第4話 入院生活

 次の日、回診に来た先生に頭の上のロウソクは見えなくなったと、僕は嘘をついた。先生にいくら説明しても無駄だということは昨日の段階でわかっていたし、何よりもお母さんに心配をかけたくなかったからだ。


 頭の上にロウソクが見えるなんて変なことを言ったら、お母さんは僕が事故の後遺症で苦しんでいると勘違いして泣き出してしまった。これ以上心配事を増やすと、お母さんが本当に心労で倒れてしまう。もう僕のことでお母さんを悲しませたくなかった。それで、僕は嘘をついた。


 僕が先生に嘘をつくと、一緒にいたお母さんのほっとした表情した。それを見て逆に僕の方が安心した。それ以来、人の頭の上にロウソクが見えることは、僕の心の中だけにしまうことにした。


 回診が終わると、術後の状態も安定しているということで、翌日、僕は集中治療室から小児病棟の病室に移ることになった。病室は4人部屋で、僕の他にすでに3人の子供が入院していた。


 それまでの僕は、瀕死の重傷だったせいで今の置かれている状況を深く考える余裕がなかったけど、小児病棟の病室にやって来て改めて入院生活の大変さを実感した。


 一番大変だと思ったのは、日頃、何気なくやっていた行動も、左腕と右足をギブスで固定して動けない僕には、大変な作業だということだ。


 体が凝っても自分で寝返りも打てないし、背中が痒くなっても掻くこともできない。喉が渇いても、テーブルの上にある水差を取って自分で水を飲むことさえできないし、汗をかいても自分で体を拭くこともできない。すべて人の手を借りないとできない。特に大変なのがトイレだった。


 昼間、1リットルのペットボトルほどもある点滴を何本も打たれているから、点滴が終わるころになるとオシッコがしたくなる。大抵は、付き添っていたお母さんがやってくれたけど、お母さんがいない時は、看護士のお姉さんに頼まないといけない。それが恥ずかしくて辛かった。


 でも看護士のお姉さんはとても優しくて親切にしてくれて良かったのだけど、お姉さんたちが出払っていると、看護士長のおばさんが代わりにやってくる。このおばさんが曲者だった。


 看護士長のおばさんはプライドが高いらしく、『なんで私がこんな新米がやる仕事をしなきゃいけないのよ』と言わんばかりに雑で乱暴だった。


 僕がトイレに行きたくなってナース・コールで呼ぶと、看護士長のおばさんは、『何、トイレ? どっち? ウンチ? それともオシッコ?』と抑揚のない声で事務的に聞いてくる。僕が『オシッコ…』とか細い声で答えると、何の返事もなくブチッとインターフォンを切られる。それから、しばらく待っても看護士長のおばさんはやって来ない。オシッコがしたくなって呼んでいるのに、ひどいと15分は待たされる。僕の膀胱が我慢の限界を通り越してチョロっと出ちゃった時なんか、『もう! 赤ちゃんじゃないんだから漏らさないでよね!』と烈火のごとく怒られたこともあった。


 たっぷりと人を待たせてからやってくる看護士長のおばさんは、ベッドを囲むカーテンを閉めずに布団を無造作に取り払い、病院着をめくって下着をつけていない下半身をしげしげ見た後、体を横に向けさせてから僕の"お宝"を汚物みたいにつまみ上げて尿瓶の口に突っ込む。そして、オシッコしている僕の姿を、何かの見世物を見ているかのような目で見る。


 用足しが終わると、尿瓶を片付けている間、僕は下半身丸出しで放っておかれる。同室の子供たちや見舞に来ていた大人たちが、僕の姿を見てクスクス笑うのを、僕は屈辱感で泣きそうになったのを覚えている。


