5.ミイラからの依頼

 翌日八月十五日からロンドン観光に入った。一日目は、ベイカー街のシャーロック・ホームズ博物館とマダムタッソー、チェリングクロスの古書店を巡り、二日目は、ジェイス氏が手配してくれたパレスシアター公演の『ハリー・ポッターと呪いの子』を、ディック・ジェイスと共に観に行った。大雨の三日目は、近所のディケンズ博物館を見学した。そして、四日目に念願の大英博物館のエントランスを潜った。

館内マップをもらい、見学するエリアを絞った。これからは、毎日だって足を運べるのだから、欲張って見る必要はない。今日は、エジプトエリアを制覇だ。

「リグル、私の上から降りちゃダメよ」

 アンリは、リグル二世に館内マナーを伝えると、魅力的なミュージアム・ショップを横目に、西展示室の三部屋で構成されたRoom4に入っていった。正面の部屋では、二十人程の見物者が中央のガラスケースを囲っていた。アンリは人々の間をすり抜け、ケース前に出た。そこには、大英博物館の至宝であるロゼッタストーンが君臨していた。彼女は展示物をマジマジ観察した。

 ロゼッタストーンは、一七九九年ナポレオンがエジプト遠征時に、ナイル河口の町ロゼッタで発見した、高さ一一四センチ、幅七三センチ、厚さ二八センチの玄武岩の石碑である。紀元前一九六年頃に、プトレマイオス五世によって勅令された法が、上段から古代エジプト語のヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民用文字)、ギリシャ文字の三種語で刻まれている。この文章がヒエログリフ解読の手掛かりとなった。アンリは正面Roomから左Roomに進んでいった。

 このフロアーには、右胸に穴が空いたラムセス二世の胸像、頭部が大きく破損したツタンカーメン像、メリモーゼの棺、神官カエムワセトの像、ハトホル女神の顔が施されたシストラム(楽器)の上に腕を組む神官ロイの像、神官パヘムネテジャーの棺蓋、羊姿のアメン神に守られるタハルカ王の像、出産の女神タウェレトの像、古代エジプト王がホルス神と同一視されることを習って表されたホルス神としてのローマ皇帝像、ギリシャ人に公共浴槽にされたネクタボ二世の石棺、書記官兼軍人ハプ・メンの人型石棺、巨大スカラベ像、ネコ姿のバステト女神像、プトレマイオス八世の記念碑などが展示されていた。

 左室を回り終え、ロゼッタストーンの正面室に戻ってきたアンリは、右Roomに移動した。こちらフロアーには、王の祭神殿から見つかった欠片から復元されたアメンホテプ三世の像、ライオン像、異端王(ハトシェプスト、アメンホテプ四世、ツタンカーメン)の名が排除されたラムセス二世の王名表、カイハプの偽扉(霊魂が供え物を取りに、埋葬室から礼拝室へ抜ける為の扉)、蕾型のパピルス柱、 アメネムハトの座像、ギザの三大ピラミッド傍に建つスフィンクスの奪われた髭、高さ二.九メートルの二重冠をつけたアメンホテプ三世の頭像、ソボケメサフ一世の像、ホルエムヘブと妻の像、ライオン顔をした四体のセクメト神像、アメンホテプ一世の妃アハメス・メリトアテンの像、 テティの方形座像などの展示物があった。 

  十二時半に一階のRoom4を回り終え、上階のグレートコートレストランで昼食をとった。午後は、二階のエジプトエリアRoom61~66を回る予定だ。アンリは北展示室正面のRoom56を突っ切ってRoom63へやってきた。Room61~Room65が横に連結し、Room63の奥がRoom66となっている。アンリは、左室のRoom64・65から見ていった。

独立ケース内に、「ジンジャー」の愛称がつく初期王朝のミイラが、土器に囲まれ、蹲った姿勢で埋葬されている姿が再現されていた。これは、自然埋葬によってミイラ化した遺体である。アンリが対話できる遺体は、カー(聖霊)が宿ったミイラに限定されるため、延命儀式を受けていないモノとは対話ができない。延命には、ミイラ化(遺体保存)、彫刻・図像の制作(ミイラ以外に霊魂を宿す確保場所)、葬祭儀式(身体機能回復の「開口の儀式」、聖霊に飲食物を捧げる「供物奉納儀式」)が不可欠である。

