外車整備士は底辺でも辞めないようです
みりお
変な音
変な音
これは自動車整備士なら客によく言われるセリフである。
「運転してたらカラカラ変な音がするんだけど、何だろう? 心配だからちょっと点検してくれないかな? 」
そう言うと小柄な老紳士は整備受付カウンターでサービスフロントの長岡邦洋にセダンの鍵を預けた。
長岡は皺の寄ったスーツ姿で丁寧に客をショールーム奥の小さな丸いテーブルに誘導しショールームアテンダントの佐々木みゆきにお茶を出すよう伝えた。
『中川さーん、ちょっと異音修理入ったからこっち来てもらえます?』
長岡は自分より二つ年上のメカニックの中川博人に甲高い声でインカムの通話ボタンを押して話かけたが10秒ほど経っても中川からの応答は無い。
『中川さーん、聞こえてます?』
長岡はインカムでもう一度話かけると『今行く』と短く低い声で返答があった。
中川は整備工場の入り口から3番目の二柱リフトに乗せている赤いステーションワゴンのエンジンルームに手を突っ込んで作業をしていた。
「うるせえな!」
中川はタイミングベルトの交換作業中に邪魔が入ったことに苛立っていた、タイミングベルト交換はクランクプーリーとカムシャフトプーリーの歯とベルトの歯を正確に合わせながらベルトテンショナーにベルトを掛けなければならずその工程が終わるまではベルトをたるませ無いように両手で押さえ続ける必要がある。
もう少しでベルトが掛かる所だったがしょうがないと中川は手を離した。
手を離れたベルトはだらんとたるんで合わせ位置からずれた。
中川が作業中の3番リフトからサービスフロントのある事務所に向かってメカニックグローブを脱ぎ捨てながら速足で歩き出す。
色がはがれて黒ずんだ白い鉄の扉がガチャンと音をたてて開くと中川は青白い細面の顔で長岡に向かって言った。
「何だ」
長岡は整備受付カウンターの前に立っていた。苛立っている中川を視界に入れずにショールーム入り口の前に停まっているシルバーのセダンを指差して「あの帯広ナンバーの23-42カラカラ音するから、ちょっと走って確認してもらえます?」と中川に作業指示書とキーホルダーに孫の写真と思われるシールが張り付けてある車の鍵を渡した。
中川が指示書を確認すると、そこには異音と2文字だけ印刷されていた。
問診ぐらいしたらどうなんだと中川は長岡の丸い横顔を横目で見ながらショールーム端の従業員出入り口に向かい振り返り「長岡、スーツにアイロンぐらいかけろ、ここは高級外車ディーラーなんだからな」とチクリと釘をさして扉を開け、扉横に置いてある紙マットとビニール製のハンドルカバーとシートカバーを1台分棚の下から取り出すと、ショールームの外に出てシルバーのセダンに向かってキー内臓のリモコンドアロックのボタンを押した。
「あ? 何だ、壊れてるのかよ!」
中川は吐き捨てるように言うと車のキーをセダンの運転席ドアキーシリンダーに差し込み、ドアを開けると手早く紙マットとシートカバー、ハンドルカバーを装着し車に乗り込んだ。
「うわっ、狭」
中川はセダンの運転席シートが前側に調整されていたのに驚き窮屈すぎて悲鳴を上げた、身長181センチの中川には小柄な老紳士のシートポジションは狭すぎたがシートの位置は極力触らないのがメカニック基本所作だ、お客様のシート位置をずらしたまま元の位置に戻すのを忘れるとCSスコアに影響するからである。
自動車ディーラーは製造メーカーが抜き打ちで行うサービスアンケートに神経を尖らせている、アンケート項目は多岐にわたりその中にはには〈シートの位置〉に関するものがあり評価が低いとCSスコアが下がり、新車や純正部品の仕入れ原価をディーラーが不利になるように値上げされるからである。
中川はセダンのエンジンを掛けシフトノブをドライブに入れ、ゆっくりと走り出した。
カタカタカタ……
異音はすぐに確認できた、5メートルほど走行して中川は呟いた。
「タイヤが緩んでいる」
メカニック歴20年のベテランである中川には何度も聞いたことのある音色であった、そのままセダンを工場の入り口から二番目の作業リフトに入れて車を降り隣に止まっている赤いステーションワゴンの前にある自前のアメリカ製の赤い工具箱の引き出しを開け中からトルクレンチを取り出すと、19ミリの駒をレンチに取り付け異音のするセダンに向かい運転席側からホイールボルトを締め付けてみた。
車を時計回りに一周して左前のタイヤを締め付けてみると、スカッとホイールボルトは拍子なく軽く回り締め付けが足りていない。
中川はインカムで『長岡、タイヤゆるんでるわ』と短く伝えた。
