぶ声と同時に外から拡声器を使った声が行内まで響いてきた。
「君たちは包囲されている。無駄に罪を重ねるのはよしなさい。それから怪我人がいるならまずその人だけでも解放しなさい」
警察だ。警察が来たことで、銀行の空気がさらに緊張感に包まれた。第2幕の始まりだ。仕事で3日間完徹してトラブル処理に追われた日々以上に、俺の頭は臨界点に達し、くらくらとしてきた。
リーダー男は怪我した男を引きずって隅に移動させた。次に俺を無理矢理立たせ、銃を向けて命令する。
「一緒に来い」
俺は右肩から首に腕を回され左のこめかみに背後から銃を突きつけられた。やつの盾になるような状態だ。その格好で俺達は銀行の外へ出た。
外にはパトカーが数台止まっている。既に人々が好奇の目でこちらを眺めている。警察がロープを張って集まり始めた野次馬を閉めだしている。
「救急車を呼べ、一人けが人が出ている」
「その人が怪我人なのか?」
「こいつはなんでもない。返り血が付いただけだ。これからそのけが人を別の客に運ばせる。取り合えず2人だけ解放する」
そのセリフを聞いて俺は後ろを振り向き余計なことを口走ってしまった。
「仲間だけ助けて、撃たれた行員をほっとくのか」
「ばかやろう!」リーダーの目が血走っている。怒りで目が震えている。そうか。こいつは行員を助ける気だったのか。仲間はあの怪我なら捕まるのは必至だ。仲間を病院に運んでも無駄で、自分の身元が早々と割れてしまう可能性が高い。それならば自分が逃げおうせるまで仲間の身元判明は少しでも遅い方が良いと考えるに決まっている。俺のセリフは強盗の一人が怪我をしていることを警察にばらしてしまった。俺は浅はかな言動でリーダーを怒らせたことを高速で後悔していた。殺される、と思った刹那、強烈な睡魔に負け倒れ込んだ。
***
目を覚ますと白い天井が目に入った。横には嫁が安堵の頬笑みを浮かべている。傍に立っていた看護師が俺に一声かけて部屋の外へ出て行った。俺は首を持ち上げドアを見つめると看護師と入れ替わる様にして二人の男が入って来た。
「気分はどうだい? 大変な目にあったね。でも事件が無事解決できたのも君のおかげだよ」
「刑事さんですか?」
「ああ、そうだ。挨拶がまだだったね。新宿署の渡辺といいます。こっちは錦織。ここは警察病院です」と年輩の刑事が隣の若い方に手の平を向けながら答えた。
「一体どうなったんですか? 外に出されてから覚えていないんですよね」
「我々は銀行からの情報で強盗が二人組というところまでは掴んでいたんだ。それから君のセリフで強盗の内一人が怪我をしていることがわかった。だから残る犯人は目の前の男一人。そして君は勇敢に逃げた。普通は怖くてああいう行動はとれないもんなんだ。犯人の命令に従った方が安全と考えてしまうんだね。人質の盾が無くなったので我々の特殊部隊が犯人を撃った」
「死んだのですか?」
「いや、腕を撃っただけだから大丈夫だよ、それからもう一人の犯人も行員も命に別状はない。遅ければ出血多量になっていたかもしれないがね。それから客の中で心臓に疾患の有る老人がいたのだけれどそっちの方が危なかった。今は持ち直したと報告を受けている。君は犯人含めて4人の命を救ったのさ」
二人組の刑事が出て行ったあと、白衣を着た女性が入って来た。医者だろう。どこかで見たことがあるような気がする。彼女は俺に名刺を差し出した。警察庁医学博士とある。
「私、銀行で隣にいたの覚えていますか?」そのセリフで思いだした。隣に座ったおばさんだ。警察の人だったのか。
「私は主に警察官のカウンセリングをしているの。やっぱりこういう仕事だから不眠症になる刑事も少なくなくて。それであなたに睡眠についてあなたの考えることや経験をセミナーで話してもらえないかしら」
そうか、あの時彼女は俺を非難していたのではなく、医学的な興味を持って俺を見ていたのか。
「いや僕なんか役に立ちませんよ。ただ特異体質で緊張すると眠くなっちゃうんです」
「いいの。別に眠り方とかを話してもらいたいんじゃないの。あの状況で眠れるのも凄いと思うけど、あなたはたまたま運が良かっただけ。大半はひどい結果になっちゃうわ。あなたを見て思ったのだけれど、どこでも眠れるというのは実はいいことでもなんでもない。結果の良し悪しとはなんの因果関係もないのよ。逆に眠れないということもそれほど切りつめて考えることもないの。カウンセリング療法の一環として不眠で悩んでいる警察官に聞かせて判らせたいの」
セミナーか。睡眠法やらを伝授するのが目的でなく、単に俺の経験を話すだけならできるかもしれない。警察に褒められたばかりで、むげに断るのも悪い気がする。
「いいですよ」と俺は答えた。
***
浅はかだった。セミナー・カウンセリングという言葉で数人のクループセッションの中で俺の経験談を話せば良いと高を括っていた。こんなに大きな講堂の壇上で数百人の警察関係者を前にして講演することになるとは考えていなかった。喉が渇く。緊張が頭をもたげてきた。司会が俺の名前を呼んだ。俺は壇上の中心までぎこちなく歩いていく。聴衆が拍手を持って迎えてくれた。正面を向いて、唾を飲み込むと同時に強烈な睡魔がやって来た。
俺が何も喋らずして壇上で眠りに落ちた後、一瞬の間を置いて歓声と拍手に包まれたらしいが、俺にはわからない。
(了)
プレッシャー 鷲峰すがお @bobby315
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