 古代エジプトの思想では、肉体は「バー(魂)」「カー(聖霊)」「アク(カーを宿す器)」の三要素で形成されている。肉体が死ぬと、「魂(バー)」だけが離れ、冥界へ行く。冥界の旅から帰った「バー」は、「カー」「アク」と再合成し、復活を遂げる。この再合成には、ミイラ作りと葬祭儀式が必須となる。

 基本のミイラ作りは、①ナトロンで肉体を洗浄する②心臓以外の内臓を除去する③三五日~四十日かけて肉体を乾燥させる④肉体に詰め物をする⑤肌の表面に樹脂を塗布する⑥包帯巻作業⑦聞口の儀式(呼吸、会話、食事をできるように)⑧棺に納めるの工程となっている。

 身長一六三センチのジンジャーの推定年齢は十八~二一歳。死因は、長さ十二センチ以上、幅二センチの刃物による刺殺で、刺し傷は背中から肺に達していると二〇一二年に発表されている。ミステリー好きとして、彼と話せないのは非常に惜しい。アンリは、未練を断ち切り、隣接されたジンジャーのCT画像が見られる機械を操作した。滅多に見られないミイラの切断画像に興奮した。

少女は次々と展示物を見ていった。ナイル川の泥や粘土を原料につくられた壺、動物型の化粧パレット、鳥型の油入れ、アラバスターの壺、 アビドスの王墓の想像図、ジョゼル王の階段ピラミッドの釉薬で色付けされた青タイル、 階段ピラミッドの玄室(王の遺体を納めた場所)、第三王朝役人兼船大工アンクワの像、クフ王のピラミッドの石、高官カーテプと妻ヘテプヘレスの座像、アマルナ書簡(外交書簡)、黒檀と象牙でつくられた椅子、ビーズの首飾り、タハルカ王のスフィンクス像ともろもろ見て、Room63・62に移動した。

 東側にウジャトの眼が描かれた中王朝時代の木棺、ホルス神の四人の息子を表す頭蓋のカノポス壺(人間の臓器を入れる容器。蓋は人頭=肝臓・ヒヒ頭=肺・ジャッカル頭=胃・ハヤブサ頭=腸)、冥界で死者の代わりに労働を担う労働姿の木製人形、ミイラに力を与えるオシリスの背骨を表すジェドの柱、第十七王朝アンテフ王の木棺、侍女サトジェフティとされるミイラマスク、女神官ヘヌトメヒトの棺、ヘヌトメヒトのシャブティ(ミイラ型の労働人形)を納める箱、第十八王朝の女性カテベトのミイラ、『死者の書』(冥界の旅で死者を助ける呪文の書)、ラムセス一世とラムセス六世の木像、第二一王朝・第二二王朝 の彩色人型棺、シャブティ(労働人形)、供え物のザクロ、第二五王朝のミイラ、プトレマイオス王朝のカルナック神殿神官ホルネジイトエフの色彩棺、ローマ時代の肖像ミイラ、死者がトガ(古代ローマの衣服)を纏った姿で描かれた棺、神々の像、ミイラの心臓・肉体を守る為の護符といったものがあった。Room62から61へ移った時だった。

「クソッたれ、博物館の奴ら」

「?」

アンリの耳に、明らかにケース内から発せられた篭り声が届いた。彼女は、常にまとわりつく見学者たちのざわざわ声の中から、篭った悪態声を探した。声の主は、独立ケースに入れられた傷だらけの人型棺の中で、三角座りの姿勢で仏頂面をしていた。外のパネルには、『ルクソール西岸・シェイク・アブド・エル=クルナ 第YZ号墓のミイラ』と記されていた。他に見物人がいない今なら大丈夫。アンリは中腰になって、対象物に話しかけた。