タイヤのボルトは左側が緩む事が多い、通常ねじ山は右回しで締め付けるように出来ているため左側に取り付けてあるねじは緩む方向に回転するため緩みやすい、自動車メーカーによっては左側の回転部品を締め付けているねじは左側に回すと締まるねじを使用する場合もある。
インカムから長岡の返事は無く、しばらくすると黒ずんだ白い鉄の扉がガチャリと音を立てて開き「それ、やばいわー、最近この車ウチの店でタイヤ交換してるんだよ!」と長岡は透明な3色ボールペンをカチカチ鳴らしながら言った。
「笹島ぁ、お前がこの前タイヤ交換してる整備履歴残ってたぞ、客にタイヤ緩んでましたって言えねえだろが!」
長岡の声が向上に響き渡った。
「えっ、俺すか? すんません……」
笹島は小さい声で答えた。入社2年目のメカニックの笹島巧は22歳だが小柄で気弱な性格だった、あまりにも童顔で中学生というあだ名で呼ばれる事もありビクつきながら長岡を直視出来ずに俯いていた。
「あークレームになるだろうがっ!」
怒気を強めた長岡は参ったなと言わんばかりにいつもより高い声で薄くなった頭を搔きむしりながら、うろうろと工場を歩き始めた。
中川は異音の原因はタイヤ取り付けボルトの緩みで間違いないと思ったが、念のためセダンをリフトアップして足回りの点検を始める。
「問題ないな」
中川は独り言を言うと、ついでに消耗品で稼げる個所が無いか確認したが特に問題は無くリフトを下げた。
うろうろしている長岡は客にどう話すか考えているのかさらに三色ボールペンをカチカチさせている。
「試運転してくる」と告げて中川はセダンに乗り込み工場裏側の出入り口から工場周辺の町内を走り始めた。
異音がしない事を確認して3分程で工場に戻ってきた中川は工場前にセダンを止め運転席側の窓を開けると長岡が踵のすり減った靴を鳴らして駆け寄って来た。
「OKだ」
中川は車内から長岡に伝えると「中川さーん、オレいいこと思いついちゃった」と長岡は少年のような笑みで手のひらに乗せた石ころを差し出した。
「何だよ」
中川は、訝しげに長岡を睨んだ。
「これ挟まってた事にするから、グラインダーで一か所削ったんだ」
長岡は丸い顔をさらに丸くして中川に笑顔を見せる。
「本当のこと伝えないのか? 」
中川は呆れて言った。
「車、玄関前に回しといて。客に本当の事言ったら怒られるし俺ストレス死にしちゃうから」
そう言うと長岡は駆け足でショールームで待つ客の処へ向かった。
「アハハ、そうなんですか?」
ショールームの奥から佐々木みゆきの笑い声か響いた。
佐々木みゆきは外車ディーラーにいる典型的な美人受付嬢だった、見た目は若く20代中盤程度に見えるが今年30歳を迎えるベテランであった。
「あっ、終わったみたいですね」
胸にお盆を抱きしめた佐々木みゆきが老紳士と共に、小走りで近寄る長岡を見つめた。
「お待たせしました」
長岡は石ころを指でつまんで「これがブレーキディスクとバックプレートの間に挟まって音が鳴っていたんですよ、走行すると石が擦れるから削れてるでしょ? お車には問題ありませんのでご安心ください」と言って客に石ころを見せた。
「なんだ、良かった。変な音がしたからびっくりしたけどハハハ、石が挟まっていたのか。ありがとう、おいくらですか?」
「いやぁ、お代は結構です、石が挟まってただけですから」
長岡はショールームから入り口外に停車しているセダンに向かって手のひらを向け老紳士を玄関方向に誘導した。
老紳士は立ち上がると「いつも、すまないね」と言い玄関に向かって歩き出した。
長岡と佐々木みゆきはショールームを出て老紳士がセダンに乗り込み車道に消えるまで見送った。
長岡が工場に戻ってくると握っていた石ころをゴミ箱に放り投げ「笹島ぁ、気をつけろよ。お前罰として今日昼当番な、中川さん飯っすよ」と言った。
長岡は小太りの体を翻して鉄の扉を開け「セブン行ってくる、何食うかなぁー」と言って尻を搔きながら出て行った。
中川は小さくなっている笹島に向かって「さっきの車、タイヤ交換繁忙期の作業だろ、忙しい時こそ焦らず確実に作業しろ、客は待たせとけばいいんだ、タイヤが緩む原因は色々あるから変だと思ったらすぐ俺に言え」そう言って中川は手を洗って休憩室に向かった。
「オレ整備士に向いてないのかな」
小さいこえで笹島はつぶやくと工場を掃除し始めた。
春の風はまだ冷たく溶けた雪の中からゴミが風で舞いシャッターが全開の工場はすぐに埃っぽくなり掃除のしがいがあった。
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