パリは燃えているか
歌から出た話。
今回は、加古隆の「パリは燃えているか」を。
「秋の使者」というパウル・クレーの絵を見ながら即興で奏でた音の方が私は好きなのだけど、NHKの「映像の世紀」で使われていたこの曲の方が聞き覚えがある人が多そうなので今回はこれにした。
加古隆を知ったのは、過去に好きだった人にこの人のピアノを紹介されたからだ。
その時は実はあまり好きではなかった。だけどそれを口にする事は彼とのつながりを否定してしまうような微かな罪悪感と、本心を隠すように取り繕った笑顔を浮かべて媚びるような目で彼を見ていた浅ましい計算がばれて嫌われてしまうんじゃないかと怖くて、イエスともノーともとれないような曖昧な返事しかできなかった。
今振り返ると、ばかな話だなぁと思う。
加古隆を再び引っ張り出して聴こうなんて考えてしまったのは、その人が昔住んでいた街で、その彼に佇まいがあまりに似た人と知り合ったからだ。
爛漫な春の陽気にどこか取り残されたような、冬の土の匂いがする人だった。
加古隆には、雨が似合うと思う。音の数が多いからだろうか。
リストもラヴェルのように、夢に誘い込もうとする甘やかさのある音ではないのに、
遠慮がちに緩やかに、だけどしっかりとした足取りで記憶の輪郭をなぞってくる。
「食べ方は生き方だし、歩き方は人生」とあの人は私に言った。
あの時はいったい何の事だろうと思って不思議で覚えていたのだけれど、今振り返るとこのピアノの音のように深く入って刺さっている。
今でも、あの人の本当の気持ちは私にはわからない。
彼に似たその人は、もしかたらこの言葉を話したらわかるのだろうか。
その人には悪い話だけれど、願掛けににた気持ちで脈絡もなく聞いてみようか。
できるわけ、ないだろ。
苦いコーヒーで、出掛かった言葉をもう一度喉に流し込む。
過去とは決別したと人前では散々カッコつけるくせに、そんなどうしようもないかつての消化不良の気持ちが耳を通過する旋律と共に頭をもたげるのだ。
かといって、過去にもう一度戻りたいかと聞かれればノーと答えるだろう。
桜と共に来て、桜と共に去ったあの人のことを否が応でも思い出す。
あの薄紅の花のように、いつだって別れは呆気ない。
時折ひゅうと吹く冷たい風みたいに、胸の中の埋めきれなかった小さな穴を通り抜けてゆく。
そろそろ桜の季節だ。
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