「あなた、さっきからずっとブツブツ言っているけど、どうしたの?」

 声をかけられたミイラは、ギョッとした目でアンリを見た。

「あんた、俺の声が聞こえるのか?」

「じゃなかったら、訊いていないわ」

「そうか、天の助けとはこのことだな。よかった、神への信仰心を捨てなくて」

 ミイラは滲み出す涙を腕で拭った。

「お嬢さん、いや、我が救世主。この哀れな魂をお救い下さい。アーメン」

 アーメンって?キリスト信者じゃあるまいし。

「どこで、その言葉を覚えたの?」

「おお、我が主よ。私は目覚めた時から、この狭苦しい場所に監禁されているのです。来る日も来る日も、他人の目に晒されては、異国語を浴びせられているのです。お分かりになりましょっ」

 オーバーな物言いと思うかもしれないが、彼らの立場からしたら、展示は監禁になるのだろう。まあ、言語習得以外娯楽になるものがないのだしね。しかし、教会でない所でお祈り語を得るとは奇妙だ。

「あなた、物覚えがいいのね」

「最新の言葉は、スマートフォンですかね」ミイラは得意がって言う。

 時代に適応しているとは驚きだ。ティティは一単語習得でやっとなのに。

「旧式と何が違うのかは知りませんがね」

「私も知らない」

「へぇ、現代人なのに」

「悪かったわね、時代についていけてない人間で」

「別に、非難していませんって」

 ちょっぴり膨れるアンリに、ミイラは笑顔で言い繕った。

「それで?私はあなたを何から救えばいいのかしら」

 アンリの問いに、ミイラは神妙な顔で答えた。

「あれは忘れもしない悪魔が舞い降りた日でした。一昨日、ここの…がくげぃ、何でしたっけ?」

「学芸員」

「そう、その“がくげいいん”が、ここで俺をどん底へ突き落としやがったんです。奴らの組織はなんでも、新しく入手したミイラをこの部屋に加える代わりに、俺を追い出し、倉庫に移す陰謀を企てていたのです」

 このミイラ、一々物言いがオーバーである。

「これ以上缶詰になるなんて惨すぎる。そりゃ、恨みましたよ。神も呪いたいほどに。ですが、今日あなた様と出逢い、私に一筋の光が当たりました。どうか、この迷える子羊をお救い下さい。アーメン」

 ミイラは手を組み、アンリに縋った。

「私に代理人になって、館長に談判しろと?」

「通訳はもちろんですがね。根本的な頼みとしましては、身元調査を」

「ん?あなたの口から聞けば済むことでしょ」

「それは、困難かと」

「どうして?」

「敵は相当値打ちのあるミイラらしく…ですね。実は俺、生前の記憶がすっからかんで、名前すら覚えていない状態なんです。ですから、俺の身元を完全に洗わないことには、対向できないかと」

 アンリは、唖然とする。

「一から私に調査しろと?」

 ミイラは「理解がお早い」と手を叩く。

「もし、俺が新参者より高貴な家柄の出身であることが判明できれば、勝算がありましょっ」

「貴族ったって、ピンからキリよ。そう都合良くいくかしら」

 プロでも知れなかったことを、生半可な知識の者がやって、得られるものがあるというのか。しかし、やらねばこのミイラは暗い倉庫の中でお陀仏になってしまう。アンリは決断した。

