黄昏のソルセルリー

猫宮噂

昼下がりの一幕

 国軍の詰め所は、やたらと豪奢な建物だ。その外観を一目見れば、嘗ては貴族の別邸だったとかなんだとか、そんな噂がまことしやかに囁かれているのも納得できるだろう。白亜の廊下には大理石が敷かれ、壁のレリーフは下品でないが、決して安っぽくはない。要所要所に施された細工も繊細ながらしつこすぎることはなく、ただただ上品に、その空間の高級感を演出している。貴族の別邸、というその噂が仮に真実だったとして、この館の初めの持ち主は相当に良いセンスをしていたのだろうと言ったのは誰だったか。

 そんなことを考えながら、ローブの上に軽鎧を纏った青年は廊下を歩いている。所属部隊を示す紋章が刻まれたそれは、彼の行動に合わせてカチャカチャと不協和音を奏でており、それが更に苛立ちを煽るのか、常ならば穏やかな表情を浮かべるその顔は険しく顰められていた。艶のある黒檀の髪は常の通り後頭部に流されてはいるものの、幾度か彼が無作為に頭を掻いた所為か少し乱れているのがまた痛々しい。他所ごとに思考を割く暇など無いが、そんな事でも考えないとやっていられない──そんな風体を滲ませながら立ち止まった若い騎士。彼はやってられないとばかりに窓辺に身体を預けては、深く重い溜息を吐き出した。

 事のきっかけは、彼の属する部隊に下された一つの命だ。端的にまとめてしまえば残党狩りにあたるその任務は、いつも通り唐突に彼らの日常に齎された。本来、暇なときは詰め所でのんびりしている部隊だというのに、こんな時だけは騒がしくなる。とはいえ、そんなのんびりとした日常は実のところかなり希少ではあるのだが。

 所謂戦闘特化である統括部の中で特殊遊撃部隊のような役割を持つこの隊は、上層部から体の良い何でも屋のような扱いを受けているが、その忙しさに反して兎角人材不足が深刻だ。殆ど小隊のような規模のこの隊においては任務に就く前に隊長から下される最優先事項が「バカ娘の確保」──灰汁の強い連中揃いの小隊の中でも、殊更に癖の強い女准尉の捜索なのだから笑い話にもならない。

 件の「バカ娘」は、ヘスペリスの中で二番手の実力を持っている。元々は研究部に属していたらしいが、その奇抜な発想と魔法の応用力を買われて隊長自らがヘッドハンティングしてきたのだという。彼が部隊に入るときには既にヘスペリスに属していたため、その当時の話を詳しくは知らないのだが。


(何処に行ったのか、あの馬鹿は)


 閑話休題。それ続ける思考を現実に戻すも、行きつくところは結局変わらない。瞼を閉じれば、脳裏に浮かぶのは小柄な娘の気の抜けたへらへら笑いと上司の引き攣り顔。幻影でしかないというのに何故か胃がきりきりと痛む音がする。思わず壁を殴ればすさまじい音がしたが、気にするほどの余裕もすでに残されてはいなかった。音に振り向いた通りすがりの同期達の「嗚呼、またか」という視線を受け止めながら彼は視線を窓の外に向ける。硝子の嵌め込まれた窓の向こう側の晴れ渡る空の下で、手入れの域届いた中庭の草木が揺れている。見るからに穏やかな風景だ。木々から零れる柔らかな木漏れ日が中庭に影を落とす。古びていて水の止まった噴水、少し崩れかけたベンチと、其処に揺れる亜麻色の髪──亜麻色の髪?


「み……つけたァ!!」


 窓を開け放って怒鳴り声を上げたのはもう仕方がない。何しろ捜索を始めてより早くも一刻半が経過するのだ。思わず出たその声の余りの声量にわらわらと人が集まってきたが、彼の姿と視線の先を見ては苦笑を零し立ち去っていく。「よくやるなあ」「彼奴も苦労するね」既に見慣れた景色であるそれに投げられた、そんな声を背中にして彼は廊下の窓から飛び降りた。身のこなしは流石に鍛え抜かれただけはあって軽い。音もなく着地をして、ベンチで寝転がるその人影に駆け寄っていく。それにしても、毎度のこととはいえあれだけの声量でも身じろぎ一つしない神経の太さはどうやって鍛え上げられたのか、彼はそれがずっと疑問だ。

 華奢な身体を聊か乱暴に揺さぶる。低く唸る声が小さな唇から漏れて、固く閉ざされていた眼はゆるゆると開かれた。しかしてその奥にある金色の瞳はとろりと蕩けるような様子なので、未だ半覚醒と言ったところか。苛立ちを声に込めて、彼は彼女の名を呼ぶ。


「リュシィ!リュシール!!起きないか!!」

「喧しいぞデフィ……犬でもあるまいにそんなに節操無く吼えるなよ……」


 呑気な大欠伸に、彼の堪忍袋の緒はふつりと切れた。無理もない。毎度のことながら気儘に行方不明になって、一刻半も探し回らせておいた挙句にこの態度とあらば、いくら温厚な彼とて物申したくなる。勿論、論弁で述べたところでちっとも気にすることはない彼女への抗議は、物理的な手段に限る。ぎゅう、と掌を握り込んで拳を作り、それを目の前の娘の頭に叩き落す。ごいん、という良い音と「いっでえ!!」という悲鳴が上がったのはほぼ同時のことだ。


「デフロッテ=ロジエ=オアナ曹長!上官に暴力を振るうとは何事かぁっ!!」

「お言葉ですがリュシール=シャト=フランシェ二等准尉、仕事をサボタージュする上官には当然の罰かと」


 痛みに飛び起きて蹲る娘を冷たい目で見下ろす青年。娘の名はリュシール=シャト=フランシェ、青年の名はデフロッテ=ロジエ=オアナ。揃いの群青のローブと意匠の紋章が示す通り、共にエヴリアン皇国国家直属魔法師軍、統括部『ホーライ』の分隊『ヘスペリス』の隊員──上級士官である。尤も、涙目で唸る娘とそのローブの襟を引っ掴んで猫のように持ち上げて青年の図では、上司と部下というよりも世話を焼く親子のように見えてしまうのだが。


「デフィは乱暴者だぁ……私そんな教育したことないのにぃ……」

「お前こそ士官学校で何を学んだらそんなに厄介ごとから逃げるのに特化するんだ……まあいい」


 うーうーと文句を零すリュシールを逃がさないようにしっかりと引きずりながら、デフロッテは声を低くする。先程のじゃれ合いの時とは違う。蜜色の眼はきゅうと細められ、真剣な光を宿していた。


「任務だ、『哲学する猫シャト・フィロゾフ』殿」

「……承った、『光輝の騎士シュヴァリエ・エタンセル』」


 授けられた二つ名で呼ばれた事に深く溜息を吐きながら、リュシールはその言葉に応じる。考えるように閉ざされた眼が再び開かれたときに、その瞳には漸く強い光が灯されるのだった。

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