 看護士長のこの仕打ちは、わざとしかいいようがない。このことがトラウマになって、僕は看護士のおばさんを見ただけで、僕の"お宝"は縮こまってしまうようになった。


 僕は、ひね曲がった看護士長の性格と同様、頭の上にあるとぐろを巻いたロウソクが、下品な紫色の炎を燃え上がらせていたのを一生忘れないだろう。


 看護士長のいじめに耐えながらの入院生活だったけど、小児病棟に移ってからいいこともあった。その1つに面会が自由になったことだ。


 病室に移った次の日、お父さんの兄さんの紀之伯父さんが奥さんの八重子伯母さんと一緒に見舞に来てくれた。その際、山崎家では絶対に買うことのない桐の箱に入った網目模様の高級メロンを差し入れてくれた。


 気品に満ち溢れたメロンの網目模様は、僕の目には神々しく映り、頭の痛みが薄れていくのを感じたぐらいだった。


 舌なめずりして食べる気満々の僕に、お母さんがメロンのお尻を触って熟し加減を確認しながら言った。


「先生がまだ病院以外の食事をしちゃいけないって言ってたから、このメロンは当分おあずけだからね。それに今すぐ食べるより、もうちょっと熟れてからの方がきっと美味しいわよ」


 そう言って、お母さんがメロンを桐の箱に仕舞い直した時、寝たきりの僕は痛みを堪え、メロンを求めて起き上がろうとした。その食い意地の張った僕の姿を見て、伯父さんが大笑いした。


「晶、死にかけた割には元気そうだな。この調子だと、メロンを食ったらケガもすぐ治りそうだ」


 からかって大笑いする伯父さんだけど、お父さんやお母さんと同様に僕のことを本気で心配してくれているのが、叔父さんの頭の上に立つロウソクの炎の色でなんとなくわかった。


 最初、ミイラ男のように包帯でぐるぐる巻の僕の姿を見た伯父さんは、話しで聞いていた以上に僕の状態が悪いのを知って、絶句してその場に立ち尽くしていた。その時の伯父さんの頭のロウソクの炎が、今にも雨が降りだしそうな時のどんよりとした雲みたいに灰色がかった色だった。


 そりゃそうだ。頭蓋骨が割れて脳みそがチョロって出ちゃったみたいだし、轢かれた右足だって針金のようにグニャリとあらぬ方向へ曲がって、担当の先生が『もしかしたら足を切断しないといけないかもしれない』と手術前にお母さんに言ってたみたいだから、こんな姿を見て驚かないほうがおかしいくらいだ。


 でも、しばらく話しをしていくうちに僕が意外と元気なのがわかって安心したのか、暗い灰色だったロウソクの炎が、帰る時には、赤みを帯びたオレンジ色で伯父さんの話し口調と同じく明るく燃え上がっていた。


 伯父さんたちが帰ったあと、入れ替わるようにして担任の田代先生がクラスメートを引き連れて見舞にやって来た。丁度、看護士のお姉さんが僕の頭の包帯を取り替えていた時だった。


 僕の丸刈りにされた頭には、頭蓋骨を取り外した時にできた、野球の硬式ボールの縫い目のような大きな傷がくっきりと残っていた。その傷を見てクラスメートの顔が引きつると同時に、みんなの頭の上のロウソクが一瞬真っ白に変色した。その時初めて、驚いた時には炎の色が白く変わるのを僕は知った。


 日頃、僕を相手にもしない女子たちが、クラスのみんなで折った千羽鶴の束をベッドの周りに飾りつけてくれたり、励ましの言葉が書かれた色紙や手紙をプレゼントしてくれた。心配そうに優しく接してくれる女子たちに囲まれて、僕はどこかの国の王様気分を味わえた。


 チヤホヤされる状況に有頂天になっていた僕は、『たまにはケガをしてみるのも悪くないな』と、生死の境をさまよったことも忘れてそんなことを考えていた。


 親友のマコや、事故の瞬間を目撃したオギと森本も来てくれて、事故の時の状況を身振り手振りを加えて詳しく聞かせてくれた。彼らは、そのあと頻繁に見舞に来てくれて、退屈で辛い入院生活を少し楽にしてくれて本当に助けられた。

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