「私、今は未熟者だから、保証はできないわよ」

 この言葉で、ミイラの崇拝心は最高潮に達した。

「我が主よ。このご恩は一生胸に刻まれましょう。あなた様とお連れのペットにも神の思召しがあらんことを。アーメン」

 彼がかける期待度に眩暈を覚えた。崇拝語は以後やめてもらいたい。

「その呼び方やめて。私はアンリ、この子はリグル二世」

「アンリとリグルか」

「あなた名無しなのよね。ん~ん」

「名前付けてくれるのか?カッコイイのを頼むよ」

「そいつには、私がペートって似合いの名を授けてやったわ」

 アンリたちの背後から、女性寄りの篭り声が聞こえてきた。

「だまれ、ジェイコブ」

エル=クルナのミイラが、二メートル離れた陳列ケースの中でポーズをとっているミイラを怒鳴りつける。

「私は宮廷舞姫ティナだって、何遍言わすのバカ」

「誰が舞姫だよ。オネエのジェイコブ」

 オネエのミイラは、鬼の驍宗(ぎょうそう)になる。どうやら彼らは険悪の仲らしい。二体のやり取りをよそにアンリはエル=クルナのミイラの仮名を考えていた。

「アノク。アノクはどう?」

「アノク、アノク、アノク。…おお、胸に響く名だ。ありがとっ、アンリ」

「センスのない名だわ」

「だまれ、ジェイコブ」

「私をその野蛮名で呼ぶんじゃないわよ、馬鹿ペート」

 Room62にもオネイミイラがいたが。Room61の彼女?はまだ認知されていないようだ。

 アンリはヒートアップするアノクとティナの口撃を制した。 

「ティナ、あなた、アノクの生前の情報を掴んでいたりする?」

「知らないわよ。こいつとは、ここに来てからだもの。第一、宮廷舞姫の私とこの下人に接点があると思う?」

「下人だと?…俺は、貴族ではあるんだからな。今に見てろ、俺の素性が知れた暁には、お前も博物館の奴らと、傅(かしず)かえさせてやる」

 こいつ、何てことを。その過剰な自信はどこからくる。保障できないって言ったのに、そんな豪語して。余計なプレシャー掛けないでよ。

 アンリは喧嘩する二体を放って、事実確認を取りに、地下の学芸員室を訪問することにした。エレベーターで下に降り、展示室には目もくれず、立ち入り禁止の表示も無視して、ずかずか踏み込んでいった。見つかれば、確実につまみ出されるなりからして、機密を盗みに忍び込んだスパイの気分であった。修復室、資料室と通過して、学芸員室までやってきた。ドアのガラス部分から中を覗くと、二人の職員の姿が確認できた。

「失礼します」

 部屋には六人の職員がいたが、誰もアンリに気づいていない様子だった。チビだから認識されずらいという訳ではないだろうが。彼女は、話を聞き出せそうな人物を探した。椅子で伸びをしている者が一人、菓子を摘まんでいる者が二人、作業中の者が三人いる中で、アンリは、椅子で身体を捻っている男性を選んだ。

「すみません」

「ん?見ない顔だね。新人さん?」

「私はただの来館者です。二階の展示室から一体のミイラが倉庫移動になる話を聞いて、事実か確かめに伺いました」

「はっ?ミイラ?」

「ルクソール西岸のシェイク・アブド・エル=クルナ 第YZ号墓から見つかった貴族のミイラです。傷だらけの人型棺に収められている名無しの青年ミイラ」

 アンリはスマホの写真を見せた。

「ブフッ」

 真剣に問うアンリの姿勢に、男は吹き出した。

「…笑って、ごめん。勤めて五年、そんな事尋ねに来る人は、ブハッ、居なかったからさ。ハァァ、面白いね君。…ちなみに、動物は入館禁止だよ。キュートなリスも例外に非ず」

 可笑しなことを言った覚えはないのに、どうして皆、私を珍生物扱いするのだろう。ムカつく。

「質問の答えは?」

「ああ、エル=クルナのミイラね。残念だけど、俺は君が掴んだ話については知らないな。――誰か、シェイク・アブド・エル=クルナ第YZ号墓ミイラの、移動話を知っている者はいないか?」

 男は室内にいる同僚五人に、アンリのスマホ画面を見せて尋ねた。

「何だって?ミイラ?」「移動話?」

「このお嬢さんは、贔屓(ひいき)のミイラが倉庫に送られる噂を聞いて、真相を確かめに来たんだと」

「何だ、それ?」「変わってるのね」

「その話、アボック邸から運ばれてくるミイラとの入れ替えことでしょ。今月中に遺贈される予定になっているから、今いるガラクタと交番ってわけ」

 お菓子を摘まんでいるおさげの女性が答えた。

「残念だったね、お嬢ちゃん」

「私、別にアノクを贔屓している訳ではありません」

 仕舞った!

「アノク?それ君が付けたの?」

「プッ、マジか」「笑っちゃ、かわいそうよ」

 アンリは、逃げ出したい衝動を抑え込んだ。これを訊かずに立ち去れない。

「彼をガラクタ扱いするのは、遺贈されてくるのが、高貴なミイラだからですか?」

「来るのは、書記官アニよ」

 また、おさげの女が答えた。

「アニ?…『死者の書』の?」

「そう、そのアニのミイラが当館のコレクションに加わるの」

 アンリはRoom62で『アニの葬祭用パピュルス』(死者の書)の現物を見たばかりであった。アニは、王の書記官に当たる人物であるからして、標的としては厄介といえる。

「あの、エル=クルナのミイラは、誰が発見したんです?」

 なぜ、そこまで探るのかと怪訝な顔をされたが、ミイラについての論文を書いているとでっち上げたら納得してくれた。

「さあ、資料庫を漁れば分かるでしょうけど。…レイ、あなた調べてあげれば?」

「俺は暇人じゃないぞ」

 男は仕方ないという顔をして、アンリに告げる。

「すぐにとはいかないが、愉快にさせてくれたお礼に協力するよ」

 反射的に膝に蹴りを入れたくなった。分かり次第連絡を入れてくれるというので、下宿先の番号を教えた。

「できれば、個人番号が欲しいな」

「お断りします」

 腹が立ったアンリは、取り澄まして断った。用が済んだ彼女は、学芸員室を退散した。

「何か?」

 廊下で立ち止まったアンリは、ついてくる男に訊く。

「見送りだよ」と彼は、ニコニコ顔で答えた。

「お忙しいでしょうに、結構です」

 アンリは愛想なく言い放った。

「いいね。君は口説きがいがある」

「……」

「これ、俺の番号。いつでも連絡どーぞ」

 男は無視するアンリに名刺を押し渡し、去っていった。

それから、二日後の夕方に男から連絡が入った。翌日九時半に指定場所を訪ねた。

「おはよう、アンリちゃん。…館長室まで案内しますよ」

「どうも」

「ダメって言ったのに、リスちゃん連れて来たんだ。…名前は?」

「リグル二世」

「二世。一世は?」

「もういないわ」

「ふぅん。あの後、君を想って大至急資料をかき集めたんだから、今日は本元の連絡先教えてよ」

「……」

「つれないね。彼氏がいるの?もしかして、電話に出た人?」

 喧嘩売ってる?この世で絶望的に「彼氏」という言葉に縁遠い私に向かって。

 頼みごとをしておいて悪いという気持ちはあったものの、アンリは投げかけられる質問にシャッターを下ろし続けた。館長室に着くと、さすがの男も、お茶らけ顔を引っ込めた。

「レイヤードです」

「どうぞ」の声がかかり、二人は室内に入った。

「失礼します、館長。…この子が」

「アンリ・スタンフォードです」

「館長のラニスです。さあ、掛けて。…おや、肩に乗っかっているのはリスかね。行儀の良いリスちゃんだ。レイヤード、スタンフォード君に飲み物を、序に私のコーヒーも頼む」

 座るや否や、飲み物のリクエストを訊かれ、紅茶を注文した。レイヤードが出ていくと、館長は手元の資料をテーブルに出した。

「レイヤードから君の調査は研究目的だと聞いたがね。君の気にかけているミイラは、一九四七年にロンドン大学考古学研究所のチームが発見したもので、現場はルクソール西岸・シェイク・アブド・エル=クルナ」

 ラニス館長はルクソール西岸の地図を広げ、ハトシェプスト女王葬祭殿から南に一キロ下った貴族の墓の一帯地区を指差した。この一帯は新王国時代の高官の墓が主に発見されている。アンリはペンとメモ帳を出した。


八月十八日

ルクソール西岸・シェイク・アブド・エル=クルナの貴族ミイラ

仮名:アノク

三一日以内にRoom61から倉庫に移される予定。標的は王の書記官アニ


八月二一日

発見時:一九四七年

調査隊:ロンドン大学考古学研究所チーム

エル=クルナ(新王国時代の高官の墓が主の集落墓地)


「研究テーマを伺っても?」

「研究テーマですか」

 アンリは内心悲鳴を上げながら、即興する。

「ミイラに見る…古代人の」

言葉に詰まりかけていた時、ちょうどレイヤードが入って来た。考える隙が生まれ、アンリは救われた。レイヤードがテーブルにカップを置いた。

「ありがとう」

「どういたしまして。…俺の番号登録してくれた?」

「一応」

 それを聞いた彼は、アンリに少年のような笑顔を返した。

「他に用がなければ、私はこれで」

「ああ、ご苦労さま」

 部下が去ると、ラニス館長は声を上げた。

「驚いた。レイヤードの想い人は君か」

 何ですって?館長の思わぬ発言に、アンリはポカン状態になる。

「プレイボーイに見えがちだが、彼は好青年だよ。恋人に狙っている子は多いようだし。そんな中で、選ばれた君は幸運な娘さんだ」

「やめて下さい」

初日に口説いているところでどこが好青年よ。あの慣れようは常習犯に決まってる。私は靡(なび)かない。それに、能力のことを知ったら上辺でも笑顔を向けてくれなくなることは明白ではないか。

「あっ、君の研究、ミイラに見る古代人の…」

「死生観です」

「フム、それでエル=クルナのミイラの役割は?」

「中王国時代と新王国時代と第三中間期を対象に、時代背景、ミイラの技法から死生観の変化を見ていく計画なので、調査対象のミイラを選別してたんですが、目を付けていた彼が倉庫に行く話を耳にしたものですから」 

「他のモノに替えればいいのではないのかね」

「このミイラが、新王国時代では一番良好だからです」

「なぜ、君はこれが良好だと?」

 アンリは、束で置かれたアノクの部位別写真を取って説明した。

「一つは指の包帯です。各指ごと丁寧に包帯が巻かれています。それと、遺体の型崩れが見られないことからも、上級の製法が用いられたことが分かります」

「さすが考古学専攻者」

「学芸員だった母の請負です」

「なるほど」

 少女はラニス館長を納得させることができ安堵した。アンリは彼に断り、レイヤードが出してくれた資料に目を通した。


整理カード

収集年月:一九五九

収集者名:大英博物館

資料名:シェイク・アブド・エル=クルナ 第YZ号墓のミイラ

寸法:身長一六五センチ

(省略)

源収集者:ロンドン大学考古学研究所

源収集者住所:Bloomsbury,London WC1H OXG

保存状態:良好

(省略)

入手状況:発掘

伝来:エジプト出国(一九五〇)→ロンドン入国(一九五〇)→ロンドン大学考古学研究所(一九五〇)→大英博物館(一九五九)

制作年:B.C1355年頃

技法:新王国時代の技法

付属品:彩色人型棺


「館長さん、良好なエル=クルナのミイラを、今回の移動候補に挙げたのはなぜですか」

「それは、身元の分からんミイラだからさ。」

「でも、再調査すれば身元の手掛かりが何か見つかるのでは」

「墓内部の状態や出土品を見る限り、このミイラが高貴な人物だったとは思えないね。再調査したところで費用の無駄だろう」

 勝手な先入観で、アノクを切り離すなんて、世界屈指の博物館の館長としてどうなのか。なんとしてもこの状況を打破しなくてはという信念が沸き起こった。

「第YZ号墓から出土した遺物で他に収蔵品はありますか?」

「カノポス壺とあと何点かはうちが収蔵していると思うが。…もう少し踏み入った情報を掴みたいのであれば、本元(大学)を探るのが手だな。ルイス教授、彼は長く在籍している人だから訪ねるといい。ああ、君は生徒だから、顔見知りだね」

「あっ、はい」

まあ、これから成る予定だし、これくらいの嘘は問題ないでしょう。エジプト学者のルイス教授ね。校舎は開いているだろうから、この後、訪ねてみよう。

 アンリは、博物館から徒歩六分でロンドン大学にやってきた。事務所で研究室を尋ね、言われた部屋へ向かった。今は夏休みのため、ほとんどは暗室状態だったが、幸いルイス教授の研究室からは明かりが漏れていた。アポなしで来てしまったが大丈夫だろうか。アンリは一呼吸して、ノックした。

「どうぞ」

「失礼します。ルイス教授ですか?」

「そうだが、君は?見ない顔だね。」

 穏やかな目をした白髪の男性が回転椅子を回して向く。

「突然押しかけてしまってすみません。私はアンリ・スタンフォードといいます。まだ学生ではなく。九月からなる予定ではありますが」

「まずは、ソファに掛けなさい。…お茶を淹れよう」

 ルイス教授は戸棚から二つコップを出して、アップルティーの粉末で、アイスティーをつくった。土産にもらったデンマークのクッキーも出す。

「どうぞ」

 アンリは礼を言って、バタークッキーに手をつけた。

「九月から学生になると言っていたが、今日は校内見学かい?」

「そうではないんです。あの、お時間大丈夫ですか」

「大丈夫だよ。…一つ気になっていることをいいかい?その肩に乗っているのはリスだね」

 ルイス教授はリグル二世に興味を持ったようで、しばらく彼女に関する脱線質問が続いた。そろそろ本題に戻りたいと思ったアンリは、リグル二世と戯れる彼の気をズバッと絶った。

「そうだった、ごめんね。…君の要件を聞こうか」

 アンリは、コーヒーテーブルに博物館でもらったコピー資料を置く。アノクに関して、学生でない私が論文のための調査という理由をつくのは可笑しい。ルイス教授には真実を語る他ない。そう思ったら、恐怖が滝の水となって襲ってくる光景が頭に浮かび、アンリは身構えるように膝の上で拳をつくった。

「教授、今からする話に耳を疑われると思いますが、私は作り話はしません。このことを踏まえ、最後まで聞いていただけますか」

「他言無用ということかね」

「はい」

 アンリは紅茶で舌を潤し、一呼吸した。彼女は覚悟の一言を発した。

「発生原因は不明ですが、私にはミイラと対話する能力があります。…八月十八日に大英博物館を訪れまして――」

 アンリは、Room61と学芸員室での出来事にかけて、重要ポイントを抽出して簡潔に述べていった。彼女の自己話が終わると、ルイス教授は新しい紅茶を淹れに席を立た。これからこの人の生徒になる運命なだけに、この沈黙は非常に息苦しいかった。変人のレッテルを貼られた学内生活じゃ、今までと変わらない。致命的な失態を招いてしまっただろうか。一分ほどの沈黙の後、教授が口を開いた。

「依頼主のミイラから、君は身元調査と館長への交渉を頼まれたと。真に興味深い話だ。――遺贈ミイラが来る日はいつだね?」

「運ばれてくるのは、今月の三一日ですが、その時、アノクはもう倉庫の方に」

「十一日以内か、そいつは急がなければならないな」

「信じてくれるんですか」

「君が正常者であることは入試結果で証明されていることだ。それに、君が転生者なら非常に興味をそそられる」

「転生者?」

「スタンフォードくんは、オンム・セティを知っているかね」

「オンム・セティ?ああ、ドロシー・イーディーですね。知っています」

 オンム・セティは、古代エジプトのファラオセティ一世に寵愛された巫女ベントレシャイの転生人と云われている女性考古学者である。彼女は三歳の時、階段の転落事故を機に、古代の記憶が呼び醒まされたと語られている。

「私は、単にミイラと対話する能力があるだけで、古代の知識も記憶も皆無です。転生人なんかじゃありませんよ」

 六日間ヘンな夢は見続けたけど、もうなくなったし。きっと本を読み漁った影響だったのだ。転生人でなかったら、嘘言症か統合失調症かと疑念をもたれる素質だが、ママも転生人というわけではなかったようだし。スタンフォード家の母子は、宇宙人に匹敵する今世紀最大の謎の生命体といえる。

「古代語を知らないのに、ミイラと会話できるというのかね?」

「はい」

「君の耳は、翻訳機能が備わっているのか?」

「さあ、自分でも分かりません」

「興味深い。私はエル=クルナのミイラより、君を徹底解剖したいよ」

 ルイス教授の口から、ホームズに興味を惹かれたワトソンが友人スタンフォードに言ったようなセリフが飛び出したので、アンリは二重に驚いた。

「教授、協力していただけるのであれば、アノクの調査を優先に」

「ああ、もちろん。協力するよ」

「ありがとうございます」

 専門家の協力を得られたのは心強い。真意はどうあれルイス教授、いい人。私を研究対象にしない限りは。現段階では、能力のことを打ち明けて正解だったといえる。自分ひとりじゃ、限界がくるだろうしね。

「博物館の資料を預からせてもらっていいかい。――こちらでも、至急当たってみよう」

「お願いします」

 アンリはルイス教授と番号を交換して、ランチとアノクへの報告を兼ねて大英博物館に戻っていった。











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